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漆の怪【ひとはしらのかみさま】
触れてはいけないところ
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あの後結局俺も夕食作りに参加したのだが、とても役に立ったとは言えなかった。
その夜はリクエストされたシチューも、彼女からの一言もなく完食された。
さすがに食べ物を粗末にするほどのことを彼女はしない。
だが、いつものように美味しいと前面に出したような微笑みを向けてくれなかった。無表情で、まるで砂でも噛むようにただただ口に運んでいくだけの食事。
気まずい食事。
おまけに俺自身も、いつもより料理が上手く作れなかった自覚がある。
不味くはないが、昨日気合を入れて華野ちゃんと一緒に作ったカレー程ではない。いたって普通の家庭料理レベル。
目線も合わず、声もかけられず、紅子さんはさっさと自室に閉じこもり、俺は俺でせっかく食器を貸してくれているというのに、資料館の皿を一枚割った。
分かっている。
動揺で判断が鈍っていたことも、透さんやアリシアから訝しげに見られていたのも。
それでも、一人で眠るしかなかったんだ。
泊まっている部屋、布団の中でぎゅっと目を瞑る。
「……」
そうだ、目を瞑れ。寝ることに集中しろ。なにも考えるな。
明日になればきっと、冷静さをなくしていた彼女も元に……。
本当に、元に戻るなんて思っているのか?
散々言い訳をするな。逃げるなと言っていた彼女が、許してくれるとでも思っているのか、俺は。
そんなこと、ありえるはずがないのに……!
また、俺は逃げている。
こんなんじゃ、いつまで経っても成長したって言えないじゃないか。紅子さんの嫌う俺のままじゃないか。
でも、謝りたいと思っているのに、声が出なくなるんだ。体が震えるんだ。
本気で彼女に嫌われて、拒絶されたらと思うと行動に移すのが、恐ろしく怖い。
いつものように軽口だからと言い訳に逃げて、好意を真っ直ぐ伝えることだってできない。
このままでいいわけがないのに、俺は一歩も踏み出せない。とんだ情けなさだ。
「令一くん、ちょっといいかな」
目が冴えて眠れずにいると、外から透さんの声がした。
スマホを確認すると、いつのまにか個別チャットに部屋に行くからという連絡が入っている。
だからあれは多分本人だ。
布団から這い出して念のため眠たげなリンを肩に乗せ、扉を開ける。
そこにはちゃんと透さん本人がいた。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「夜、きみ達の様子がおかしかったからね。事情を聞きに」
「そっか……」
彼を招き入れて電気を点ける。
落ち着くために部屋に持ってきていたマグカップにお茶を淹れ、テーブルはないので床に置く。泊まっている部屋といっても客室ではないから、布団があるだけまだましなのだ。
「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩……というより、俺が悪いんだ。今日、俺は色々と視えるようになったって話しただろ?」
「うん、それで詩子ちゃんの記憶を見たって」
目が泳ぐ。
でも言わないと。これで許されるわけではないし、吐き出して自分が楽になりたいというわけでもない。それでも、事情を説明しておかないといけない。
夕方までなんともなかったのに、いきなり仲違いをしているなんて状況的におかしすぎるからな。
「透さん達が部屋から出たあと、紅子さんが寄りかかってきてうたた寝してさ。俺も動けないからそのまま寝ちゃったんだけれど、そのときに……紅子さんの記憶を少し覗いちゃったんだよ」
それだけ言えば、透さんは把握したようだった。
そして困ったような顔をして、「どちらも悪くはないけれど、気持ちでは納得できないよね」と呟く。
そうだ。紅子さんだって不可抗力だったのは知っているし、俺だって変なことさえ思わなければ……制御がしっかりとできていれば彼女の地雷に触れることはなかったはずなんだよ。
お互いに理解はしている。でも、理屈じゃなくて気持ちが納得できない。
心ってやつは複雑だから。
「……俺もさ、紅子さんは生前のことを話してはくれないし、それは見られたくない、聞かれたくない、触れられたくないものだっていうのは前から分かってたんだよ。だからずっと見ないふりしてきてた。紅子さんと軽口言い合ってさ……お互いに素直に好意を向けられないから軽口で誤魔化しながら、ずっと一緒にいた。これって結構歪な関係だとは思っていたんだ」
吐き出すように。
俯いて、泣きたくなるほど飲み込んでいた想いを零す。
「うん」
「でも、触れたら今の関係が壊れちゃいそうで……それでずっと先延ばしにしてた。多分、今その先延ばしにしていたツケが来てるんだと思う。向き合ってこなかったことに、最悪な形で向き合わされることになってさ。紅子さんのこと、心まで守りたいって思ってたのに逆に傷つけて……俺、馬鹿みたいだ」
「うん、馬鹿だね」
「ちょっ、そこ肯定するのか」
爽やかな笑顔でそんなことを言うものだから、思わず俺は顔を上げていた。
「だって、否定されても嬉しくないでしょ? 令一くん」
「まあ、そうだな……」
「きみは許されたくない。けれど、紅子さんのことが好きだから知りたい、受け入れたい、前に進みたいとも思ってる。好きな子のことをなんでも知りたいって思っちゃうのは男の性かな。でもね、好きな人にこそ弱い部分を見せたくないって思っちゃうのも、女の子の性なんだよ。ほら、彼女は特に強がりさんだから」
透さんは、聞き上手だ。
彼は優しい声で俺に言い聞かせるように、ひとつひとつ言葉を丁寧に選びながら話していく。
紅子さんのことも、そして出会ったばかりの俺のことも理解して彼は真剣に話を聞いてくれていた。
「多分きみ達の関係が進むためには必要なことだったんだと思うよ。多少強引すぎるのはよくないんだけれど、こうでもしないと彼女は絶対に話したりしないし。今回のことはタイミングが最悪だよ。でも避けられない事態でもあった。それは俺が断言しておく。こういうのって早い段階にやらないと拗れに拗れちゃうよね。だから、その罪悪感と苦い気持ちは甘んじて受けておくこと」
「……分かった」
「うん、忘れちゃダメだよ。その気持ち」
「はい……」
「恋っていうのはさ、お互いに傷つけあいながらもゆっくり手探りで進んで行くものだよ。もちろん、一目惚れなんていうのもあるけれど、きみ達の場合は前者。距離をお互いに推し量りながら、たまにぶつかりあって、共に進んで行く……ずっと、一緒にね。令一くんは今、紅子さんの背中を見ているだけじゃなくて、隣に並ぶための努力をしている最中だ。そのために、まずはやることがあると思うんだけど、分かるかな?」
やること。
そんなのひとつに決まっている。
「ちゃんと、謝らなくちゃ。許されなくてもいい。避けて通れないなら、嫌われてもいい。俺は……俺の気持ちに真っ直ぐに向き合って、紅子さんを守る。それだけは変わらない」
「うんうん、辛くなったら相談に乗るからね」
マグカップが空になり、透さんが立ち上がる。
「ちゃんと寝て備えること。令一くんも、十分頑張ってるよ。きみのその真っ直ぐな気持ちがある限り、俺は応援する。紅子さんを不幸にするのだけは俺も許さないけど……頑張ってる令一くんなら、任せてもいいかなって思ってるからさ」
「ありがとう、透さん。でも、透さんって別に紅子さんと兄妹なわけじゃ」
「妹みたいなものだからね。幸せになってくれないと俺、嫌だよ」
「あっ、うん。そうか」
笑顔の中に無言の圧を感じた。
この人、意外と紅子さんに過保護だよな……
「それじゃあおやすみ。アリシアちゃんにはそれとなく言っておくから、気にせずに行動していいからね」
「なにからなにまでごめん……ありがとう」
手を振って、扉が閉まる。
夜の静けさに包まれた室内で、俺は窓から空を見上げた。
「彼女にどう思われようとも、俺の決意は変わらない……そう、変わらないんだ」
恋焦がれるのがこんなにも辛くて、苦しいものだとは知らなかった。
それでも俺は進みたいから。彼女の真実から逃げ出したくはないから。
怖くて震える足を叱咤して、前を向く。
この村に来てから泣いてばかりの彼女に、俺をいつも救ってくれていた彼女に、今度こそ報いるために。
「寝て、備えとかないと」
今なら、ちゃんと眠れそうだ。
その夜はリクエストされたシチューも、彼女からの一言もなく完食された。
さすがに食べ物を粗末にするほどのことを彼女はしない。
だが、いつものように美味しいと前面に出したような微笑みを向けてくれなかった。無表情で、まるで砂でも噛むようにただただ口に運んでいくだけの食事。
気まずい食事。
おまけに俺自身も、いつもより料理が上手く作れなかった自覚がある。
不味くはないが、昨日気合を入れて華野ちゃんと一緒に作ったカレー程ではない。いたって普通の家庭料理レベル。
目線も合わず、声もかけられず、紅子さんはさっさと自室に閉じこもり、俺は俺でせっかく食器を貸してくれているというのに、資料館の皿を一枚割った。
分かっている。
動揺で判断が鈍っていたことも、透さんやアリシアから訝しげに見られていたのも。
それでも、一人で眠るしかなかったんだ。
泊まっている部屋、布団の中でぎゅっと目を瞑る。
「……」
そうだ、目を瞑れ。寝ることに集中しろ。なにも考えるな。
明日になればきっと、冷静さをなくしていた彼女も元に……。
本当に、元に戻るなんて思っているのか?
散々言い訳をするな。逃げるなと言っていた彼女が、許してくれるとでも思っているのか、俺は。
そんなこと、ありえるはずがないのに……!
また、俺は逃げている。
こんなんじゃ、いつまで経っても成長したって言えないじゃないか。紅子さんの嫌う俺のままじゃないか。
でも、謝りたいと思っているのに、声が出なくなるんだ。体が震えるんだ。
本気で彼女に嫌われて、拒絶されたらと思うと行動に移すのが、恐ろしく怖い。
いつものように軽口だからと言い訳に逃げて、好意を真っ直ぐ伝えることだってできない。
このままでいいわけがないのに、俺は一歩も踏み出せない。とんだ情けなさだ。
「令一くん、ちょっといいかな」
目が冴えて眠れずにいると、外から透さんの声がした。
スマホを確認すると、いつのまにか個別チャットに部屋に行くからという連絡が入っている。
だからあれは多分本人だ。
布団から這い出して念のため眠たげなリンを肩に乗せ、扉を開ける。
そこにはちゃんと透さん本人がいた。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「夜、きみ達の様子がおかしかったからね。事情を聞きに」
「そっか……」
彼を招き入れて電気を点ける。
落ち着くために部屋に持ってきていたマグカップにお茶を淹れ、テーブルはないので床に置く。泊まっている部屋といっても客室ではないから、布団があるだけまだましなのだ。
「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩……というより、俺が悪いんだ。今日、俺は色々と視えるようになったって話しただろ?」
「うん、それで詩子ちゃんの記憶を見たって」
目が泳ぐ。
でも言わないと。これで許されるわけではないし、吐き出して自分が楽になりたいというわけでもない。それでも、事情を説明しておかないといけない。
夕方までなんともなかったのに、いきなり仲違いをしているなんて状況的におかしすぎるからな。
「透さん達が部屋から出たあと、紅子さんが寄りかかってきてうたた寝してさ。俺も動けないからそのまま寝ちゃったんだけれど、そのときに……紅子さんの記憶を少し覗いちゃったんだよ」
それだけ言えば、透さんは把握したようだった。
そして困ったような顔をして、「どちらも悪くはないけれど、気持ちでは納得できないよね」と呟く。
そうだ。紅子さんだって不可抗力だったのは知っているし、俺だって変なことさえ思わなければ……制御がしっかりとできていれば彼女の地雷に触れることはなかったはずなんだよ。
お互いに理解はしている。でも、理屈じゃなくて気持ちが納得できない。
心ってやつは複雑だから。
「……俺もさ、紅子さんは生前のことを話してはくれないし、それは見られたくない、聞かれたくない、触れられたくないものだっていうのは前から分かってたんだよ。だからずっと見ないふりしてきてた。紅子さんと軽口言い合ってさ……お互いに素直に好意を向けられないから軽口で誤魔化しながら、ずっと一緒にいた。これって結構歪な関係だとは思っていたんだ」
吐き出すように。
俯いて、泣きたくなるほど飲み込んでいた想いを零す。
「うん」
「でも、触れたら今の関係が壊れちゃいそうで……それでずっと先延ばしにしてた。多分、今その先延ばしにしていたツケが来てるんだと思う。向き合ってこなかったことに、最悪な形で向き合わされることになってさ。紅子さんのこと、心まで守りたいって思ってたのに逆に傷つけて……俺、馬鹿みたいだ」
「うん、馬鹿だね」
「ちょっ、そこ肯定するのか」
爽やかな笑顔でそんなことを言うものだから、思わず俺は顔を上げていた。
「だって、否定されても嬉しくないでしょ? 令一くん」
「まあ、そうだな……」
「きみは許されたくない。けれど、紅子さんのことが好きだから知りたい、受け入れたい、前に進みたいとも思ってる。好きな子のことをなんでも知りたいって思っちゃうのは男の性かな。でもね、好きな人にこそ弱い部分を見せたくないって思っちゃうのも、女の子の性なんだよ。ほら、彼女は特に強がりさんだから」
透さんは、聞き上手だ。
彼は優しい声で俺に言い聞かせるように、ひとつひとつ言葉を丁寧に選びながら話していく。
紅子さんのことも、そして出会ったばかりの俺のことも理解して彼は真剣に話を聞いてくれていた。
「多分きみ達の関係が進むためには必要なことだったんだと思うよ。多少強引すぎるのはよくないんだけれど、こうでもしないと彼女は絶対に話したりしないし。今回のことはタイミングが最悪だよ。でも避けられない事態でもあった。それは俺が断言しておく。こういうのって早い段階にやらないと拗れに拗れちゃうよね。だから、その罪悪感と苦い気持ちは甘んじて受けておくこと」
「……分かった」
「うん、忘れちゃダメだよ。その気持ち」
「はい……」
「恋っていうのはさ、お互いに傷つけあいながらもゆっくり手探りで進んで行くものだよ。もちろん、一目惚れなんていうのもあるけれど、きみ達の場合は前者。距離をお互いに推し量りながら、たまにぶつかりあって、共に進んで行く……ずっと、一緒にね。令一くんは今、紅子さんの背中を見ているだけじゃなくて、隣に並ぶための努力をしている最中だ。そのために、まずはやることがあると思うんだけど、分かるかな?」
やること。
そんなのひとつに決まっている。
「ちゃんと、謝らなくちゃ。許されなくてもいい。避けて通れないなら、嫌われてもいい。俺は……俺の気持ちに真っ直ぐに向き合って、紅子さんを守る。それだけは変わらない」
「うんうん、辛くなったら相談に乗るからね」
マグカップが空になり、透さんが立ち上がる。
「ちゃんと寝て備えること。令一くんも、十分頑張ってるよ。きみのその真っ直ぐな気持ちがある限り、俺は応援する。紅子さんを不幸にするのだけは俺も許さないけど……頑張ってる令一くんなら、任せてもいいかなって思ってるからさ」
「ありがとう、透さん。でも、透さんって別に紅子さんと兄妹なわけじゃ」
「妹みたいなものだからね。幸せになってくれないと俺、嫌だよ」
「あっ、うん。そうか」
笑顔の中に無言の圧を感じた。
この人、意外と紅子さんに過保護だよな……
「それじゃあおやすみ。アリシアちゃんにはそれとなく言っておくから、気にせずに行動していいからね」
「なにからなにまでごめん……ありがとう」
手を振って、扉が閉まる。
夜の静けさに包まれた室内で、俺は窓から空を見上げた。
「彼女にどう思われようとも、俺の決意は変わらない……そう、変わらないんだ」
恋焦がれるのがこんなにも辛くて、苦しいものだとは知らなかった。
それでも俺は進みたいから。彼女の真実から逃げ出したくはないから。
怖くて震える足を叱咤して、前を向く。
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