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狭間の章【はじめての依頼】
雨音の正体
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「わっ!」
「は、は? な、なにが……」
彼の耳の中から出てきたなにかに弾き飛ばされていた。
「いったた……ビックリした」
「村雨をいじめるな!」
彼女を突き飛ばしたそのなにかは、カタツムリのような姿をして地面にベシャリと落ちる。そして、声を張り上げた。
「なんだこいつ?」
「わー、わー! 無礼者! 摘まみ上げるな! 縮むだろうが!」
耳から出てきた時点で俺のトラウマを直撃しているため、とても優しくしようとは思えないそのカタツムリを観察する。
普通のカタツムリにしか見えない……周りに人魂っぽいのが漂っているから、怪異なんだなって分かるくらいで。
「はあ、酷い目に遭った。でも、原因は引っ張り出せたから結果オーライ、かな?」
「紅子さん、もしかしてわざと襲おうとしたのか?」
「うん、彼にしか影響を及ぼせないなら、彼の視覚か聴覚か、そういうところに干渉してるんだと思って瞳を覗いたらそいつが見えたんだよ。だから、宿主の身に危険が及べば出てくるだろうって」
「だからってあんな……」
本気で殺すつもりなのかと思ったぞ。
「っていうか、紅子さん! 大丈夫なのかそれ!」
「ああー、本当に酷い目に遭った」
カタツムリの突進を受けただけのはずなのに、紅子さんはほぼ全身びしょ濡れになっている。赤いマントがあるからまだ致命的なことにはなっていないが、正直目のやり場に困る状態だ。
そっぽを向きながら彼女に向けて手を伸ばし、パシリと俺の手を取って立ち上がる彼女はひたひたと足を鳴らしながら「ローファーの中まで濡れてるんだけれど」と呟いた。
「も、もしかして僕を苦しめていたのはこのカタツムリなんですか?」
「そうだよ、そいつがキミに雨が降ってると思わせてたんだ」
「な、なら早く退治してください! 僕もうあんなの嫌なんです!」
「む、村雨! そんなあ!」
「なんで苦しめてたお前が、そんな悲壮な顔してんだよ」
カタツムリの顔なんてよく分かんないけれど。
「退治しないよ。アタシが助けてくれって頼まれたのは、キミの〝雨降り〟の錯覚を治すことだけ。それに、そいつはキミの願い事を叶えようとしてああしてたんだよ。あれは善意だったんだ。だからアタシはなにもしない」
「ぜ、善意!? どういうことですか!?」
「わ、わしはただ、ちっさな頃から神社に来てくれる村雨のお願いを叶えてやりたかっただけじゃ。でも、もうわしには雨を降らせるほどの信仰もないし、体も小さい。神からただの怪異に成り果ててしまった。それでも、願いごとを叶えてやりたくて……」
まさか、それで取った手段が雨が降ってるように見せかけるってことだったのか?
彼の願い事は確かに雨を降らすことだったが、体育祭が嫌だから雨を降らせたかったんだし……彼だけ雨が見えていても意味なんてないのに。
「もしかして、あの神社の神様?」
「今はもう、ただの怪異じゃよ」
神が怪異になることなんて、あるんだな。
「神も怪異も本質は一緒。力の源が人の信仰か、それとも畏れかって違いしかないよ。分かった? お兄さん」
「あ、ああ、なんとなく」
意味は分からないでもない。
「そ、それじゃあもしかして雨降らしさ……ま……」
彼が目を輝かせながらなにかを言おうとした瞬間、紅子さんは剣呑な顔をしてなにかのスプレーを顔面に噴射した。
「村雨!」
「わわっ、紅子さんなにするんだよ!」
目をトロンとさせて倒れる彼を支えて彼女を睨む。
紅子さんは涼しげな顔で、膝を折って彼を受け止めた俺を見下ろした。
「そいつには名前がない。昔はあったんだろうけれど、今はもうね。怪異に名前をつけるなんてご法度、許すわけにはいかないかな」
「なんでだよ。名前くらい」
「名前くらい? 怪異に名前をつけるというのは、とっても危険なんだよお兄さん。姿カタチの曖昧なものを型にはめれば、弱体化することもあるし、手がつけられないほど強くなることだってあるんだ。今、そこの村雨君はカタツムリの怪異を神様として名前を呼ぼうとした。それを認めるわけにはいかないよ。短期間で神から怪異になったり、怪異から神になったりなんてしたら、体が耐えきれずに崩壊するだけだからね」
体が崩壊? そんなことが起こるのか。
更に紅子さんは語った。怪異に名前をつけるということは、親や恋人のようになることを指す。怪異を一番にその名前で呼び、畏れ、信仰する第一の人間。そんなものになってしまえば、怪異を見捨てる選択をしない限り、一生その怪異が付いて回ることになる。子供にそれは酷だ、と。
「まったく、お兄さんはこっち側の世界について知らなさすぎる。そんなんじゃ本当に危ないよ」
「そりゃ……」
ずっと軟禁されていて、人付き合いだって再開したのは最近だからな。
怪異達の世界を勉強する機会なんてなかったんだ。仕方ないだろ。
「そうか、そうじゃな……わしがいては村雨に迷惑か」
「キミも、神社に来る彼を見守るくらいならいいだろうけれど、取り憑くのはやめてあげなよ。結構参ってたみたいだからね。優しさが仇になることもあるんだよ」
「…………」
紅子さんのその言葉に、俺は言葉が出なくなった。
思い出すのは、救おうとして、そして結局それが残酷な優しさとなってしまった青凪さんのことだ。
そういえば、夢の中でも紅子さんは「優しさは利用されるだけ」って言ってたっけ。でも、俺はそんなことを言うのは寂しいと思うんだよな。確かに間違えるときもあるが、彼女みたいに「優しさが罪」とまではどうしても思えない。
「さて、キミも帰りな」
「ああ……村雨には悪いことをしたよ」
「じゃあね」
紅子さんが手を振るが、所詮相手はカタツムリ。全然動かない。
「……紅子さん、神社まで連れてってやらないか?」
「この、お人好し」
「お人好しで結構だ」
カタツムリを手のひらに乗せて神社に向かう。
カタツムリ本人。本人? に任せておけば場所は分かるからな。
「村雨君はどうすればいいんだ?」
「家の中に入れてあげようか」
紅子さんは言いながら、また前みたいに紅い蝶々に変化して壁をすり抜けていく。内側から、鍵の開く音がした。
そうして同じように鍵を閉め、彼女が壁をすり抜けて帰ってくる。
「さっきのスプレーには記憶を混乱させる作用もあるから、もう何事もなく過ごせると思うよ」
「記憶の混乱? それはなんでだ?」
「……アタシ達のことを覚えられても困るから、かな。お兄さんみたいな特殊な人間はともかく、下手な人間に存在がバレて晒されたらたまったものじゃないからねぇ」
「……そうか。怪異の世界も肖像権はあるよな」
「そんなところ。それに、軽いノリで依頼を出されても困るからね。情報精査してるグレムリン達が過労死しちゃうよ」
「そういうものか」
歩きながら考える。
俺もまだまだ知らないことがある。
だから〝こちらの世界〟の常識を、ルールを、覚えなければならないと。
「へっくしゅ」
「大丈夫か?」
「いくら濡れ透けだからって欲情はしないでね」
「誰がするか!」
紅子さんは先輩であると同時に、やっぱり厄介な幽霊だ。
俺はそんなに軽薄じゃないぞ。
「あー、それにしても……お兄さん。彼がやったのが晴れのおまじないじゃなくて良かったね」
「……? なんで晴れだとダメなんだ?」
「だって、雨で耳が壊れそうになったんだから……」
――晴れなんて願ったら、すぐに失明しちゃうよ
その言葉に、俺は今日で一番ゾッとしたのだった。
「は、は? な、なにが……」
彼の耳の中から出てきたなにかに弾き飛ばされていた。
「いったた……ビックリした」
「村雨をいじめるな!」
彼女を突き飛ばしたそのなにかは、カタツムリのような姿をして地面にベシャリと落ちる。そして、声を張り上げた。
「なんだこいつ?」
「わー、わー! 無礼者! 摘まみ上げるな! 縮むだろうが!」
耳から出てきた時点で俺のトラウマを直撃しているため、とても優しくしようとは思えないそのカタツムリを観察する。
普通のカタツムリにしか見えない……周りに人魂っぽいのが漂っているから、怪異なんだなって分かるくらいで。
「はあ、酷い目に遭った。でも、原因は引っ張り出せたから結果オーライ、かな?」
「紅子さん、もしかしてわざと襲おうとしたのか?」
「うん、彼にしか影響を及ぼせないなら、彼の視覚か聴覚か、そういうところに干渉してるんだと思って瞳を覗いたらそいつが見えたんだよ。だから、宿主の身に危険が及べば出てくるだろうって」
「だからってあんな……」
本気で殺すつもりなのかと思ったぞ。
「っていうか、紅子さん! 大丈夫なのかそれ!」
「ああー、本当に酷い目に遭った」
カタツムリの突進を受けただけのはずなのに、紅子さんはほぼ全身びしょ濡れになっている。赤いマントがあるからまだ致命的なことにはなっていないが、正直目のやり場に困る状態だ。
そっぽを向きながら彼女に向けて手を伸ばし、パシリと俺の手を取って立ち上がる彼女はひたひたと足を鳴らしながら「ローファーの中まで濡れてるんだけれど」と呟いた。
「も、もしかして僕を苦しめていたのはこのカタツムリなんですか?」
「そうだよ、そいつがキミに雨が降ってると思わせてたんだ」
「な、なら早く退治してください! 僕もうあんなの嫌なんです!」
「む、村雨! そんなあ!」
「なんで苦しめてたお前が、そんな悲壮な顔してんだよ」
カタツムリの顔なんてよく分かんないけれど。
「退治しないよ。アタシが助けてくれって頼まれたのは、キミの〝雨降り〟の錯覚を治すことだけ。それに、そいつはキミの願い事を叶えようとしてああしてたんだよ。あれは善意だったんだ。だからアタシはなにもしない」
「ぜ、善意!? どういうことですか!?」
「わ、わしはただ、ちっさな頃から神社に来てくれる村雨のお願いを叶えてやりたかっただけじゃ。でも、もうわしには雨を降らせるほどの信仰もないし、体も小さい。神からただの怪異に成り果ててしまった。それでも、願いごとを叶えてやりたくて……」
まさか、それで取った手段が雨が降ってるように見せかけるってことだったのか?
彼の願い事は確かに雨を降らすことだったが、体育祭が嫌だから雨を降らせたかったんだし……彼だけ雨が見えていても意味なんてないのに。
「もしかして、あの神社の神様?」
「今はもう、ただの怪異じゃよ」
神が怪異になることなんて、あるんだな。
「神も怪異も本質は一緒。力の源が人の信仰か、それとも畏れかって違いしかないよ。分かった? お兄さん」
「あ、ああ、なんとなく」
意味は分からないでもない。
「そ、それじゃあもしかして雨降らしさ……ま……」
彼が目を輝かせながらなにかを言おうとした瞬間、紅子さんは剣呑な顔をしてなにかのスプレーを顔面に噴射した。
「村雨!」
「わわっ、紅子さんなにするんだよ!」
目をトロンとさせて倒れる彼を支えて彼女を睨む。
紅子さんは涼しげな顔で、膝を折って彼を受け止めた俺を見下ろした。
「そいつには名前がない。昔はあったんだろうけれど、今はもうね。怪異に名前をつけるなんてご法度、許すわけにはいかないかな」
「なんでだよ。名前くらい」
「名前くらい? 怪異に名前をつけるというのは、とっても危険なんだよお兄さん。姿カタチの曖昧なものを型にはめれば、弱体化することもあるし、手がつけられないほど強くなることだってあるんだ。今、そこの村雨君はカタツムリの怪異を神様として名前を呼ぼうとした。それを認めるわけにはいかないよ。短期間で神から怪異になったり、怪異から神になったりなんてしたら、体が耐えきれずに崩壊するだけだからね」
体が崩壊? そんなことが起こるのか。
更に紅子さんは語った。怪異に名前をつけるということは、親や恋人のようになることを指す。怪異を一番にその名前で呼び、畏れ、信仰する第一の人間。そんなものになってしまえば、怪異を見捨てる選択をしない限り、一生その怪異が付いて回ることになる。子供にそれは酷だ、と。
「まったく、お兄さんはこっち側の世界について知らなさすぎる。そんなんじゃ本当に危ないよ」
「そりゃ……」
ずっと軟禁されていて、人付き合いだって再開したのは最近だからな。
怪異達の世界を勉強する機会なんてなかったんだ。仕方ないだろ。
「そうか、そうじゃな……わしがいては村雨に迷惑か」
「キミも、神社に来る彼を見守るくらいならいいだろうけれど、取り憑くのはやめてあげなよ。結構参ってたみたいだからね。優しさが仇になることもあるんだよ」
「…………」
紅子さんのその言葉に、俺は言葉が出なくなった。
思い出すのは、救おうとして、そして結局それが残酷な優しさとなってしまった青凪さんのことだ。
そういえば、夢の中でも紅子さんは「優しさは利用されるだけ」って言ってたっけ。でも、俺はそんなことを言うのは寂しいと思うんだよな。確かに間違えるときもあるが、彼女みたいに「優しさが罪」とまではどうしても思えない。
「さて、キミも帰りな」
「ああ……村雨には悪いことをしたよ」
「じゃあね」
紅子さんが手を振るが、所詮相手はカタツムリ。全然動かない。
「……紅子さん、神社まで連れてってやらないか?」
「この、お人好し」
「お人好しで結構だ」
カタツムリを手のひらに乗せて神社に向かう。
カタツムリ本人。本人? に任せておけば場所は分かるからな。
「村雨君はどうすればいいんだ?」
「家の中に入れてあげようか」
紅子さんは言いながら、また前みたいに紅い蝶々に変化して壁をすり抜けていく。内側から、鍵の開く音がした。
そうして同じように鍵を閉め、彼女が壁をすり抜けて帰ってくる。
「さっきのスプレーには記憶を混乱させる作用もあるから、もう何事もなく過ごせると思うよ」
「記憶の混乱? それはなんでだ?」
「……アタシ達のことを覚えられても困るから、かな。お兄さんみたいな特殊な人間はともかく、下手な人間に存在がバレて晒されたらたまったものじゃないからねぇ」
「……そうか。怪異の世界も肖像権はあるよな」
「そんなところ。それに、軽いノリで依頼を出されても困るからね。情報精査してるグレムリン達が過労死しちゃうよ」
「そういうものか」
歩きながら考える。
俺もまだまだ知らないことがある。
だから〝こちらの世界〟の常識を、ルールを、覚えなければならないと。
「へっくしゅ」
「大丈夫か?」
「いくら濡れ透けだからって欲情はしないでね」
「誰がするか!」
紅子さんは先輩であると同時に、やっぱり厄介な幽霊だ。
俺はそんなに軽薄じゃないぞ。
「あー、それにしても……お兄さん。彼がやったのが晴れのおまじないじゃなくて良かったね」
「……? なんで晴れだとダメなんだ?」
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