トイレのミネルヴァは何も知らない

加瀬優妃

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放課後 ~後日談~

約束の日・その後(後編)

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「うっ……うっ……」

 セミダブルのベッドが二つ並んだ寝室。間に置かれたミニテーブルの上には、銀色の四角いデジタル時計が置かれていた。『11:15』を表示している。
 奥のベッドは綺麗なままで布団がめくられた様子はない。中央と端がわずかに凹んでいるのみである。

 そして手前のベッドには……こんもりと丸い膨らみができていた。その隙間から、少女の呻き声が聞こえてくる。

「うう……酷い……」
「……ごめん」

 寝室と和室を繋ぐ扉は開けられている。浴衣姿の青年は座椅子の上で胡坐をかいている。口では謝っているが悪いとは思っていないようで、うっすらと微笑みながら布団の小山を眺めている。

「旅館の朝御飯……すごく美味しいって……」
「うん、美味しかった」
「食べたかったのに……酷い~~」

 少女の恨みがましい声が青年の耳にも届く。丸い布団の小山がプルプル震えていて、中で少女が身じろぎしているのだろう。

「だって莉子、死んだように眠ってたから。そっとしておこうと思って」
「誰のせいだと……あうっ!」

 ガバッと布団をめくりあげて勢いよく身体を起こした少女が、ビキッと身体を強張らせた。ゆらりと傾ぐ。
 そしてそのまま、少女は再び布団の海に沈みこんでしまった。「うう」と呻きながら枕に突っ伏してしまう。

 青年は押さえきれない笑みを隠すように右手で口元を押さえながら立ち上がる。そしてゆっくりと、少女が倒れているベッドに近寄った。
 ベッドの上の方の端に座り、すぐ傍まで流れている黒髪を指で梳く。

「大丈夫?」
「大丈夫じゃない……あちこち痛い……」
「うーん」
「だから私、言ったのに……何回も……」
「何を?」
「すっとぼけないでよ! いや、やめて、もう無理って何回も言ったでしょー!」
「あー、うん」

 少女が振り絞るような声で叫ぶ。何回も言った、というのは本当らしく、声が枯れている。顔だけ上げ、恨みがましい目で少女が青年の顔を見上げた。

 その視線を受け止めた青年は痛くも痒くもないようだ。可愛くてたまらない、という顔で優しく少女の頭を撫でた。
 少女はその手を払いのけようと右腕を上げたが、思うように動かせず力尽き、結局青年にされるがままになっている。ますます悔しそうな顔で唇をひん曲げた。

「う~~!」
「莉子、一つ教えておいてあげよう」

 青年が少女の頬を撫でた。客観的には動けない少女にイタズラしているようにしか見えないが、青年はひどく真面目くさった顔をしている。

「ベッドの上では、国語の文法は変わるんだよ」
「……はぁ?」
「『いや』は『いい』になるし、『やめて』は『やめないで』になる」
「大嘘をつくなー!」
「あながち間違ってはいないんだけどな」

 青年はひどく上機嫌に笑うと、倒れている少女の身体を抱き起こした。浴衣の襟元と裾を整え、両腕でひょいと抱き上げ、自分の膝の上に乗せる。

「とりあえずお風呂入ろうか」
「うん。……ってちょっと待って、何する気?」
「お風呂に入れてあげようかと」
「結構です!」

 少女は右手で自分の浴衣の襟元をギュッと掴んだ。その様子を見た青年が「おや」とでも言うように小首を傾げる。

「そもそも浴衣を着せてあげたのは俺なのに……」
「それも許せないの!」
「だって莉子、意識が無かったから。そのままだと風邪を……」
「だから、それもこれもアンタのせいでしょうが!」

 少女が顔を真っ赤にし、青年の胸をポコポコ叩きながらギャンギャン叫ぶが、青年は一向に気にしない。むしろ「もっとやって」とでも言いたげだ。

「良かった、莉子が元気で。……ただ、もう少しこう、ムーディでまったりした朝を想像してたんだけど」
「適度に終わらせてくれれば私だってそうなる筈だったよ……」
「適度って、そんな事務的に。淋しいなー」
「このぉ、能天気が……これだから体育会系は……」
「うーん、じゃあ今夜はもうちょっと手加減する」
「えっ!? 今夜!?」
「うん」

 当たり前でしょ、とでも言うように力強く頷く青年。
 少女はぽかんと口を開けたままゆっくりと青年を見上げ、唇をわなわなと震わせた。目が大きく見開き、顔がさっと青ざめる。ぷるぷると首を横に振った。

「む、無理。死んじゃう」
「うーん、それも殺し文句だね。文法が……」
「お願いだから、ちゃんと話を聞いてー!」
  

 山奥の秘湯の小さな一軒家に、少女の悲鳴がこだました。


   ◆ ◆ ◆


 あー、えーと。
 皆さん、こんにちは。どうにか自分の口で語るぐらいには回復した、仁神谷莉子です。
 まぁ、簡単にね。旅行のその後の様子など報告しようかな、と思います。

 3月4日の午後は、旅館で作ってもらったお弁当を持って、前日にチェックしていたハイキングコースに行ってきました。
 朝……いやもう昼ですが、あの時は身体バキバキで本当に動けるのか不安だったけど、温泉に入ったらかなり良くなりました。

 あ、勿論一人で入りましたよ! 足ガクガクで本当に参りましたが、どうにかなりました。
 若いですからね! それにこの一年半、掃除婦として足腰は鍛えていましたから! 体力にも自信はあるし!

 なのに……あの男は化け物か……。ああ、眩暈がする。
 私の最後の記憶では、デジタル時計が4:05を指していたような……。無理だよ、そこから7時に起きるなんて! あの状態で!
 ううう、旅館の朝ご飯……。
 良い子の私は新聞配達を辞めてからも夜の10時には寝ていたから、ただでさえ体内時計が狂って、もう、本当に……。

 ……感想? 言えるか――!
 聞かないで。聞かないでください。ってーか、絶対に聞くな!
 こればかりは、恵に聞かれても私は絶対に口を割らないから!

 まぁそんな訳で、さらーっと流しまして。
 
 ハイキングは楽しかったですよ。旅館から遊歩道を歩いていくと、ゴーッという滝の音が聞こえるんですよ。左手に獣道みたいな何の整備もされていない道があって、その奥から聞こえるんです。
 あまりにも草木がボウボウで無造作だから、本当にこの先にあるのか、このまま遭難するんじゃないかと不安だったんですけどね。旅館の方に頂いた地図は正しかった。

 樹々を抜けると急にパアッと開けて、石がゴロゴロしていて岩肌がゴツゴツしている沢に出るんですよ。
 その奥に滝はありました。そんなに高さは無かったけど、その辺りだけ気温が下がった気がする。
 滝ってマイナスイオンが発生するんだっけ? とにかく、身も心もすっかり浄化されたような、素晴らしい心地良さがありました。

 ……いや、別に穢れた訳ではないと思うけど……。何というか、その……。
 何だろうね、この喪失感。
 あ、駄目、すぐそっちに引っ張られてしまう。
 でぇーい、忘れましょう! 忘れて下さい! お願いします!

 で、本日3月5日の昼過ぎ、私達は帰ってきました。
 ……え? 何か飛んでるって? 気のせいですよ。
 ちゃんと旅館の朝ご飯を食べて、10時にチェックアウトしてそのまま真っすぐ戻りました。

 ……と言いたいところですが、そうすんなり行く訳はなく。
 やっぱり一悶着ありました。新川透にマンションに連れ込まれそうになったんですよ。
 あ、お見通し? ですが当然、全力で阻止しましたよ。

「いいから来い」
「やだ、お家に帰してよー!」

……と本当に誘拐事件か、みたいなやり取りをしたあと、最終的には
「いい加減にしろ!」
と脳天チョップをかましておきました。

 だって、絶対バカになってるもん。新川透は!
 ずっと異常に機嫌がいいし! 何言っても全然怒らないし! めちゃくちゃ笑ってるし!

 だいたい、私は明日の金曜日は普通に仕事なのよ。動けなくなったらどうしてくれるのよ。
 それは新川透も同じはずなのにな。本当に元気だな、あの人……。
 そう言えば、初めて泊まったときも朝から爽やかで元気だったっけ。ちょっと羨ましい。

 聞いたところによると、新川透はショートスリーパーなのだそうだ。一日4時間も寝れば十分で、2時間ぐらいの睡眠でも全然問題ないらしい。
 いや、そんな人とタイマン張れませんから……。お願いだから手加減して……。

 ああ、それより明日、山田さん達に会ったらどんな顔をしたらいいんだろう。
 おばちゃん達ってそっとしておいてくれないからなあ。


 ……とまぁ、細かい悩みは尽きませんが、どこかスッキリしたというか。
 自分の居場所を見つけたというか。
 ああ、私は私で、そのままでいいんだ、とやっと思えたというか。


 天国のお母さん。
 お母さんがいなくなってから、いろいろ……本当にいろいろあって、凹んだり意地を張ったり馬鹿なこともしたりしたけど。
 でも、この人のおかげで楽に息ができるようになって、幸せを感じることができるようになって……。
 そして私は一つ、大人になりました。

 お母さんは、新川透について何て言うだろう?
 うーん、「変人だね」とかズバッと言いそう。そういうとこ、容赦ないから。
 でも、きっと「莉子、良かったね」って言ってくれる。

 ……会わせたかったな、お母さんに。



――――――――――――――――――――――――
 次回、最終話です。

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