ニャル様のいうとおり

時雨オオカミ

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伍の怪【シムルグの雛鳥】

水は抜かないように

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「また引き離されてしまったな」

 校門から一歩出ようとしたところでナヴィドは足を止めていた。
 その彼の足元は空。そして手はフェンスにかかったままである。
 そう、そこは校門などではなかった。

「危ない、危ない。彼女の声で止まらなかったら落ちてたかな」

 屋上の端で焦りの欠片もない表情で言った彼は下を覗きこんでから屋上の内側に戻る。そしてすたすたと歩みを早め、屋上の扉を開けた。

「彼女はプールにいる…… 屋上からだからよく見えたけれど、いいことなのか悪いことなのか。少なくとも時間がかかってしまうから悪いことなのかな」

 心なしか、その歩みは早い。

「ああ、遅いな…… 無事でいてくれるといいけど」

 歩みはいつしか走りに、そして、飛ぶように走り出した彼は全ての事象を無視して保健室まで走った。

 相変わらず山吹色の月光が差し込む窓は、しっかりと開いたままになっている。

「杞憂だったかな」

 それを見て眉を顰めた彼は一息に校庭へと出ると、プールの方向へと走り出す。その途中、外から正面玄関の前を通るとき、ふと彼は足を止めた。

「これ、そこな人間」
「おや…… ここにいたんだね、カナヘビ。しかも喋るだなんてびっくりだ」

 そこにいたのは正面玄関全体に張り付いた5m程の巨大なカナヘビだった。

「カナヘビではない…… 今はもう、家守だ。そしてあなたも…… 少し違うようですな」

 首をもたげ、ナヴィドの顔を覗き込んだカナヘビがうんうんと頷き、敬意を示すように引き下がる。

「それで、何の用だい? 急いでいるから早めに用件を言って欲しいんだけれど」
「なに、簡単なことだ。無理矢理起こされた棒っきれ坊やが怒っているみたいでね。そちらに向かうなら少し忠告をと思ってのう」

 あなたには助言など無用だったようだが、と前置きを置いてからカナヘビは続ける。

「決して〝 水は抜かないように 〟な。アヤツと同じになりたくないのであれば…… それだけだ。ささ、早くお行きなさい。お嬢さんを助けたいのだろう?」
「ご忠告、感謝するよご老公」
「ああ、あんたも、ワタシの話を聴いてくれてありがとうよ」

 互いに別れの挨拶をしてから素早く駈け出す。
 そうして辿り着いたプールには既にいろはの姿はなかった。

 いや、正確にはバシャバシャと水飛沫をあげる水面と、時折顔を出してもがく彼女の姿があるので完全に間に合わなかったわけではない。

「いろはちゃん!」

 ナヴィドが声をあげると、あぶくをあげながらも水面の合間から覗いた彼女の視線がそちらに向いた。

「………… せ………… あ…… ぅ…… !」

 息も苦しいだろうに、声をあげるその姿は眉を顰めただけであり、生死の境を彷徨う人間だとはとても思えない。

「なにか…… なにかないかな……」

 巡らせて目に入ったのは排水装置。

 しかし、彼はしっかりと家守となった怪異の言葉を覚えていた。
 校舎を守る守護者となった動物は決して嘘は吐かないものであると、漠然とした確信と共に理解している。

 それに、目の前。いろはに覆い被さるように身を屈めている巨大な、細長い物干し竿のような真っ黒な怪物。

 〝 アヤツと同じになりたくないのであれば 〟

 水を抜いてはいけないという忠告と共に告げられたその言葉を、目の前の存在を認識すればおのずと理解できるだろう。

 水を抜けばきっと…… いろはごと水は抜かれ、その姿は永遠に錆びついた管の中に保存されてしまうだろう。

 それが解放されるのはドロドロに溶けたその後か、異常に気づいた学校側が配管の調査をするか…… どちらにせよ、その命は失われてしまうのだ。

 そんな最悪の選択肢となるものを、わざわざ彼が選ぶ筈がない。

「っく、こんなものしかない…… か」

 他に目に付いたのは二つの浮き輪。
 しかし、自身は飛び込むつもりなどないのだから一つ投げるだけでいい。しかし、本当にそうだろうか? 

 確かに普通の人間は溺れている彼女を助けるだけで満足できるだろう。だが、ナヴィドは違った。そう、普通とは言い難い彼は理解した。

 そうしてナヴィドは焦りつつも素早く、条件反射として両方の浮き輪を投げたのだ。

 そうするのが最適解だと、〝 自分自身 〟の最高の答えだと瞬時に紐解いたからだ。

「っぁ、ぐ………… 、げほっ、はぁ…… !」

 眉を顰めただけでいくら涼しそうな顔をしていても、やはり溺れかけるのは辛いものなのだ。何度も何度もえずくように咳をして気管に入り込んだ水を吐き出し、彼女は浮かんだ浮き輪にしがみついた。

 そして供養のように投げられたもう一つの浮き輪がぐるりと水面で周り、その中に物干し竿のような影を誘う。

 影はそれを認めるとそっとそばに寄って行き、いろはからその視線が外れた。

「いろはちゃんこっち!」

 緊急用の紐がついた彼女の浮き輪を手繰り寄せ、今が好機とばかりにプールサイドへと引き上げた。

 彼女の制服は少々薄着であったことからか水を吸って重たく、そして透けた状態にしてしまっているがナヴィドが動じることはなかった。
 それよりも彼女の状態が心配であったからだ。

 プールサイドに上がった彼女は時折咳をしながら大きく肩を上下させ、ぜぇぜぇと苦しそうな呼吸を必死に収めようとしている。四つん這いになった状態で崩れ落ちるようにその場に倒れ込みそうになるが、青い顔で持ち堪えて 「少し…………待ってください」 とやっと言葉に出した。

「ああ…… でも……」

 ナヴィドの視線の先には今にも浮き輪の中へと前屈みで入り込もうとしている影。

 その体はドロドロと溶けて端から水へと変化していくようだ。
 水嵩の増したプールは既に溢れかけている。まだまだ影は細長く、大きい。あれらが全て水となってプールに降り注いでしまえば波打つ水がこちらに襲いかかってくることだろう。

 もしかしたらあの影の容量を超えて巨大な津波を発生させるかもしれない。そうなればプールサイドはおろか、校庭ですらも危ないかもしれない。

「息を整える暇もないなんて、ね」

 言うが早くナヴィドは四つん這いになったままのいろはを抱きかかえてプールサイドから校庭側へと飛び降りた。

「ちょ、先生待って…… げほっ」
「少し我慢していてね…… !」

 ナヴィドがいろはを抱えたまま保健室の窓を目指す。
 彼が横目で過ぎ去る景色を見れば、影がどんどんと浮き輪の中に飲み込まれていく様が映った。

 チャプン

 水面が揺らいだ。
 そして次の瞬間、浮き輪を中心とした巨大な津波が起きたのだ。

「っわ、先生来てる来てる!」

 こうなると分かっていれば2つも浮き輪は投げなかったか? 

 しかしそれでは影の注意を引き放せはしなかっただろう。
 ならば浮き輪ではなく、目に付いた排水装置を使えばよかったのか? 

「いいや……」

 あれはナヴィドにとっての一番良い選択だったのだ。
 彼は〝 大人 〟として、いろはを危険な目に遭わせるわけにはいかない。

 彼女をあの〝 少年 〟のようにしてはいけないのだと、彼は首を振った。

「水が…… !」

 水はどんどん迫り、校庭の空を泳いでいる魚を飲み込み、その姿を本来のものへと戻していく。
 足元には今にも大洪水が押し寄せて来そうだった。

「窓は…… 、開いているね!」

 校庭へ出たときに使った窓のすぐそばに来たときには、背後に水の気配が迫っていた。

( 間に合わない? いいや、いざとなったら私が代わりになればいい…… 相性はよくないが、彼女がのみ込まれてしまうよりはよっぽどマシだ! )

「あ、窓が…… !」

 いろはが叫ぶ。

 大声をあげて焦るなど彼女にしては珍しい。
 そんなことを彼は考えながら「大丈夫だよ」と声をかける。

 ひとりでに閉まろうとしている窓はしかし、行きに仕掛けた本がつっかえ棒となり完全に閉まることはなかった。

 その厚さにより窓の縁に切られることもなく、大きな装丁により窓に弾き飛ばされずに窓台へとうまく引っかかっている。

 大きな窓は未だ半分ほど開いていた。

 ギチギチと本を圧迫し、圧し斬ろうとする窓はもう少し。

「…… え?」

 間に合わないかもしれない。
 そう判断したナヴィドは、彼女を…… 投げた。

 呼吸を詰めた彼女は咄嗟にか、体を丸めて大きな窓の、半分ほどとなったその隙間をくぐり抜けて床に着地した。

「先生…… !? 無茶を…… っ」

 ゴロゴロと転がり、痛みを訴える節々を無視して窓に視線を向けると、その彼女の額にベチャリと冷たい水がかかった。

「…… はぁ、間に合わないかと思ったよ」

 轟音をあげて〝 閉められた 〟窓に叩きつけられる大水。
 その手前で、水で濡れた髪を梳きながら独り言ちるのは勿論ナヴィドだ。
 どうやら間一髪で保健室の中に滑り込んだようだった。

「間に合わなかったらどうするつもりだったんですか……」

 不思議とただの硝子でしかない窓が破られることはなく、外の景色はまるで水槽の中をそのまま大きくしたように水で満たされていく。
 空を泳いでいた金魚や亀の影はそのまま、そこが水族館になったかのように本来の姿を見せていた。

 その中に溶けるように沈む山吹色の月はソーダの中に沈んだサクランボのように幻想的に揺らめいている。
 そんな景色を眺めながらいろはは痛む箇所をさすり、呆れたようにナヴィドに言う。

「間に合わなかったら? まさか、そんなことがあるはずないだろう? ヒーローはギリギリに登場するものだからね」

 真剣な顔をした彼は、そんな子供っぽいことをこともなげに言ってのけたのであった。
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