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伍の怪【シムルグの雛鳥】
休息のひととき
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「いろはちゃん、寒くはない?」
不意に、ナヴィドがいろはにそう問うた。
「はい? …… そうですね。このくらいの気温なら全然」
「そうか…… そのブレザーの下は夏服だろう? これから寒くなってくるから早めに衣替えしておいたほうがいいよ」
「分かるんですね…… まあその通りですし、気を付けますよ」
彼女は相変わらず外を見ながらスケッチブックを取り出し、手元の鉛筆を弄んでいる。その線は薄く、タッチの柔らかい曲線を描いていく。
引っかかることなくスケッチブックに迷わず線を引いていき、そのページが捲られる。早描きだと知っているナヴィドもその完成の速さに驚かされながら笑みを浮かべた。
「コンクール用の絵は進んでるかい?」
「ええ、あと二日くらいで完成すると思いますよ」
スケッチブックから顔を上げ、緩く笑みを浮かべたいろはが言う。完成した姿を想像しているのか、細められた目はどこか遠くを見るように見えた。
その碧眼が山吹色の月光を浴びて、彼にはとても儚げに見えただろう。ナヴィドはそんな彼女の様子を微笑ましく思っているようだ。
「そうかい。完成して見るのが楽しみだね。キミはいっつも完成するまで人に見せないんだから」
「人にわたしの絵を見せること自体がマレなんです。あなたが勝手に見た上あんなことを言うから仕方なく、ですよ」
誇ってもいいんですよ、とでもいいたげなその言い方は通常一生徒が教師に発していい言葉ではない。しかしこともなげにそう言ったいろはにナヴィドはイラつく様子もせず明るく笑っている。
「そうだったね。感謝してるよ」
「……」
こちらも当たり前のように出た言葉であったが、再びいろははスケッチブックに視線を下げ、黙ったまま右手を動かし始めた。涼しい顔はしているが俯き、照れ隠しとも取れるその行動に彼は深く追求することはなかった。
「…… そういえば、携帯電話が機能してませんけどこの6時66分ってどういうことなんでしょうか」
「ああ、それ? きっと悪魔…… 獣の数字ってやつだね」
鉛筆を滑らしながら質問した彼女に、考える素振りもなくナヴィドが答える。
「日本ではそうでもないだろうけど、海外じゃあ不吉な数字としてよく挙げられるね」
「ああ、なんか映画なんかでそういうのがあった気がしますね」
「日本だともっぱら4とか9が不吉な文字として言われるけど、まあそれと似たようなものだよ。13もそうだね。でもこれは宗教関係が理由だから自然信仰の日本にはあまり関係ないことかな」
スラスラとそう述べる彼にいろはは興味が湧いたのかスケッチブックを仕舞って、同じく回収作業を終えた彼と向き合うようにして座った。
「へぇ…… 先生はそういうのは信じてるんですか?」
「…… 信じてる、というよりは…… そうだな、私には関係ないことだと考えているかな。私の古い友に関わり合いのある者もいるけれど、私はあまり気にしていないよ」
「そうですか」
なんだ残念、とでも言うように抑揚のない声で返事を返したいろはは暫し考えるように黙ると、再びナヴィドに問いかける。
「先生はこれ…… 出られると思いますか?」
「校庭もあんな感じだし、学校の敷地内は普通に出られる気がするね。ただ玄関が空かなかったことに意味があるのかってところが謎なんだけど……」
顎髭をさすりながら窓の外を視線を向けた彼は、先程まで金魚がいて見えなかった校門を見た。しっかり閉まっていて、傍目にもとても開けそうにはない。上から無理に脱出しようとするのも危険が伴うかもしれないのだ。
しかしそれは玄関が開かないこととはなんら関係がない。玄関が開かないのにはなにか理由があるのかもしれない。そういう意味で話した彼の言葉にいろはは頷いて自身の推測を口にする。
「なにか…… ちゃんと玄関から出ないとこの変になった学校からでられない、とか」
「ありそうだね…… 注意書きと出口についてはちゃんと考えた方が良さそうだ。特に注意書きは……」
「その注意書きも怪しいんですけど…… まあ、今はアレしかヒントになるものもなさそうですもんね」
おかしな出来事が起きている学校の中で、親切にもヒントを示す張り紙があるなんて、罠にしか思えない。いろははそう言いたいのだ。真剣な表情で。
「ヒントは鵜呑みにしないほうがいいと思うんです」
「ああ、そうだね…… 文字も赤い絵の具みたいなもので書かれているし、あまり良いものではない気がするよ」
いろはが最初に見た滲んだペンキの文字も、中庭にあったテーブルの文字も、保健室前の張り紙も文字は血のように赤かったのだ。血で書かれた注意書きなど、信用できるかは分からない。普通の文字で書かれていたとしても、普通は疑心が湧くものだ。二人はそう話し合い、注意書きは鵜呑みにしないことに決めた。
そして話し合いが終わるとベットに座ったいろはが足を揺らしながら再び空を見上げ、ふと思いついたように言葉を零した。
「あの月…… もう少し色を薄くしたら先生の髪にそっくりですね」
「そうかい? まったく、キミは本当に絵が好きだね」
軽く笑いながら、左肩の下で結んだ長めの髪をナヴィドは手に取って色を比べて見ている。
暗い海のような瞳が赤ぶち眼鏡の奥で細まり、視線をいろはに向けた。
「そう言うキミは、綺麗な秘色の髪をしているよね。地毛なんだっけ? かなり珍しいんじゃないかい?」
「ああ、はい。大変だったんですよ。黒染めしても戻っちゃいますし…… 今はきちんと診断書を取って学校に許可を得ています」
いろはも肩についた自身の髪を手にすくって眺めている。しかし窓から降り注ぐ山吹色の月光によってその髪の色はいつもよりも心なしか明るく見えるようだ。次いでナヴィドのエプロンを指さして微笑む。
「美術準備室は先生の絵ばっかりですよね。いろんな鳥の絵…… 教卓の近くも鳥の絵が多いし、授業で外に出た時も先生は一人で野鳥の絵を描いてますよね」
「キミは風景画をよく描くよね。あとは動植物なんかの写実画だ。いつも時間一杯までキミは外にいるけど、キミは早描きだよね?何枚描いているんだい?」
ナヴィドは教師として、そして自らが美術部に誘った生徒だからか、少々変わり種な彼女のことをよく知っているようだ。そんなナヴィドの話に、一瞬言葉に詰まった彼女は目を伏せてから彼の言葉に答える。
「…… 風景画は片手間でも描けますし、動物は描きやすいモチーフですからね。それに…… 喜んでもらえますから、結構な枚数描いてますよ。スケッチブックもすぐ一杯になっちゃいます」
トートバッグを胸の前で抱きしめながらいろはが言う。
相変わらず目は伏せられ、声に抑揚はなかったが表情は豊かに、口元が緩く笑んでいる。
「今日持ってるのは比較的新しいスケッチブックだよね」
「昨日切らしてしまって、買いに行ったんですよ」
「そうか」
そこで、二人の会話は途切れた。
「キンギョ、減ってますよ。もうそろそろ行きましょう」
いろはが外の景色に目を向けると、先程大量にいた金魚はその数を減らしていた。
いろはに次いで目を向けたナヴィドもそれを確認し、静かに頷く。
「本当だね、今のうちに校門が開くか調べに行こうか」
「はい。窓は…… つっかえ棒でもして、閉められないようにしておきましょうか」
「うーん、カーテンじゃあ閉まってしまうかもしれないし、栄養関連の本でも開いて窓台にでも引っかけておこうか」
そう言って彼は大きくて、そこそこ分厚い本を片手に持って来た。
いろははそれを見て、一つ頷く。
「あんまり分厚くても小さい辞書だと落ちちゃいそうですもんね。引っかかりやすいそれくらいの本だったら安心できそうです」
「よし、じゃあ外に出たらこれを窓台に開いて置こう」
「はい」
二人は一冊の本を持ち出し、山吹色の月光が降り注ぐ校庭へと降り立った。
「これで良し」
いろはが言う。そう高くない窓台に本を挟んで固定したのだ。
そうしている彼女は上履きのままであったが、気にしてはいないようだ。ナヴィドも外で履くような革靴ではないが、気にするそぶりも見せない。
「行きましょうか」
月光の中、二人は再び歩き出した。
不意に、ナヴィドがいろはにそう問うた。
「はい? …… そうですね。このくらいの気温なら全然」
「そうか…… そのブレザーの下は夏服だろう? これから寒くなってくるから早めに衣替えしておいたほうがいいよ」
「分かるんですね…… まあその通りですし、気を付けますよ」
彼女は相変わらず外を見ながらスケッチブックを取り出し、手元の鉛筆を弄んでいる。その線は薄く、タッチの柔らかい曲線を描いていく。
引っかかることなくスケッチブックに迷わず線を引いていき、そのページが捲られる。早描きだと知っているナヴィドもその完成の速さに驚かされながら笑みを浮かべた。
「コンクール用の絵は進んでるかい?」
「ええ、あと二日くらいで完成すると思いますよ」
スケッチブックから顔を上げ、緩く笑みを浮かべたいろはが言う。完成した姿を想像しているのか、細められた目はどこか遠くを見るように見えた。
その碧眼が山吹色の月光を浴びて、彼にはとても儚げに見えただろう。ナヴィドはそんな彼女の様子を微笑ましく思っているようだ。
「そうかい。完成して見るのが楽しみだね。キミはいっつも完成するまで人に見せないんだから」
「人にわたしの絵を見せること自体がマレなんです。あなたが勝手に見た上あんなことを言うから仕方なく、ですよ」
誇ってもいいんですよ、とでもいいたげなその言い方は通常一生徒が教師に発していい言葉ではない。しかしこともなげにそう言ったいろはにナヴィドはイラつく様子もせず明るく笑っている。
「そうだったね。感謝してるよ」
「……」
こちらも当たり前のように出た言葉であったが、再びいろははスケッチブックに視線を下げ、黙ったまま右手を動かし始めた。涼しい顔はしているが俯き、照れ隠しとも取れるその行動に彼は深く追求することはなかった。
「…… そういえば、携帯電話が機能してませんけどこの6時66分ってどういうことなんでしょうか」
「ああ、それ? きっと悪魔…… 獣の数字ってやつだね」
鉛筆を滑らしながら質問した彼女に、考える素振りもなくナヴィドが答える。
「日本ではそうでもないだろうけど、海外じゃあ不吉な数字としてよく挙げられるね」
「ああ、なんか映画なんかでそういうのがあった気がしますね」
「日本だともっぱら4とか9が不吉な文字として言われるけど、まあそれと似たようなものだよ。13もそうだね。でもこれは宗教関係が理由だから自然信仰の日本にはあまり関係ないことかな」
スラスラとそう述べる彼にいろはは興味が湧いたのかスケッチブックを仕舞って、同じく回収作業を終えた彼と向き合うようにして座った。
「へぇ…… 先生はそういうのは信じてるんですか?」
「…… 信じてる、というよりは…… そうだな、私には関係ないことだと考えているかな。私の古い友に関わり合いのある者もいるけれど、私はあまり気にしていないよ」
「そうですか」
なんだ残念、とでも言うように抑揚のない声で返事を返したいろはは暫し考えるように黙ると、再びナヴィドに問いかける。
「先生はこれ…… 出られると思いますか?」
「校庭もあんな感じだし、学校の敷地内は普通に出られる気がするね。ただ玄関が空かなかったことに意味があるのかってところが謎なんだけど……」
顎髭をさすりながら窓の外を視線を向けた彼は、先程まで金魚がいて見えなかった校門を見た。しっかり閉まっていて、傍目にもとても開けそうにはない。上から無理に脱出しようとするのも危険が伴うかもしれないのだ。
しかしそれは玄関が開かないこととはなんら関係がない。玄関が開かないのにはなにか理由があるのかもしれない。そういう意味で話した彼の言葉にいろはは頷いて自身の推測を口にする。
「なにか…… ちゃんと玄関から出ないとこの変になった学校からでられない、とか」
「ありそうだね…… 注意書きと出口についてはちゃんと考えた方が良さそうだ。特に注意書きは……」
「その注意書きも怪しいんですけど…… まあ、今はアレしかヒントになるものもなさそうですもんね」
おかしな出来事が起きている学校の中で、親切にもヒントを示す張り紙があるなんて、罠にしか思えない。いろははそう言いたいのだ。真剣な表情で。
「ヒントは鵜呑みにしないほうがいいと思うんです」
「ああ、そうだね…… 文字も赤い絵の具みたいなもので書かれているし、あまり良いものではない気がするよ」
いろはが最初に見た滲んだペンキの文字も、中庭にあったテーブルの文字も、保健室前の張り紙も文字は血のように赤かったのだ。血で書かれた注意書きなど、信用できるかは分からない。普通の文字で書かれていたとしても、普通は疑心が湧くものだ。二人はそう話し合い、注意書きは鵜呑みにしないことに決めた。
そして話し合いが終わるとベットに座ったいろはが足を揺らしながら再び空を見上げ、ふと思いついたように言葉を零した。
「あの月…… もう少し色を薄くしたら先生の髪にそっくりですね」
「そうかい? まったく、キミは本当に絵が好きだね」
軽く笑いながら、左肩の下で結んだ長めの髪をナヴィドは手に取って色を比べて見ている。
暗い海のような瞳が赤ぶち眼鏡の奥で細まり、視線をいろはに向けた。
「そう言うキミは、綺麗な秘色の髪をしているよね。地毛なんだっけ? かなり珍しいんじゃないかい?」
「ああ、はい。大変だったんですよ。黒染めしても戻っちゃいますし…… 今はきちんと診断書を取って学校に許可を得ています」
いろはも肩についた自身の髪を手にすくって眺めている。しかし窓から降り注ぐ山吹色の月光によってその髪の色はいつもよりも心なしか明るく見えるようだ。次いでナヴィドのエプロンを指さして微笑む。
「美術準備室は先生の絵ばっかりですよね。いろんな鳥の絵…… 教卓の近くも鳥の絵が多いし、授業で外に出た時も先生は一人で野鳥の絵を描いてますよね」
「キミは風景画をよく描くよね。あとは動植物なんかの写実画だ。いつも時間一杯までキミは外にいるけど、キミは早描きだよね?何枚描いているんだい?」
ナヴィドは教師として、そして自らが美術部に誘った生徒だからか、少々変わり種な彼女のことをよく知っているようだ。そんなナヴィドの話に、一瞬言葉に詰まった彼女は目を伏せてから彼の言葉に答える。
「…… 風景画は片手間でも描けますし、動物は描きやすいモチーフですからね。それに…… 喜んでもらえますから、結構な枚数描いてますよ。スケッチブックもすぐ一杯になっちゃいます」
トートバッグを胸の前で抱きしめながらいろはが言う。
相変わらず目は伏せられ、声に抑揚はなかったが表情は豊かに、口元が緩く笑んでいる。
「今日持ってるのは比較的新しいスケッチブックだよね」
「昨日切らしてしまって、買いに行ったんですよ」
「そうか」
そこで、二人の会話は途切れた。
「キンギョ、減ってますよ。もうそろそろ行きましょう」
いろはが外の景色に目を向けると、先程大量にいた金魚はその数を減らしていた。
いろはに次いで目を向けたナヴィドもそれを確認し、静かに頷く。
「本当だね、今のうちに校門が開くか調べに行こうか」
「はい。窓は…… つっかえ棒でもして、閉められないようにしておきましょうか」
「うーん、カーテンじゃあ閉まってしまうかもしれないし、栄養関連の本でも開いて窓台にでも引っかけておこうか」
そう言って彼は大きくて、そこそこ分厚い本を片手に持って来た。
いろははそれを見て、一つ頷く。
「あんまり分厚くても小さい辞書だと落ちちゃいそうですもんね。引っかかりやすいそれくらいの本だったら安心できそうです」
「よし、じゃあ外に出たらこれを窓台に開いて置こう」
「はい」
二人は一冊の本を持ち出し、山吹色の月光が降り注ぐ校庭へと降り立った。
「これで良し」
いろはが言う。そう高くない窓台に本を挟んで固定したのだ。
そうしている彼女は上履きのままであったが、気にしてはいないようだ。ナヴィドも外で履くような革靴ではないが、気にするそぶりも見せない。
「行きましょうか」
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