1話完結ホラー話

夢乃話

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深淵の釣り人

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その湖は、地図には名前が残っているが、地元の人間は誰も口にしない。山あいにあるダム湖で、すでに観光地としては廃れて久しい。釣り人の間では「幻の大魚が棲む」と噂されているが、実際に足を運ぶ者は少ない。いや、少ないのではなく、戻ってこないのだと囁かれている。

 山崎徹は、そうした噂を鼻で笑う側の人間だった。二十年以上竿を握ってきたベテランであり、誰も釣ったことのない大物を仕留めることこそ、自分の釣り人生の総仕上げだと考えていた。だから夏の終わりの週末、彼は一人でボートを借り、御影湖へ漕ぎ出したのだ。

 昼間の湖はただ静かだった。鳥の声も、虫の音もほとんどなく、山を吹き渡る風すら弱い。だが山崎にはそれが好都合だった。水面は穏やかで、仕掛けを投じるには理想的だった。魚群探知機にはほとんど反応がなく、生命感のない水面に一抹の不安を覚えたが、彼は気にも留めず竿を構えた。

 日が沈むと、不安は静かに膨らんでいった。西の空が墨のように濃く染まり、湖面は鏡のように月を映す。街灯もなければ、近くの道路を走る車の音もない。山崎は自分の吐息と心臓の鼓動しか聞こえなかった。それでも、彼は竿を手放さなかった。今夜こそ、噂の魚を釣り上げる――その執念が恐怖を押しのけていた。

 竿先が震えたのは、深夜に差しかかる頃だった。反射的にリールを巻く。次の瞬間、強烈な引きが竿をしならせ、ボートが揺さぶられた。思わず山崎は声を上げた。長年の経験でも味わったことのない重みだった。糸が悲鳴のように軋み、湖面の下で巨大な影が暴れる。確信した。これだ、これこそが幻の大魚だ。

 だが一向に浮かんでこない。どれほど巻いても、影は深みから姿を見せなかった。糸を緩めれば一気に引き込まれ、締めれば締めるほど反動が強くなる。格闘は一時間以上続いた。腕は痙攣し、背中は汗でびっしょりになり、頭が朦朧としながらも、彼は竿を離さなかった。獲物を仕留める瞬間の興奮が、すべての疲労を忘れさせていた。

 その時だった。湖底から低いうなりのような音が響いた。大地そのものが鳴っているような、耳ではなく骨に直接届く震動。湖面が急に波立ち、ボートが大きく揺れた。リールが逆回転し、竿が折れそうにしなる。山崎は必死に体勢を立て直そうとしたが、すぐに気づいた。これは魚の動きではない。

 引かれている。湖の底から何かが、自分を引きずり込もうとしている。

 恐怖に突き動かされて竿を放そうとしたが、手が離れなかった。まるで掌と竿が一体化してしまったかのように、皮膚が粘つき、筋肉が勝手に握り込んでいる。力を込めれば込めるほど、骨の奥で何かが竿に吸いつくように固まっていく。

 「やめろ……離せ……!」

 叫んでも無駄だった。ボートがずるずると沖へ引きずられていく。月明かりに照らされる湖面が、異様な速さで流れていく。波が立ち、飛沫が顔に叩きつけられる。だが周囲には誰もいない。声を張り上げても返事はなく、ただ湖が呻く音だけが響いていた。

 足元で何かが動いた。覗き込むと、ボートの床板が湿って膨れ、そこから無数の細い糸のようなものが生えていた。それは竿に絡みつき、山崎の腕に巻きつき、皮膚に食い込んでいた。糸は冷たく湿り、魚の粘液のようにぬめっていた。

 「やめろ! 助けてくれ!」

 もがけばもがくほど、糸は増え、腕から肩、胸へと這い上がる。冷たい感触が皮膚の下にまで侵入していくのが分かった。胃が捻じ切られるような吐き気を堪えながら、山崎は最後の力で竿を湖面へ投げ込んだ。

 その瞬間、湖が口を開いた。

 暗闇の水面がぱっくりと割れ、そこに巨大な眼が覗いていた。魚とも人ともつかぬ異形の眼。黄ばみ、濁り、無数の血管が走り、瞳孔は縦に裂けていた。その眼が山崎を見つめた途端、体の自由が完全に奪われた。糸は一斉に締まり、彼の体を湖面へと引きずり込んだ。

 口いっぱいに冷たい水が流れ込み、肺が焼けるように苦しかった。必死に暴れるが、糸は筋肉と骨を貫通し、体を操り人形のように動かす。視界の端で、巨大な影が口を開いた。無数の牙が渦を巻くように並び、その奥は果てのない闇だった。

 最後に聞こえたのは、竿の糸が切れる甲高い音ではなく、自分の骨が砕ける鈍い音だった。

 翌朝、湖畔に浮かんでいたのは空っぽのボートだけだった。竿も、クーラーボックスも、山崎の姿も残っていなかった。ただ湖面には細い糸が幾筋も漂い、風に揺れては水中へ沈んでいった。

 それを目撃した釣り人が後に言った。
 「湖に呼ばれるんだ。大物を釣ろうなんて欲を出した奴は、みんな同じ目に遭う。湖の底には魚なんていない。ただ、釣り人そのものを喰う何かがいるだけだ」

 その噂を聞きながらも、また別の釣り人が御影湖を訪れる。幻の大魚を求めて。湖面は今日も静かに月を映し、その深みで誰かが竿を握るのを待っている。
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