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収監令嬢・アフターエピソード
聖女の幻影・前編
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お父さまは、私が嫌いなの。お兄さまも、私が嫌いなの。
私……私が、お母さまを殺しちゃったから。
「なんてことを仰るんです。誰がそんなことを?」
だって、みんな言ってるわ。呪われた令嬢だって。
私が生まれたから、お母さまが死んじゃったって。
お母さまの魔精力を食べつくして、だから、私が生まれたんだって。
ねぇアイーダ先生、だから私はこんなに離れたところでひとりぼっちなの?
「ひとりぼっちではないですよ。わたくしがおります」
え……誰?
「ヘレンです。お忘れですか?」
ヘレン! ああ……ヘレン!
ヘレンだけは、いつも傍にいてくれたわね。
お兄さまににらまれて立ちすくんじゃったときも、お父さまに知らんぷりをされて泣いちゃったときも、ヘレンだけは私の手をとって抱きしめて頭を撫でてくれた。
アイーダ女史とヘレンだけね。私のことを気にかけてくれるのは。
私が今この離れの塔で死んじゃったら、二人だけは悲しんでくれる?
「そんなことおっしゃらないでください、マリアンセイユ様。わたくしまで悲しくなってしまいます」
「そうですよ。悲観的な言葉は心をも蝕みます。自分に暗示をかけてはいけません」
ごめんなさい、ヘレン。
ごめんなさい、アイーダ女史。
もう……言わないわ。
お行儀よくしていたら、お父さまはお話ししてくださるかしら。
お勉強をがんばったら、この塔から出してくれるかしら。
外に出て、いろんな人とおしゃべりして、お友達もできるかしら……。
* * *
「……えっ」
アンネリィエ・リンドブロムは自分のベッドの上でゆっくりと目を開けた。首だけ右側へと傾け、奥の方をぼんやりと眺める。
レースのカーテンの向こうがわずかに明るい。昇り始めた太陽の光が、ロワーネの森に面した窓から差し込んでいるようだ。
上半身を起こし、アンネリィエは自分のまわりを見回した。
いつも眠っている、お気に入りのベッド。真っ白な枕はふかふかで、薄いピンク色のシーツは柔らかくて、お日様の匂いがして。
メイドに本を読んでもらいながら、アンネリィエはいつものように気持ちよく眠りについたはずだった。
――『私』はどうして泣いていたの? わたしにはおにいさまなんていない。おとうさまはいつも優しいし、みんなとおしゃべりだってしてる。お友達のレイナもときどき大公宮に遊びに来てくれるし、毎日楽しく過ごしているのに。
まだ五歳の彼女は、いま見た夢が何だったのか、全くわからなかった。
ただ、胸が押し潰されそうに苦しくなって、どうしようもなく寂しくて、悲しくて。
目からは涙が溢れ、目尻から頬へ、そして耳の下へと伝っている。
お気に入りの枕はじっとりと濡れていた。シーツもギュッと握っていたせいか、それとも寝苦しさに暴れてしまったのか、ひどくよれて一部めくれており、しわしわになっている。
「……ひっく」
もう夢は見ていないのに、悲しい気持ちはアンネリィエの中から無くならなかった。
あとからあとから涙が溢れてきて、アンネリィエは小さな手で自分の両目を何度も擦った。
〝……〟
「……え?」
ふと、どこからともなく声が聞こえたような気がして、アンネリィエは顔を上げた。
瑠璃色の髪が肩で弾み、祖母譲りの水色の瞳がきょときょとと泳ぐ。
「……?」
いつの間にか、涙は止まっていた。
アンネリィエはベッドから飛び降りると、裸足のままふらふらと歩き出した。
* * *
どこまでも美しい緑の、ふかふかした草の絨毯。すべすべした丸い葉っぱがたくさん生い茂った樹々に囲まれた庭。左手から奥の方には、蒼くも碧くもある泉が広がっている。
その真ん中で三日月のような白い飾りのついた杖を振るいながら舞う、真っ白な衣装を着た女性がいた。
昇り始めた太陽の光を受けて、女性の額につけられた銀色の輪がきらりと光る。女性の動きに合わせて銀糸で刺繍された腰布がひらひらと舞う。
地面にも届きそうな長い藤色の髪が翼を広げた鳥のように広がり、しらじらと夜が明け始めた空に溶けていくよう。
ゆらゆらと舞うその姿からは真珠色の光が溢れていて、この世の者とは思えないほど眩かった。
女性の両隣には、この幻想的な場には不釣り合いなぐらい大きな、灰色の二匹の狼が佇んでいる。
アンネリィエを一飲みしそうなぐらい大きな口。鋭く光る、碧色の瞳。普通の狼より数倍大きい、屈強な体躯。
彼らは草の絨毯の上に腰を下ろし、じっと女性の舞を見つめている。
絵本で見た〝妖精の女王〟と〝狼の魔獣〟みたい、とアンネリィエは思った。
淋しがり屋の〝妖精の女王〟。悪い子の前に現れて、楽しいところに行きましょう、と手を差し伸べる。その手を掴んでしまうと、魂を連れ去られてしまうのだ。
むかしむかし、地上を焼き尽くし、暴虐の限りを尽くした〝狼の魔獣〟。魔王の配下としてあまたの人間を葬り去った、鈍色の地獄の使者。
しかし不思議なことに、アンネリィエはまったく怖いとは思わなかった。
大きく口を開けたまま、瞬きもせずにその不思議な光景を眺めていた。
〝……っ……〟
杖の三日月が美しいグラデーションを描く空の中で、ピタリと止まる。
長い藤色の髪の女性が、ふと舞うのをやめた。ゆっくりと、アンネリィエの方へと振り返る。
呼吸が止まりそうになるほど麗らかで神々しい姿だった。立ち尽くしていたアンエリィエと、はたと目が合う。女性の瞳が、ゆっくりと大きく見開いてゆく。
「ご……ごめんなさい!」
我に返ったアンネリィエは、咄嗟に謝った。自分が覗いたせいで女性の舞を邪魔してしまった、と思ったからだ。
しかし、女性はゆっくりと首を横に振った。その美しいエメラルドグリーンの瞳が、優しい弧を描く。
そして右手の人差し指を、そうっと自分の唇に押し当てて。
〝……これは夢。ナイショよ〟
* * *
「アンネリィエ様、おはようございます」
いつもの朝。アンネリィエ付きのメイドが扉をノックして声をかける。
普段であれば、これぐらいで目が覚めるアンネリィエではない。
しかし、今朝は違っていた。
「え、あ……あれっ!?」
ぱっちり目が開き、何度も瞬きをする。
アンネリィエはぴょんと跳ね起きて、辺りを見回した。
ふかふかの白い枕、お気に入りのピンクのシーツ。涙のあとはどこにもなく、しわしわにもなっていない。
「あれっ、あれー?」
小さい手の平で枕をぐいぐい押してみる。次にガバッと勢いよくふとんをめくってみるが、おかしなところは何もない。
そしてあれほど苦しかった胸も、何とも無い。澄み渡った空のようにすっきりとしている。
ふと、ベッドの傍らのサイドテーブルの上に青い表紙の絵本が置かれているのを見つけた。
三十年前のリンドブロム大公国を舞台にした、〝二人の聖女〟の物語。ゆうべ寝る前にメイドが読んでくれたものだった。
手を伸ばし絵本を引き寄せて膝の上に乗せると、アンネリィエは終わりの方のページをパラリとめくってみた。
字が書いてあるが、幼いアンネリィエにはまだよくわからない。
しかしその開かれたページに描かれていたのは、月光龍を見上げる『魔物の聖女』と『二匹の護り神』。
その瞬間、アンネリィエの脳裏に白い三日月の杖を持って踊る女性の姿が浮かび上がった。
そして、この絵本より数倍大きくなっている狼の姿も。
「アンネリィエ様。起きてらっしゃるのなら早くベッドから出てきてくださいませ」
アンネリィエの部屋に入ってきたメイドがそう声をかけると、アンネリィエは
「聖女さまだ! 聖女さまに会ったわ!」
と叫びながらベッドから飛び出した。
その胸には、青い表紙の絵本がしっかりと抱えられている。
「アンネリィエ様、何をおっしゃってるんです?」
朝から興奮気味のアンネリィエに、メイドは盛大に首を傾げてしまった。
アンネリィエは愛嬌のある朗らかな姫ではあるが、あくまでも大公女。現リンドブロム大公の第一子。
その類い稀なる魔精力を見込まれ、リンドブロム大公国においてはおよそ三百年ぶりの女性大公世子だった。
次代の大公となる立場のため、勉強から礼儀作法まで厳しくしつけられている。このような行儀の悪い振る舞いをするような少女ではない。
「だから、聖女さまに……」
「今日、これからですよね? お会いになるのは」
「え?」
今度はアンネリィエの方が首を傾げてしまう。その様子を見て、メイドは「本当にどうしたことでしょう」と呟きながら溜息をついた。
「本日はミーア聖后さまにお招きされておりましたでしょう? さあ、早くお支度を整えないと」
ミーア聖后――現リンドブロム大公の生母で、先代大公ディオンの『聖妃』。三十年前に正妃マリアンセイユ・フォンティーヌと『聖女』を分け合い、人の未来を任された『聖女の再来』、『人の聖女』。
民衆の前に立つその姿は、人々の希望の証。穏やかなその微笑みは民を癒し、魔物すら癒すと言われた祖母。
しかし大公宮の中ではいたって普通の、謙虚で親しみやすい人柄の女性だった。
前大公や近衛部隊、皆が支えてくれるから自分があるのだと。
平民育ちで男爵家から大公妃となったミーアは常日頃からそう話し、感謝と笑みを忘れない。
いつまでもあどけない、少女のようなミーア聖后。アンネリィエは、この祖母が大好きだった。
しかし、「そっちの聖女じゃなくて……」と言いそうになって、アンネリィエはふと口をつぐんだ。
そう言えば、『ナイショよ』って。誰にも言っちゃ駄目なんだわ。
『魔物の聖女』――絵本の中の、あの女の人がそう言っていたのだもの。
〝魔物の聖女……?〟
胸の奥底で、夢の少女の声がする。まるで、アンネリィエの心の声に応えるかのように。
アンネリィエは絵本を開いた。
先ほど見た、聖女と二匹の狼が描かれたページ。そしてその右手には、真っ白な巨大な龍。
(そうよ、この絵本の女の人だったわ)
〝聖女マリアンセイユは月光龍と共に……えっ!?〟
(えっ!?)
〝どうして?〟
(どうしてこの絵本の字が読めるの?)
〝マリアンセイユは、私……〟
(わたしはアンネリィエ・リンドブロムよ)
〝アンネリィエ……?〟
(あれっ? 変な夢を見たからよくわかんなくなっちゃった)
〝あれは、夢? ……悪い夢?〟
(そうよ)
〝夢……〟
胸の奥に広がる空想の世界。
真っ暗闇で何も見えない中、アンネリィエは両腕を広げた。声だけの少女をそっと抱きしめる。
〝ああ……よかった……〟
実像と虚像、光と影のようにぶれが生じてしまったかのような少女。別々の動きを見せていた心が、ようやくぴたりと重なり合い、ゆっくりと溶け合ってゆく。
「アンネリィエ様、はやくお顔を洗ってくださいな」
気が付けばメイドが洗面器にぬるま湯を張り、タオルと髪を梳く櫛を持って待ち構えている。
「はい!」
絵本をとりあえずサイドテーブルの上に置くと、アンネリィエはいつものように元気に返事をし、メイドの方へと駆けていった。
窓から差し込む温かい日差しが、二人の聖女が描かれた青い表紙を明るく照らしていた。
私……私が、お母さまを殺しちゃったから。
「なんてことを仰るんです。誰がそんなことを?」
だって、みんな言ってるわ。呪われた令嬢だって。
私が生まれたから、お母さまが死んじゃったって。
お母さまの魔精力を食べつくして、だから、私が生まれたんだって。
ねぇアイーダ先生、だから私はこんなに離れたところでひとりぼっちなの?
「ひとりぼっちではないですよ。わたくしがおります」
え……誰?
「ヘレンです。お忘れですか?」
ヘレン! ああ……ヘレン!
ヘレンだけは、いつも傍にいてくれたわね。
お兄さまににらまれて立ちすくんじゃったときも、お父さまに知らんぷりをされて泣いちゃったときも、ヘレンだけは私の手をとって抱きしめて頭を撫でてくれた。
アイーダ女史とヘレンだけね。私のことを気にかけてくれるのは。
私が今この離れの塔で死んじゃったら、二人だけは悲しんでくれる?
「そんなことおっしゃらないでください、マリアンセイユ様。わたくしまで悲しくなってしまいます」
「そうですよ。悲観的な言葉は心をも蝕みます。自分に暗示をかけてはいけません」
ごめんなさい、ヘレン。
ごめんなさい、アイーダ女史。
もう……言わないわ。
お行儀よくしていたら、お父さまはお話ししてくださるかしら。
お勉強をがんばったら、この塔から出してくれるかしら。
外に出て、いろんな人とおしゃべりして、お友達もできるかしら……。
* * *
「……えっ」
アンネリィエ・リンドブロムは自分のベッドの上でゆっくりと目を開けた。首だけ右側へと傾け、奥の方をぼんやりと眺める。
レースのカーテンの向こうがわずかに明るい。昇り始めた太陽の光が、ロワーネの森に面した窓から差し込んでいるようだ。
上半身を起こし、アンネリィエは自分のまわりを見回した。
いつも眠っている、お気に入りのベッド。真っ白な枕はふかふかで、薄いピンク色のシーツは柔らかくて、お日様の匂いがして。
メイドに本を読んでもらいながら、アンネリィエはいつものように気持ちよく眠りについたはずだった。
――『私』はどうして泣いていたの? わたしにはおにいさまなんていない。おとうさまはいつも優しいし、みんなとおしゃべりだってしてる。お友達のレイナもときどき大公宮に遊びに来てくれるし、毎日楽しく過ごしているのに。
まだ五歳の彼女は、いま見た夢が何だったのか、全くわからなかった。
ただ、胸が押し潰されそうに苦しくなって、どうしようもなく寂しくて、悲しくて。
目からは涙が溢れ、目尻から頬へ、そして耳の下へと伝っている。
お気に入りの枕はじっとりと濡れていた。シーツもギュッと握っていたせいか、それとも寝苦しさに暴れてしまったのか、ひどくよれて一部めくれており、しわしわになっている。
「……ひっく」
もう夢は見ていないのに、悲しい気持ちはアンネリィエの中から無くならなかった。
あとからあとから涙が溢れてきて、アンネリィエは小さな手で自分の両目を何度も擦った。
〝……〟
「……え?」
ふと、どこからともなく声が聞こえたような気がして、アンネリィエは顔を上げた。
瑠璃色の髪が肩で弾み、祖母譲りの水色の瞳がきょときょとと泳ぐ。
「……?」
いつの間にか、涙は止まっていた。
アンネリィエはベッドから飛び降りると、裸足のままふらふらと歩き出した。
* * *
どこまでも美しい緑の、ふかふかした草の絨毯。すべすべした丸い葉っぱがたくさん生い茂った樹々に囲まれた庭。左手から奥の方には、蒼くも碧くもある泉が広がっている。
その真ん中で三日月のような白い飾りのついた杖を振るいながら舞う、真っ白な衣装を着た女性がいた。
昇り始めた太陽の光を受けて、女性の額につけられた銀色の輪がきらりと光る。女性の動きに合わせて銀糸で刺繍された腰布がひらひらと舞う。
地面にも届きそうな長い藤色の髪が翼を広げた鳥のように広がり、しらじらと夜が明け始めた空に溶けていくよう。
ゆらゆらと舞うその姿からは真珠色の光が溢れていて、この世の者とは思えないほど眩かった。
女性の両隣には、この幻想的な場には不釣り合いなぐらい大きな、灰色の二匹の狼が佇んでいる。
アンネリィエを一飲みしそうなぐらい大きな口。鋭く光る、碧色の瞳。普通の狼より数倍大きい、屈強な体躯。
彼らは草の絨毯の上に腰を下ろし、じっと女性の舞を見つめている。
絵本で見た〝妖精の女王〟と〝狼の魔獣〟みたい、とアンネリィエは思った。
淋しがり屋の〝妖精の女王〟。悪い子の前に現れて、楽しいところに行きましょう、と手を差し伸べる。その手を掴んでしまうと、魂を連れ去られてしまうのだ。
むかしむかし、地上を焼き尽くし、暴虐の限りを尽くした〝狼の魔獣〟。魔王の配下としてあまたの人間を葬り去った、鈍色の地獄の使者。
しかし不思議なことに、アンネリィエはまったく怖いとは思わなかった。
大きく口を開けたまま、瞬きもせずにその不思議な光景を眺めていた。
〝……っ……〟
杖の三日月が美しいグラデーションを描く空の中で、ピタリと止まる。
長い藤色の髪の女性が、ふと舞うのをやめた。ゆっくりと、アンネリィエの方へと振り返る。
呼吸が止まりそうになるほど麗らかで神々しい姿だった。立ち尽くしていたアンエリィエと、はたと目が合う。女性の瞳が、ゆっくりと大きく見開いてゆく。
「ご……ごめんなさい!」
我に返ったアンネリィエは、咄嗟に謝った。自分が覗いたせいで女性の舞を邪魔してしまった、と思ったからだ。
しかし、女性はゆっくりと首を横に振った。その美しいエメラルドグリーンの瞳が、優しい弧を描く。
そして右手の人差し指を、そうっと自分の唇に押し当てて。
〝……これは夢。ナイショよ〟
* * *
「アンネリィエ様、おはようございます」
いつもの朝。アンネリィエ付きのメイドが扉をノックして声をかける。
普段であれば、これぐらいで目が覚めるアンネリィエではない。
しかし、今朝は違っていた。
「え、あ……あれっ!?」
ぱっちり目が開き、何度も瞬きをする。
アンネリィエはぴょんと跳ね起きて、辺りを見回した。
ふかふかの白い枕、お気に入りのピンクのシーツ。涙のあとはどこにもなく、しわしわにもなっていない。
「あれっ、あれー?」
小さい手の平で枕をぐいぐい押してみる。次にガバッと勢いよくふとんをめくってみるが、おかしなところは何もない。
そしてあれほど苦しかった胸も、何とも無い。澄み渡った空のようにすっきりとしている。
ふと、ベッドの傍らのサイドテーブルの上に青い表紙の絵本が置かれているのを見つけた。
三十年前のリンドブロム大公国を舞台にした、〝二人の聖女〟の物語。ゆうべ寝る前にメイドが読んでくれたものだった。
手を伸ばし絵本を引き寄せて膝の上に乗せると、アンネリィエは終わりの方のページをパラリとめくってみた。
字が書いてあるが、幼いアンネリィエにはまだよくわからない。
しかしその開かれたページに描かれていたのは、月光龍を見上げる『魔物の聖女』と『二匹の護り神』。
その瞬間、アンネリィエの脳裏に白い三日月の杖を持って踊る女性の姿が浮かび上がった。
そして、この絵本より数倍大きくなっている狼の姿も。
「アンネリィエ様。起きてらっしゃるのなら早くベッドから出てきてくださいませ」
アンネリィエの部屋に入ってきたメイドがそう声をかけると、アンネリィエは
「聖女さまだ! 聖女さまに会ったわ!」
と叫びながらベッドから飛び出した。
その胸には、青い表紙の絵本がしっかりと抱えられている。
「アンネリィエ様、何をおっしゃってるんです?」
朝から興奮気味のアンネリィエに、メイドは盛大に首を傾げてしまった。
アンネリィエは愛嬌のある朗らかな姫ではあるが、あくまでも大公女。現リンドブロム大公の第一子。
その類い稀なる魔精力を見込まれ、リンドブロム大公国においてはおよそ三百年ぶりの女性大公世子だった。
次代の大公となる立場のため、勉強から礼儀作法まで厳しくしつけられている。このような行儀の悪い振る舞いをするような少女ではない。
「だから、聖女さまに……」
「今日、これからですよね? お会いになるのは」
「え?」
今度はアンネリィエの方が首を傾げてしまう。その様子を見て、メイドは「本当にどうしたことでしょう」と呟きながら溜息をついた。
「本日はミーア聖后さまにお招きされておりましたでしょう? さあ、早くお支度を整えないと」
ミーア聖后――現リンドブロム大公の生母で、先代大公ディオンの『聖妃』。三十年前に正妃マリアンセイユ・フォンティーヌと『聖女』を分け合い、人の未来を任された『聖女の再来』、『人の聖女』。
民衆の前に立つその姿は、人々の希望の証。穏やかなその微笑みは民を癒し、魔物すら癒すと言われた祖母。
しかし大公宮の中ではいたって普通の、謙虚で親しみやすい人柄の女性だった。
前大公や近衛部隊、皆が支えてくれるから自分があるのだと。
平民育ちで男爵家から大公妃となったミーアは常日頃からそう話し、感謝と笑みを忘れない。
いつまでもあどけない、少女のようなミーア聖后。アンネリィエは、この祖母が大好きだった。
しかし、「そっちの聖女じゃなくて……」と言いそうになって、アンネリィエはふと口をつぐんだ。
そう言えば、『ナイショよ』って。誰にも言っちゃ駄目なんだわ。
『魔物の聖女』――絵本の中の、あの女の人がそう言っていたのだもの。
〝魔物の聖女……?〟
胸の奥底で、夢の少女の声がする。まるで、アンネリィエの心の声に応えるかのように。
アンネリィエは絵本を開いた。
先ほど見た、聖女と二匹の狼が描かれたページ。そしてその右手には、真っ白な巨大な龍。
(そうよ、この絵本の女の人だったわ)
〝聖女マリアンセイユは月光龍と共に……えっ!?〟
(えっ!?)
〝どうして?〟
(どうしてこの絵本の字が読めるの?)
〝マリアンセイユは、私……〟
(わたしはアンネリィエ・リンドブロムよ)
〝アンネリィエ……?〟
(あれっ? 変な夢を見たからよくわかんなくなっちゃった)
〝あれは、夢? ……悪い夢?〟
(そうよ)
〝夢……〟
胸の奥に広がる空想の世界。
真っ暗闇で何も見えない中、アンネリィエは両腕を広げた。声だけの少女をそっと抱きしめる。
〝ああ……よかった……〟
実像と虚像、光と影のようにぶれが生じてしまったかのような少女。別々の動きを見せていた心が、ようやくぴたりと重なり合い、ゆっくりと溶け合ってゆく。
「アンネリィエ様、はやくお顔を洗ってくださいな」
気が付けばメイドが洗面器にぬるま湯を張り、タオルと髪を梳く櫛を持って待ち構えている。
「はい!」
絵本をとりあえずサイドテーブルの上に置くと、アンネリィエはいつものように元気に返事をし、メイドの方へと駆けていった。
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