モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

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言葉にできない感情

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寮へ戻る道は、昼間よりも静かだった。
石畳を踏む靴音が規則正しく響き、夕暮れの空気が少しだけ冷たい。

隣を歩くアイナは、もうすっかり落ち着いているように見えた。
さっきまで、あれほど震えていたというのに。

――もし、間に合っていなかったら。

その想像が、何度も頭をよぎる。

あの路地。
下卑た笑い声。
伸びてきた手。

ほんの少し、判断が遅れていたら。
ほんの少し、エルンストが通りかからなかったら。

(……最悪の未来が、あり得た)

喉の奥が、ひどく詰まる。

アイナは、俺の隣で歩いている。
いつも通りの顔で、いつも通りの足取りで。

それが、逆に怖かった。

「……なあ」

声をかけようとして、言葉が続かない。

謝るべきなのか。
慰めるべきなのか。
それとも、何事もなかったように振る舞うべきなのか。

わからない。

俺は、騎士科だ。
守る側だ。
剣を学び、盾になると決めて、この学園に来た。

なのに。

(俺と一緒に出掛けて、恐い思いをさせた)

それが、胸に重くのしかかる。

親父の言葉が、嫌でも思い出された。

『アイナ様は、我が家にとっても大切な方だ。
 お前は、あの方を守れる男になれ』

子どもの頃から、何度も聞かされた言葉だ。
それは忠義で、責任で、使命だった。

――そう、思っていた。

けれど。

今日、あの場面を思い返すたびに、胸の奥がざわつく。

もし、あの男たちが触れていたら。
もし、アイナが泣き叫んでいたら。
もし、取り返しのつかないことになっていたら。

怒りと恐怖が、ないまぜになる。

同時に――

(……嫌だ)

理屈じゃない感情が、はっきりと浮かび上がった。

使命だからじゃない。
家の命令だからでもない。

他の誰かに、傷つけられるなんて、耐えられない。

それが誰であっても。
騎士科のエリートだろうが、王族だろうが、知らない男だろうが。

(……奪われる、みたいで)

そこまで考えて、はっとする。

奪われる?

何をだ。

俺は、無意識にアイナの横顔を見た。
夕暮れの光を受けた頬。
少し乱れた髪。
普段と変わらない、幼馴染の顔。

なのに、胸が苦しい。

エルンストの姿が、脳裏をよぎる。
迷いなく前に出て、男たちを制圧したあの背中。

(……あいつがいなかったら)

助かったことへの感謝と同時に、別の感情が芽生えた。

悔しさ。
劣等感。
そして、得体の知れない焦り。

――俺じゃなかった。

守ったのは、俺じゃない。

その事実が、ひどく胸を抉る。

「ヴィル?」

不意に、名前を呼ばれて、肩が揺れた。

「どうしたの? さっきから静かだけど」

心配そうな目で、こちらを見る。

その視線を向けられた瞬間、胸の奥が締め付けられた。

「……なんでもねぇ」

そう答えるしかなかった。

言葉にしてしまったら、何かが壊れる気がした。

これは、幼馴染としての感情じゃない。
守る役目としての責任だけでもない。

もっと、個人的で。
もっと、身勝手で。

(……俺は)

初めて、はっきりと理解した。

俺は、アイナを「守るべき存在」として見ていただけじゃない。

笑ってほしい。
泣かせたくない。
他の誰かに触れられるのが、嫌だ。

それは――

(初恋、ってやつか)

気付いた瞬間、逃げ場がなくなった。

剣を握るより、重たい自覚。
今まで感じたことのない、熱を伴う想い。

アイナは何も知らず、寮の門へ向かって歩いている。


俺だけが、変わってしまった。




ヴィル視点
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