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幼き還り
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山本信司は、四十五歳の営業課長だった。仕事一筋で、部下からは畏れられ、家庭では妻子に距離を置かれていた。彼にとって人生は成果と数字で測るものであり、無駄な感情は不要だった。
だがある日を境に、彼の体に異変が起き始めた。
最初は些細なことだった。朝の出社前、ワイシャツの袖口が妙に長く感じる。腕時計が手首からずり落ちそうになる。鏡を見ると、顔にうっすらと柔らかさが増していた。肌艶が良くなったと喜んだが、それは単なる若返りではなかった。
◆
三日後、会議室でプレゼン中に声が裏返った。高く甲高い声に、社員たちは失笑した。喉を押さえると、声帯そのものが縮んでいるような感覚があった。
「疲れているだけだ」
自分に言い聞かせたが、机に置いた手が小さくなっているのに気づいた。関節が丸みを帯び、爪が小さな半月状に縮まっていた。慌てて袖で隠したが、脳裏に嫌な予感がよぎる。
◆
一週間後、信司はすでにスーツを着られなくなっていた。肩幅は狭まり、脚は短くなり、声は完全に少年のそれに戻っていた。
「どうしてだ……俺は……」
妻に助けを求めようとしたが、彼女は蒼白な顔で震え上がり、子供の姿に変わった信司を受け入れられなかった。
「あなた……誰? 信司さんはどこに行ったの?」
鏡に映る自分を見て、信司は言葉を失った。そこにいたのは十歳にも満たない少年の顔。確かに自分自身だが、何十年も前に失ったはずの幼さを帯びていた。
◆
体が退行するにつれて、記憶も失われていった。仕事の契約内容や数字が曖昧になり、部下の名前すら思い出せなくなる。代わりに蘇るのは、忘れていたはずの幼少期の記憶だった。
真夏の夕方、団地の裏の空き地で、友達を泣かせたこと。ランドセルを投げ捨て、棒で犬を追い払ったこと。母に叱られ、泣きながら布団に潜り込んだ夜。
鮮明に蘇るたびに、胸を締め付けるような後悔が芽生えた。だが体は止まらず縮み続け、ついには五歳児ほどの姿に戻ってしまった。
◆
妻は泣きながら彼を実家に送り返した。彼の両親はすでに亡くなっており、家には誰もいなかった。取り残された小さな信司は、広い部屋の中で独り震えた。
夜になると、聞き覚えのある声が暗闇から響いた。
――おかえり。
「だ……誰だ?」
部屋の隅から現れたのは、見覚えのある子供たちだった。小学校の同級生、夏祭りで一緒に遊んだ近所の子、だがその顔は青白く、目が虚ろに濁っていた。
「お前たち……死んだはず……」
幼い頃、信司は彼らを泣かせ、傷つけ、時には意地悪をして突き放した。転校して以来、二度と会わなかったはずの友たちが、今ここに揃っていた。
――一緒に遊ぼうよ。
――ずっと待ってたんだ。
彼らの小さな手が信司に伸びる。必死に逃げようとしたが、五歳児の足では大人の速度に及ばない。あっという間に囲まれ、引きずり込まれた。
◆
翌朝、妻が実家を訪れると、布団の上には小さな子供服が散らばっているだけだった。夫の姿はどこにもなかった。
ただ、部屋の隅には折り紙やビー玉、泥で汚れた小さな靴が並んでいた。
まるで子供たちが夜通し遊んだ後のように。
妻はその場に立ち尽くし、呟いた。
「あなた……どこまで戻ってしまったの……」
しかし答える声はなく、ただ窓の外から、幼い笑い声がかすかに響いていた。
だがある日を境に、彼の体に異変が起き始めた。
最初は些細なことだった。朝の出社前、ワイシャツの袖口が妙に長く感じる。腕時計が手首からずり落ちそうになる。鏡を見ると、顔にうっすらと柔らかさが増していた。肌艶が良くなったと喜んだが、それは単なる若返りではなかった。
◆
三日後、会議室でプレゼン中に声が裏返った。高く甲高い声に、社員たちは失笑した。喉を押さえると、声帯そのものが縮んでいるような感覚があった。
「疲れているだけだ」
自分に言い聞かせたが、机に置いた手が小さくなっているのに気づいた。関節が丸みを帯び、爪が小さな半月状に縮まっていた。慌てて袖で隠したが、脳裏に嫌な予感がよぎる。
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一週間後、信司はすでにスーツを着られなくなっていた。肩幅は狭まり、脚は短くなり、声は完全に少年のそれに戻っていた。
「どうしてだ……俺は……」
妻に助けを求めようとしたが、彼女は蒼白な顔で震え上がり、子供の姿に変わった信司を受け入れられなかった。
「あなた……誰? 信司さんはどこに行ったの?」
鏡に映る自分を見て、信司は言葉を失った。そこにいたのは十歳にも満たない少年の顔。確かに自分自身だが、何十年も前に失ったはずの幼さを帯びていた。
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体が退行するにつれて、記憶も失われていった。仕事の契約内容や数字が曖昧になり、部下の名前すら思い出せなくなる。代わりに蘇るのは、忘れていたはずの幼少期の記憶だった。
真夏の夕方、団地の裏の空き地で、友達を泣かせたこと。ランドセルを投げ捨て、棒で犬を追い払ったこと。母に叱られ、泣きながら布団に潜り込んだ夜。
鮮明に蘇るたびに、胸を締め付けるような後悔が芽生えた。だが体は止まらず縮み続け、ついには五歳児ほどの姿に戻ってしまった。
◆
妻は泣きながら彼を実家に送り返した。彼の両親はすでに亡くなっており、家には誰もいなかった。取り残された小さな信司は、広い部屋の中で独り震えた。
夜になると、聞き覚えのある声が暗闇から響いた。
――おかえり。
「だ……誰だ?」
部屋の隅から現れたのは、見覚えのある子供たちだった。小学校の同級生、夏祭りで一緒に遊んだ近所の子、だがその顔は青白く、目が虚ろに濁っていた。
「お前たち……死んだはず……」
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――一緒に遊ぼうよ。
――ずっと待ってたんだ。
彼らの小さな手が信司に伸びる。必死に逃げようとしたが、五歳児の足では大人の速度に及ばない。あっという間に囲まれ、引きずり込まれた。
◆
翌朝、妻が実家を訪れると、布団の上には小さな子供服が散らばっているだけだった。夫の姿はどこにもなかった。
ただ、部屋の隅には折り紙やビー玉、泥で汚れた小さな靴が並んでいた。
まるで子供たちが夜通し遊んだ後のように。
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しかし答える声はなく、ただ窓の外から、幼い笑い声がかすかに響いていた。
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