139 / 144
漆の怪【ひとはしらのかみさま】
鴉の監視役
しおりを挟む
「俺ァ、荒事は苦手なんだよなぁ」
上空で鴉が呟いた。
そうして懐から取り出した光の球を放り投げる。
〝雷獣の足音〟を込められたその道具は、彼――刹那が萬屋店主から直々に渡されていたものだ。
刹那は鴉天狗ではあるものの、彼の出身の里は草食主義で里全体が戦闘能力皆無であった。幻術やら上手く飛ぶための風向き操作などはお手の物だが、それはとても殺傷力があるとは言えない。
彼自身は里の中でも幻術が得意なほうだった。
そのために令一の心臓を狙う爪を逸らしたのも、彼の咄嗟に行った幻術が巨大な蜘蛛に作用したからであった。
逸らすと言っても、咄嗟の出来事だったためにそこまで強く作用したわけではなかった。故に令一は左肩を刺し貫かれて大怪我を負っている。
早めに救助にいかなければならなかった。
バサリ、バサリと羽ばたいて一直線に彼らの元へ。
「奴らの目は潰したぜ! 旦那方、今のうちに資料館のほうへ逃げるんだ! いいかい!」
もって数分。
焦りを感じながらも刹那は、彼らの場所から少しズレた上空から声を上げた。
目は潰していても声で居場所がバレてしまったら意味がないのである。
しかし、見るからに令一は気絶しているし、紅子はそんな彼から離れはしない。事前に透やアリシアを資料館に誘導していたのが仇となり、救援に来るのが遅れた結果であった。
「あるじちゃんはオレがはこぶ。いくよ、せっちゃん」
焦れったい状況に刹那が悩んでいると、人型に変化したリンから声がかかる。
令一が気絶して見ていない状況だからこそできることだった。
リンの黄色い向日葵のような瞳は、静かな怒りを載せるように細められている。今すぐにでも蜘蛛共をめちゃくちゃに屠りに行きたい。
……そんな瞳をしながら、感情を抑えて令一をその小さな体で軽々と抱えた。
「ああ、小さいアル殿……じゃなくってリン殿。頼むぜ。あんたもこっち来な! あとの二人が資料館でお前さんらが無事に帰ってくんのを待ってるぜ!」
こうして令一と紅子は、霧に沈む森の中から一時退却するのであった。
◆
「鴉のお兄さん、いつから見ていたの?」
資料館に辿り着き、ひと息ついたところで紅子が呟いた。
「俺かい? 最初っからだよ。アル殿に頼まれたんでね。なにかあったら手助けに行けってさ。俺ァ、荒事に向かねぇのに、まったく無茶言ってくれるぜ」
やれやれと首を振る彼に「そっか」と紅子が俯く。
令一は気絶したまま、未だに目を覚まさない。そんな彼を涙を乗せた瞳で見ながら、紅子は悔しげに唇を噛んだ。
「アタシのせい。アタシが外に出るなんて〝余計なこと〟をしたから……っ」
「それは違うぜ、昨日も似たようなことがあった以上、ここにいる全員が同じ行動をしただろうよ。だからな、迂闊だとは思っちゃいねぇさ」
「令一ちゃんもね、てひどくやられちゃったけどさ、いままでいじょうにがんばってたよ」
令一の負担にならないように姫抱きにしたリンが朗らかに笑う。
まるで紅子を責める様子のない彼に、紅子は眉間に皺を寄せる。
「せめてほしいの?」
「……いや、それはアタシの自己満足にしかならない」
「わかってるなら、だいじょうぶだね」
いつも紅子が令一に言っていることである。
今ここで責任を問われたとしても、令一が許している以上、彼女にとって〝責めてもらう〟ことは自己満足の逃げにしかならないのだ。
「令一くん!」
「紅子お姉さん!」
廊下の奥から透と、黒猫を抱いたアリシアが姿を見せる。
二人はそれぞれの無事を確認すると、ひとまず安堵したように息をついた。
「酷い怪我だね……」
「悪ぃな。幻術で狙いを逸らしたはいいが、回避させられるほど上手くはいかなかったんだ」
「いえ、十分ですよ。左肩……ということは狙われたのは心臓、ですよね?」
「ああ、どうやら奴さん、旦那のことが目障りだったみたいでな」
「なら、命があるだけ儲けもの……だね」
透が眉を下げて言った。
そうして、一同は令一の泊まっていた部屋を目指す。
「それと、奴さんの落としたこれも回収しといたぜ」
刹那が懐を探り、令一が最後の一撃を放った際に落ちた組紐と鈴を見せる。
それは詩子のつけているものと似ているが、異なるものであった。
「そうだ、詩子ちゃんはこんな状況で無事なの?」
「ああ、あの白い子は、奴さんが大手を振って歩き回っているときにゃ祠の外に出てこれなくなるみてぇだなぁ」
上空から観察していた鴉の見立てである。
気配を消してさまざまなところへ情報を集めに行く彼には、観察癖がついていた。故に、推測は可能である。
「今日は霧が晴れそうにもねぇな。というより、奴らがまだあんたを探している」
刹那の視線の先には、紅子。
姿を見られた以上、蜘蛛の標的となった彼女は期日関係なしに狙われる立場となったのだ。
彼女はそんな視線を受けて俯く。
「この、資料館は安全なのかな?」
「うん、窓さえ空いていなければ蜘蛛がここに入ってくることはないって華野ちゃんも保証してくれたよ。他の家屋もそう。〝注連縄〟があるからだって」
代わりに答えたのは透だ。
侵入を阻む注連縄がある場所には、おしら神は入ってこれない。
先日の夕方、令一が蜘蛛に噛まれたのは窓が開いていたからであった。
「そっか……」
「お姉さん……」
明らかに落ち込んでいる紅子を、アリシアが心配そうに見上げる。
彼女の瞳には重傷を負った令一のみが映されていた。
「ところで、アルフォードさんみたいなその子ってもしかしてリンちゃん?」
「あ、あたしがなにも言わなかったことを……」
透が我慢できずにリンを見遣る。すると彼は令一を抱えたまま笑顔で返事をする。
「そう、オレだよぉ。あるじちゃんが、いつもおせわになってるね。でも、れーちゃんにはないしょ。ないしょなんだからね? わかった?」
「なにか事情があるんだね……そっか。今度令一くんがいないときにお話するのは可能かな?」
どうしても好奇心を抑えきれない彼に、リンは苦笑いをしながら快く返事をする。アリシアはそんな二人のやり取りを見ながら、小さく「重たい空気が変わりました」と呟いていた。
令一が泊まっている部屋に辿り着くと、リンがベッドに彼を横たえる。
隣で透が救急セットで応急処置をしながら令一の容態を見るが、彼は起きる様子がない。
「ちょっと熱も出ているね。蜘蛛の毒でも回っているのかも……? 爪で刺されたんだよね? そっちにも毒があったのかも。俺ができるのは応急処置だけだから……腕を固定して薬を塗るくらいしかできないんだけど……」
「きれいにかんつうしてるね。ほねはさいわい、ぶじみたいだけど」
リンが眉を顰める。
これでは両手で赤竜刀を握って戦うことができない。
「せっちゃん、ちょっとひとっとびして、オレのところから、ちりょうようのどうぐを持ってきてくれない?」
「ったく、無茶言いやがる。だが、リン殿の頼みなら仕方あるめぇな。分かったよ。ちょっくらひとっ飛びしてくるぜ」
「ボクが一時的に憑依するっていうのは?」
「ジェシュはだめ。れーちゃんをこれいじょう、にんげんからはずさせるわけにはいかない」
黒猫が含み笑いと共に提案した策はリンによって一蹴される。
それに素直に引き下がり、ジェシュは「ちょっとした親切心だから怒らないでよ」と不貞腐れた。
「ナチュラルにじゃしんっぽいことを、いわないでよ」
怒ったように睨むリンに、ジェシュはふいっとそっぽを向いて黙りこむ。
アリシアはそんな彼を困ったように見ながら「ごめんなさい」と謝った。ペットの不始末は彼女の責任になるのである。
「あの、さ」
ベッドに横たわった彼の手を握りながら、紅子が声を出した。
「しばらく、二人にしてもらっても、いいかな?」
つっかえるように言う彼女にリンは刹那と目を合わせる。
「俺はどっちにしろ今から出かけるからなぁ」
「じゃ、オレは赤竜刀のじょうたいでいようかな。まんがいちがあるから、よこにたてかけておいてよ」
リンにとっては、そこが妥協点だった。
「俺達は隣の部屋にいるよ。華野ちゃんに言って、あったかいココアを作って待ってるよ」
「あたしもですね。刹那さんが拾ってきた組紐と鈴について、なにか分からないか調べてみます」
快く紅子の願い事を受け入れ、透とアリシアが部屋を出る。
「なにかあったら教えてね?」
「お姉さんも、あんまり思い詰めちゃだめですよ。そんなことしてたら令一お兄さんに心配されちゃいますから」
部屋の扉が閉まる。
「それじゃあ、オレはねてるからね。なにかあったらよんで」
ベッドの横に赤竜刀が立てかけられる。
「そばにいてやんな。そのほうが早く目を覚ますだろうからな。あと、俺が出たら窓を閉めてくれよ」
そして鴉が一羽、窓から霧の空へと飛び立っていった。
「分かってるよ、アタシのせいだって。分かってるよ、令一さんならそうするって。でも、アタシはなんにもできなかった。体が動かないことに、恐怖で押し潰されそうになって……思い浮かんだのは令一さんの顔だった」
窓を閉めて、一人涙を落としながら紅子が言う。
ベッドに眠る令一の腕を握り、額に押し当てながら彼女は懇願するように、祈るように、次から次へと溢れ出る玉のような涙をそのままに泣く。
「ごめん、昨日は、アタシもどうかしてた。キミにだけは見られたくなかった。キミにだけは知られたくなかったことを見られて、感情的になってた」
静かな部屋で、彼女の贖罪だけが響き渡る。
「……謝らせてよ。起きて、謝らせてよ。お願いだから。ねえ、令一さん……っ、お願い、生きて。アタシを独りにしないでよ……我儘だなんてっ分かってる。都合がいいことなんて、分かってる。でも、キミには、キミにだけは生きていてほしいんだよ!」
嫌われたくない。
令一にだけは、嫌われたくない。
そんな想いがぐるぐると巡りながら紅子は泣きじゃくる。
「どうして、アタシはこんなに弱いの。キミのことになると、まるでダメなんだ。アタシ、こんなに泣くような人間じゃなかったのに……っ!」
そこに佇むのは、一人の泣き虫。
長年抑え込んできた感情を発露した、ただの一人の少女であった。
彼はまだ、目を覚まさない。
上空で鴉が呟いた。
そうして懐から取り出した光の球を放り投げる。
〝雷獣の足音〟を込められたその道具は、彼――刹那が萬屋店主から直々に渡されていたものだ。
刹那は鴉天狗ではあるものの、彼の出身の里は草食主義で里全体が戦闘能力皆無であった。幻術やら上手く飛ぶための風向き操作などはお手の物だが、それはとても殺傷力があるとは言えない。
彼自身は里の中でも幻術が得意なほうだった。
そのために令一の心臓を狙う爪を逸らしたのも、彼の咄嗟に行った幻術が巨大な蜘蛛に作用したからであった。
逸らすと言っても、咄嗟の出来事だったためにそこまで強く作用したわけではなかった。故に令一は左肩を刺し貫かれて大怪我を負っている。
早めに救助にいかなければならなかった。
バサリ、バサリと羽ばたいて一直線に彼らの元へ。
「奴らの目は潰したぜ! 旦那方、今のうちに資料館のほうへ逃げるんだ! いいかい!」
もって数分。
焦りを感じながらも刹那は、彼らの場所から少しズレた上空から声を上げた。
目は潰していても声で居場所がバレてしまったら意味がないのである。
しかし、見るからに令一は気絶しているし、紅子はそんな彼から離れはしない。事前に透やアリシアを資料館に誘導していたのが仇となり、救援に来るのが遅れた結果であった。
「あるじちゃんはオレがはこぶ。いくよ、せっちゃん」
焦れったい状況に刹那が悩んでいると、人型に変化したリンから声がかかる。
令一が気絶して見ていない状況だからこそできることだった。
リンの黄色い向日葵のような瞳は、静かな怒りを載せるように細められている。今すぐにでも蜘蛛共をめちゃくちゃに屠りに行きたい。
……そんな瞳をしながら、感情を抑えて令一をその小さな体で軽々と抱えた。
「ああ、小さいアル殿……じゃなくってリン殿。頼むぜ。あんたもこっち来な! あとの二人が資料館でお前さんらが無事に帰ってくんのを待ってるぜ!」
こうして令一と紅子は、霧に沈む森の中から一時退却するのであった。
◆
「鴉のお兄さん、いつから見ていたの?」
資料館に辿り着き、ひと息ついたところで紅子が呟いた。
「俺かい? 最初っからだよ。アル殿に頼まれたんでね。なにかあったら手助けに行けってさ。俺ァ、荒事に向かねぇのに、まったく無茶言ってくれるぜ」
やれやれと首を振る彼に「そっか」と紅子が俯く。
令一は気絶したまま、未だに目を覚まさない。そんな彼を涙を乗せた瞳で見ながら、紅子は悔しげに唇を噛んだ。
「アタシのせい。アタシが外に出るなんて〝余計なこと〟をしたから……っ」
「それは違うぜ、昨日も似たようなことがあった以上、ここにいる全員が同じ行動をしただろうよ。だからな、迂闊だとは思っちゃいねぇさ」
「令一ちゃんもね、てひどくやられちゃったけどさ、いままでいじょうにがんばってたよ」
令一の負担にならないように姫抱きにしたリンが朗らかに笑う。
まるで紅子を責める様子のない彼に、紅子は眉間に皺を寄せる。
「せめてほしいの?」
「……いや、それはアタシの自己満足にしかならない」
「わかってるなら、だいじょうぶだね」
いつも紅子が令一に言っていることである。
今ここで責任を問われたとしても、令一が許している以上、彼女にとって〝責めてもらう〟ことは自己満足の逃げにしかならないのだ。
「令一くん!」
「紅子お姉さん!」
廊下の奥から透と、黒猫を抱いたアリシアが姿を見せる。
二人はそれぞれの無事を確認すると、ひとまず安堵したように息をついた。
「酷い怪我だね……」
「悪ぃな。幻術で狙いを逸らしたはいいが、回避させられるほど上手くはいかなかったんだ」
「いえ、十分ですよ。左肩……ということは狙われたのは心臓、ですよね?」
「ああ、どうやら奴さん、旦那のことが目障りだったみたいでな」
「なら、命があるだけ儲けもの……だね」
透が眉を下げて言った。
そうして、一同は令一の泊まっていた部屋を目指す。
「それと、奴さんの落としたこれも回収しといたぜ」
刹那が懐を探り、令一が最後の一撃を放った際に落ちた組紐と鈴を見せる。
それは詩子のつけているものと似ているが、異なるものであった。
「そうだ、詩子ちゃんはこんな状況で無事なの?」
「ああ、あの白い子は、奴さんが大手を振って歩き回っているときにゃ祠の外に出てこれなくなるみてぇだなぁ」
上空から観察していた鴉の見立てである。
気配を消してさまざまなところへ情報を集めに行く彼には、観察癖がついていた。故に、推測は可能である。
「今日は霧が晴れそうにもねぇな。というより、奴らがまだあんたを探している」
刹那の視線の先には、紅子。
姿を見られた以上、蜘蛛の標的となった彼女は期日関係なしに狙われる立場となったのだ。
彼女はそんな視線を受けて俯く。
「この、資料館は安全なのかな?」
「うん、窓さえ空いていなければ蜘蛛がここに入ってくることはないって華野ちゃんも保証してくれたよ。他の家屋もそう。〝注連縄〟があるからだって」
代わりに答えたのは透だ。
侵入を阻む注連縄がある場所には、おしら神は入ってこれない。
先日の夕方、令一が蜘蛛に噛まれたのは窓が開いていたからであった。
「そっか……」
「お姉さん……」
明らかに落ち込んでいる紅子を、アリシアが心配そうに見上げる。
彼女の瞳には重傷を負った令一のみが映されていた。
「ところで、アルフォードさんみたいなその子ってもしかしてリンちゃん?」
「あ、あたしがなにも言わなかったことを……」
透が我慢できずにリンを見遣る。すると彼は令一を抱えたまま笑顔で返事をする。
「そう、オレだよぉ。あるじちゃんが、いつもおせわになってるね。でも、れーちゃんにはないしょ。ないしょなんだからね? わかった?」
「なにか事情があるんだね……そっか。今度令一くんがいないときにお話するのは可能かな?」
どうしても好奇心を抑えきれない彼に、リンは苦笑いをしながら快く返事をする。アリシアはそんな二人のやり取りを見ながら、小さく「重たい空気が変わりました」と呟いていた。
令一が泊まっている部屋に辿り着くと、リンがベッドに彼を横たえる。
隣で透が救急セットで応急処置をしながら令一の容態を見るが、彼は起きる様子がない。
「ちょっと熱も出ているね。蜘蛛の毒でも回っているのかも……? 爪で刺されたんだよね? そっちにも毒があったのかも。俺ができるのは応急処置だけだから……腕を固定して薬を塗るくらいしかできないんだけど……」
「きれいにかんつうしてるね。ほねはさいわい、ぶじみたいだけど」
リンが眉を顰める。
これでは両手で赤竜刀を握って戦うことができない。
「せっちゃん、ちょっとひとっとびして、オレのところから、ちりょうようのどうぐを持ってきてくれない?」
「ったく、無茶言いやがる。だが、リン殿の頼みなら仕方あるめぇな。分かったよ。ちょっくらひとっ飛びしてくるぜ」
「ボクが一時的に憑依するっていうのは?」
「ジェシュはだめ。れーちゃんをこれいじょう、にんげんからはずさせるわけにはいかない」
黒猫が含み笑いと共に提案した策はリンによって一蹴される。
それに素直に引き下がり、ジェシュは「ちょっとした親切心だから怒らないでよ」と不貞腐れた。
「ナチュラルにじゃしんっぽいことを、いわないでよ」
怒ったように睨むリンに、ジェシュはふいっとそっぽを向いて黙りこむ。
アリシアはそんな彼を困ったように見ながら「ごめんなさい」と謝った。ペットの不始末は彼女の責任になるのである。
「あの、さ」
ベッドに横たわった彼の手を握りながら、紅子が声を出した。
「しばらく、二人にしてもらっても、いいかな?」
つっかえるように言う彼女にリンは刹那と目を合わせる。
「俺はどっちにしろ今から出かけるからなぁ」
「じゃ、オレは赤竜刀のじょうたいでいようかな。まんがいちがあるから、よこにたてかけておいてよ」
リンにとっては、そこが妥協点だった。
「俺達は隣の部屋にいるよ。華野ちゃんに言って、あったかいココアを作って待ってるよ」
「あたしもですね。刹那さんが拾ってきた組紐と鈴について、なにか分からないか調べてみます」
快く紅子の願い事を受け入れ、透とアリシアが部屋を出る。
「なにかあったら教えてね?」
「お姉さんも、あんまり思い詰めちゃだめですよ。そんなことしてたら令一お兄さんに心配されちゃいますから」
部屋の扉が閉まる。
「それじゃあ、オレはねてるからね。なにかあったらよんで」
ベッドの横に赤竜刀が立てかけられる。
「そばにいてやんな。そのほうが早く目を覚ますだろうからな。あと、俺が出たら窓を閉めてくれよ」
そして鴉が一羽、窓から霧の空へと飛び立っていった。
「分かってるよ、アタシのせいだって。分かってるよ、令一さんならそうするって。でも、アタシはなんにもできなかった。体が動かないことに、恐怖で押し潰されそうになって……思い浮かんだのは令一さんの顔だった」
窓を閉めて、一人涙を落としながら紅子が言う。
ベッドに眠る令一の腕を握り、額に押し当てながら彼女は懇願するように、祈るように、次から次へと溢れ出る玉のような涙をそのままに泣く。
「ごめん、昨日は、アタシもどうかしてた。キミにだけは見られたくなかった。キミにだけは知られたくなかったことを見られて、感情的になってた」
静かな部屋で、彼女の贖罪だけが響き渡る。
「……謝らせてよ。起きて、謝らせてよ。お願いだから。ねえ、令一さん……っ、お願い、生きて。アタシを独りにしないでよ……我儘だなんてっ分かってる。都合がいいことなんて、分かってる。でも、キミには、キミにだけは生きていてほしいんだよ!」
嫌われたくない。
令一にだけは、嫌われたくない。
そんな想いがぐるぐると巡りながら紅子は泣きじゃくる。
「どうして、アタシはこんなに弱いの。キミのことになると、まるでダメなんだ。アタシ、こんなに泣くような人間じゃなかったのに……っ!」
そこに佇むのは、一人の泣き虫。
長年抑え込んできた感情を発露した、ただの一人の少女であった。
彼はまだ、目を覚まさない。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
翡翠のうた姫〜【中華×サスペンス】身分違いの恋と陰謀に揺れる宮廷物語〜
雪城 冴 (ゆきしろ さえ)
キャラ文芸
【中華×サスペンス】
「いつか僕のために歌って――」
雪の中、孤独な少女に手を差し伸べた少年。
その記憶を失った翠蓮(スイレン)は、歌だけを頼りに宮廷歌姫のオーディションへ挑む。
だがその才能は、早くも権力と嫉妬の目に留まる。中傷や妨害は次々とエスカレート。
やがて舞台は、後宮の派閥争いや戦場、国境まで越えていく。
そんな中、翠蓮を何度も救うのは第二皇子・蒼瑛(ソウエイ)。普段は冷静で穏やかな彼が、翠蓮のこととなると、度々感情を露わにする。
蒼瑛に対する気持ちは、尊敬? 憧れ? それとも――忘れてしまった " あの約束 " なのか。
すれ違いながら惹かれ合う二人。甘く切ない、中華ファンタジー
宿敵の家の当主を妻に貰いました~妻は可憐で儚くて優しくて賢くて可愛くて最高です~
紗沙
恋愛
剣の名家にして、国の南側を支配する大貴族フォルス家。
そこの三男として生まれたノヴァは一族のみが扱える秘技が全く使えない、出来損ないというレッテルを貼られ、辛い子供時代を過ごした。
大人になったノヴァは小さな領地を与えられるものの、仕事も家族からの期待も、周りからの期待も0に等しい。
しかし、そんなノヴァに舞い込んだ一件の縁談話。相手は国の北側を支配する大貴族。
フォルス家とは長年の確執があり、今は栄華を極めているアークゲート家だった。
しかも縁談の相手は、まさかのアークゲート家当主・シアで・・・。
「あのときからずっと……お慕いしています」
かくして、何も持たないフォルス家の三男坊は性格良し、容姿良し、というか全てが良しの妻を迎え入れることになる。
ノヴァの運命を変える、全てを与えてこようとする妻を。
「人はアークゲート家の当主を恐ろしいとか、血も涙もないとか、冷酷とか散々に言うけど、
シアは可愛いし、優しいし、賢いし、完璧だよ」
あまり深く考えないノヴァと、彼にしか自分の素を見せないシア、二人の結婚生活が始まる。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜
春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!>
宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。
しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——?
「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる