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伍の怪【シムルグの雛鳥】
鏡を割って
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「制服は私が洗っておくからキミは予備の制服を借りてきなさい。明日、なんとか理由をつけて私が言っておくよ」
「制服、売り払ったりしません?」
「からかってるの? そんなことするわけないだろう。キミの家は大家族なんだから、そんな格好で帰らせるわけにはいかないよ」
「それ、皮肉ですか…… ?」
相変わらず抑揚がまるでないために分かりづらいが、そう言ったいろはの声にはどこか怒気を含ませているように彼は感じた。
彼女の家は孤児院のため、そのような表現をしたのだが随分と軽率なことをしたとナヴィドは今更の後悔に苛まれている。無神経なことを言ってしまい、和やかだった空気はどこかへ行ってしまったみたいだ。
「すまない、無神経だったよ」
「いえ…… その、心配してくださっているのは、分かっているから…… わたしも、ごめんなさい」
「…… さあ、着替えてきて」
「はい」
逃げるように制服を持って隣の教室へと入ると、その扉はそっと閉められた。
ナヴィドはその扉の外で壁に背を預けると目を閉じる。
桜子の話を聞いたとき、いろはは桜子の言っていた言葉を覚えている限り復唱したのだ。
その中に七番目の七不思議が現在この学校内にいないということが挙げられていたのを思い出し、思案を巡らせている。
( 六番目まで済ませて、七番目がいないならもうやることはない。影のことは気になるけれど、今は脱出方法を探るべき…… だね )
そんなことを彼が考えていれば、すぐにいろはが扉から出てきた。
ワイシャツにブレザーにプリーツスカート。最低限の制服を着用していろはがヘアバンドを整える。
「さあ、帰ろうか」
「まだ帰り道も分かっていないのに…… ? おかしな先生」
「それはこれから見つけるんだ。大丈夫だよ」
抑揚のない声だが、ナヴィドにはもう聞き分けができた。
彼女は彼をからかっている。だが、彼はそれを告げずに彼女が安心できるような言葉を紡ぐ。
「とにかく、玄関は行けないよね」
「ええ、それに校門はアクアリウムの底に沈んでしまって辿り着くのが難しいですね。わたしにエラや水かきがあれば別なのですけれど」
「あるいはこの背中に翼があれば?」
「そうすれば校舎の屋上から飛び出せますね」
「その末路は赤い花畑かな」
「どちらかは花畑に佇む血塗れのお姫様になれますね」
「キミ、自分が助かる気満々じゃないか」
「ふふ…… ?」
冗談を交わし合いながら廊下を歩いていると、ふといろはが立ち止まった。
「どうしたんだい?」
「…… 聞こえますか? 鈴の音」
「鈴…… ?」
ナヴィドも立ち止まり、耳を澄ます。
するとどこからか、僅かな鈴の音が響いてくることが分かった。
「鈴…… 罠…… ? でも、もうこの学校に七不思議はいないはずです、よね?」
「あー、辿ってみるかい? キミのしたいようにすればいい」
「いいんですか?」
「ああ、私はキミのしたいことに付き合うよ」
「分かりました」
いろはが廊下の壁に手をついて目を閉じる。
どこからか響いてくるその音を辿り、目的地を聞き定めようとしているのだ。
彼女のまぶたの裏にはかつて見た光景が刻まれ、脳裏にはかつて聴いた音が木霊する。〝 聞き覚えのある 〟その鈴の音に意識を集中したいろはが目を開く。
「いろはちゃん、それ」
「………… ヒント?」
彼女が手をついていた壁には〝鈴を辿って〟という柔らかな青い文字が浮かびあがっていた。
「先生、こっちです」
いろははなんの躊躇いもなくナヴィドの右手を取ると自分も右手を壁から離し、上の階へと向かう。
上の階へ上がるたび、鈴の音は強くなっていった。
「ここ……」
そして屋上へ向かう階段の途中、踊り場に存在する鏡に辿り着いた。
鏡の前にはいくらか血痕が残っており、普通ならこんな不気味な鏡になど近寄らないような雰囲気が漂っている。
いろはが鏡に近寄ると、その中に真っ白な長い髪の少女が現れた。
そしていろはと鏡合わせで動き、ときおりその首につけたチョーカーから鈴の音が響くのである。
全体的に白く、首元や腰のリボンだけ黒い少女は平然と鏡の中で立っている。けれどいろはにはよく見えていた。少女はいろはが受けた傷と同じ位置に赤い血を滲ませ、こちらを見ているのである。
「あなたが、わたしを呼んでくれたの…… ?」
「……」
いろはは〝懐かしい〟その少女に微笑みかけるが、鏡の中の少女は笑わなかった。
その代わり鏡の中の少女がこちらに手を当てるようにするとその上に文字が浮かび上がった。
こちらも見覚えのある青い文字だ。
〝 鏡を割って 〟
ナヴィドは鏡の中の少女と目が合って、その目が吃驚したように開かれるのを眺めていたが、声を出そうとした彼女に対して〝 しぃー〟 と黙ってもらうことをジェスチャーする。そんなことをしたら台無しだとばかりに。
「先生、ちょっと離れていて……」
「分かったよ」
ナヴィドが鏡から数歩下がると、いろはは懐から出したカッターナイフを思い切り鏡に突き立てた。
中にいた少女は突き立てられたカッターナイフに首を裂かれてしまったが、それでも無表情のままだった。
いろはがそれを呆然と見ていると、たった一箇所しか入っていないはずのヒビから全体に広がっていき、最後にはほんのりと薄い笑みを浮かべた少女と共に砕け散った。
「……」
鏡に空いた穴から風が吹き込んで来る。
そこは出口だ。彼女たちが迷い込んだその学校の、出口だった。
「…… 行きましょう」
「そうだね」
ナヴィドは頷くと、いろはの頭をそっと撫でて彼女の手を取って鏡の中に入って行った。
手を引っ張られ、後ろを歩く彼女は俯いているが、その頬に涙は見られない。それどころか遠い昔のことを思い出しているような、そんな表情をしている。
そしてナヴィドはそんな彼女の顔を見まいと先を行く。
暫し、暗闇の中を行く二人は無言で歩いていた。
「玄関や校門から出ていたら、どうなっていたんだろうね」
「きっと、屋上から空を飛ぶことになっていたんじゃないですか?」
「それは…… 嫌だね」
ナヴィドの脳裏に浮かぶのは間に合うこともなく落下していくいろはの姿だ。それがただの空想であろうと彼にとってその最悪な結末は許し難いものである。
翼のない彼女では死を回避することはできないのだ。
「先生、ここまででいいですよ…… 孤児院へは、自分で帰れます」
「そうかい?」
「ええ、汚してしまった制服のことはよろしくお願いします。わたしの方は誤魔化さないでも…… 誰も、気にしませんけれど」
彼女を一人にするべきではない、とナヴィドの理性が囁いている。しかし、これははっきりとしたいろはの拒絶なのだ。それが分かっていて無理矢理家まで送ることなどできない。
ナヴィドは寂しげに笑う彼女の意思を尊重したいと考えていた。
「お守りはしっかり身につけているようにね。それから、自分が危ない目にあったのならその羽根を燃やしてしまうんだ。いいね? 私からのおまじないだよ」
「………… はい」
いろはは燃やしてしまうことに不満を抱いたようだが、しっかりと頷いた。
「もったいないですね……」
「そんなもので良ければ何度だってあげるよ。だから、我慢しないで助けを呼んで。先生との約束だ」
「嘘をついていっぱいもらっちゃうかも…… ?」
「キミの嘘なんてお見通しさ。それに、お望みなら羽毛布団でもなんでも用意するよ?」
「ふふふふ、ありがとうございます」
いろはが笑ってナヴィドに背を向ける。
お互いの家は別方向だ。いつまでも深夜をうろつくわけにはいかないと、彼女は名残惜しそうにしながらも手を振る。
「では、また」
「ああ、またね」
笑顔で別れて彼女は歩く。
照れ隠しにコンパクトミラーを抱きしめながら、 「お父さんがいたら、こんな感じなのかな」 と呟いた。
コンパクトミラーはなにも返事を返さなかったが、それで満足したのか彼女は帰り道を急ぐ。
ふよふよと耳の上で揺れる羽根飾りは頼もしいボディーガードのように彼女を守る。
しかし、自ら動くことのないボディーガードは彼女の行く先を決定することはできないのだ。
「早く…… 早く……」
早足で道を行く彼女は自身を追うように街灯が消えていっていることに気がついていた。
「そういえば、燃やすものがない…… どうしよう」
マッチもライターもないや、と呟く彼女に追いすがる津波のような影はやがて、その場一帯を飲み込むように広がっていく。
「スケッチブックもないのに……」
唯一の武器を桜子にズタズタにされ、今彼女に残っているのは小さなカッターナイフとコンパクトミラー、そして彼からもらった〝 お守り 〟のみ。
影に飲み込まれたいろはは、ナヴィドには決して聞かせなかった小さな悲鳴をあげて…… その場から消えた。
「制服、売り払ったりしません?」
「からかってるの? そんなことするわけないだろう。キミの家は大家族なんだから、そんな格好で帰らせるわけにはいかないよ」
「それ、皮肉ですか…… ?」
相変わらず抑揚がまるでないために分かりづらいが、そう言ったいろはの声にはどこか怒気を含ませているように彼は感じた。
彼女の家は孤児院のため、そのような表現をしたのだが随分と軽率なことをしたとナヴィドは今更の後悔に苛まれている。無神経なことを言ってしまい、和やかだった空気はどこかへ行ってしまったみたいだ。
「すまない、無神経だったよ」
「いえ…… その、心配してくださっているのは、分かっているから…… わたしも、ごめんなさい」
「…… さあ、着替えてきて」
「はい」
逃げるように制服を持って隣の教室へと入ると、その扉はそっと閉められた。
ナヴィドはその扉の外で壁に背を預けると目を閉じる。
桜子の話を聞いたとき、いろはは桜子の言っていた言葉を覚えている限り復唱したのだ。
その中に七番目の七不思議が現在この学校内にいないということが挙げられていたのを思い出し、思案を巡らせている。
( 六番目まで済ませて、七番目がいないならもうやることはない。影のことは気になるけれど、今は脱出方法を探るべき…… だね )
そんなことを彼が考えていれば、すぐにいろはが扉から出てきた。
ワイシャツにブレザーにプリーツスカート。最低限の制服を着用していろはがヘアバンドを整える。
「さあ、帰ろうか」
「まだ帰り道も分かっていないのに…… ? おかしな先生」
「それはこれから見つけるんだ。大丈夫だよ」
抑揚のない声だが、ナヴィドにはもう聞き分けができた。
彼女は彼をからかっている。だが、彼はそれを告げずに彼女が安心できるような言葉を紡ぐ。
「とにかく、玄関は行けないよね」
「ええ、それに校門はアクアリウムの底に沈んでしまって辿り着くのが難しいですね。わたしにエラや水かきがあれば別なのですけれど」
「あるいはこの背中に翼があれば?」
「そうすれば校舎の屋上から飛び出せますね」
「その末路は赤い花畑かな」
「どちらかは花畑に佇む血塗れのお姫様になれますね」
「キミ、自分が助かる気満々じゃないか」
「ふふ…… ?」
冗談を交わし合いながら廊下を歩いていると、ふといろはが立ち止まった。
「どうしたんだい?」
「…… 聞こえますか? 鈴の音」
「鈴…… ?」
ナヴィドも立ち止まり、耳を澄ます。
するとどこからか、僅かな鈴の音が響いてくることが分かった。
「鈴…… 罠…… ? でも、もうこの学校に七不思議はいないはずです、よね?」
「あー、辿ってみるかい? キミのしたいようにすればいい」
「いいんですか?」
「ああ、私はキミのしたいことに付き合うよ」
「分かりました」
いろはが廊下の壁に手をついて目を閉じる。
どこからか響いてくるその音を辿り、目的地を聞き定めようとしているのだ。
彼女のまぶたの裏にはかつて見た光景が刻まれ、脳裏にはかつて聴いた音が木霊する。〝 聞き覚えのある 〟その鈴の音に意識を集中したいろはが目を開く。
「いろはちゃん、それ」
「………… ヒント?」
彼女が手をついていた壁には〝鈴を辿って〟という柔らかな青い文字が浮かびあがっていた。
「先生、こっちです」
いろははなんの躊躇いもなくナヴィドの右手を取ると自分も右手を壁から離し、上の階へと向かう。
上の階へ上がるたび、鈴の音は強くなっていった。
「ここ……」
そして屋上へ向かう階段の途中、踊り場に存在する鏡に辿り着いた。
鏡の前にはいくらか血痕が残っており、普通ならこんな不気味な鏡になど近寄らないような雰囲気が漂っている。
いろはが鏡に近寄ると、その中に真っ白な長い髪の少女が現れた。
そしていろはと鏡合わせで動き、ときおりその首につけたチョーカーから鈴の音が響くのである。
全体的に白く、首元や腰のリボンだけ黒い少女は平然と鏡の中で立っている。けれどいろはにはよく見えていた。少女はいろはが受けた傷と同じ位置に赤い血を滲ませ、こちらを見ているのである。
「あなたが、わたしを呼んでくれたの…… ?」
「……」
いろはは〝懐かしい〟その少女に微笑みかけるが、鏡の中の少女は笑わなかった。
その代わり鏡の中の少女がこちらに手を当てるようにするとその上に文字が浮かび上がった。
こちらも見覚えのある青い文字だ。
〝 鏡を割って 〟
ナヴィドは鏡の中の少女と目が合って、その目が吃驚したように開かれるのを眺めていたが、声を出そうとした彼女に対して〝 しぃー〟 と黙ってもらうことをジェスチャーする。そんなことをしたら台無しだとばかりに。
「先生、ちょっと離れていて……」
「分かったよ」
ナヴィドが鏡から数歩下がると、いろはは懐から出したカッターナイフを思い切り鏡に突き立てた。
中にいた少女は突き立てられたカッターナイフに首を裂かれてしまったが、それでも無表情のままだった。
いろはがそれを呆然と見ていると、たった一箇所しか入っていないはずのヒビから全体に広がっていき、最後にはほんのりと薄い笑みを浮かべた少女と共に砕け散った。
「……」
鏡に空いた穴から風が吹き込んで来る。
そこは出口だ。彼女たちが迷い込んだその学校の、出口だった。
「…… 行きましょう」
「そうだね」
ナヴィドは頷くと、いろはの頭をそっと撫でて彼女の手を取って鏡の中に入って行った。
手を引っ張られ、後ろを歩く彼女は俯いているが、その頬に涙は見られない。それどころか遠い昔のことを思い出しているような、そんな表情をしている。
そしてナヴィドはそんな彼女の顔を見まいと先を行く。
暫し、暗闇の中を行く二人は無言で歩いていた。
「玄関や校門から出ていたら、どうなっていたんだろうね」
「きっと、屋上から空を飛ぶことになっていたんじゃないですか?」
「それは…… 嫌だね」
ナヴィドの脳裏に浮かぶのは間に合うこともなく落下していくいろはの姿だ。それがただの空想であろうと彼にとってその最悪な結末は許し難いものである。
翼のない彼女では死を回避することはできないのだ。
「先生、ここまででいいですよ…… 孤児院へは、自分で帰れます」
「そうかい?」
「ええ、汚してしまった制服のことはよろしくお願いします。わたしの方は誤魔化さないでも…… 誰も、気にしませんけれど」
彼女を一人にするべきではない、とナヴィドの理性が囁いている。しかし、これははっきりとしたいろはの拒絶なのだ。それが分かっていて無理矢理家まで送ることなどできない。
ナヴィドは寂しげに笑う彼女の意思を尊重したいと考えていた。
「お守りはしっかり身につけているようにね。それから、自分が危ない目にあったのならその羽根を燃やしてしまうんだ。いいね? 私からのおまじないだよ」
「………… はい」
いろはは燃やしてしまうことに不満を抱いたようだが、しっかりと頷いた。
「もったいないですね……」
「そんなもので良ければ何度だってあげるよ。だから、我慢しないで助けを呼んで。先生との約束だ」
「嘘をついていっぱいもらっちゃうかも…… ?」
「キミの嘘なんてお見通しさ。それに、お望みなら羽毛布団でもなんでも用意するよ?」
「ふふふふ、ありがとうございます」
いろはが笑ってナヴィドに背を向ける。
お互いの家は別方向だ。いつまでも深夜をうろつくわけにはいかないと、彼女は名残惜しそうにしながらも手を振る。
「では、また」
「ああ、またね」
笑顔で別れて彼女は歩く。
照れ隠しにコンパクトミラーを抱きしめながら、 「お父さんがいたら、こんな感じなのかな」 と呟いた。
コンパクトミラーはなにも返事を返さなかったが、それで満足したのか彼女は帰り道を急ぐ。
ふよふよと耳の上で揺れる羽根飾りは頼もしいボディーガードのように彼女を守る。
しかし、自ら動くことのないボディーガードは彼女の行く先を決定することはできないのだ。
「早く…… 早く……」
早足で道を行く彼女は自身を追うように街灯が消えていっていることに気がついていた。
「そういえば、燃やすものがない…… どうしよう」
マッチもライターもないや、と呟く彼女に追いすがる津波のような影はやがて、その場一帯を飲み込むように広がっていく。
「スケッチブックもないのに……」
唯一の武器を桜子にズタズタにされ、今彼女に残っているのは小さなカッターナイフとコンパクトミラー、そして彼からもらった〝 お守り 〟のみ。
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