モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

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目標地点

授業が終わる直前の空気は、いつも少しだけ張りつめる。
教室に漂うインクと紙の匂い、椅子を引く気配、早く立ち上がりたいという無言の焦り。

アイナは、教壇を見つめたまま指先に力を込めていた。
心臓の鼓動が、やけに大きい。

(もうすぐ……)

3。
2。
1。

――カーン。

始業とは逆の意味を持つ音。
終わりを告げる鐘。

はやく。
はやく。
はやく。

椅子を引く音が重なり合う中、アイナは立ち上がると同時に教室を抜けた。
いつもの動線じゃない。
今日は、違う。

(こっち……!)

普段なら使わない廊下。
視界の先に、階段。

その瞬間――

(……ダメ)

直感が叫んだ。
この階段は、危険だ。

一瞬、足を止める。
身体を反転させ、別の通路へ。

その時だった。

向こうの廊下の奥から、聞き慣れた足音が近づいてくる。
規則正しくて、迷いのない歩幅。

(……ヴィル)

背筋が、ぞくりと粟立った。

時間が、引き延ばされたみたいに感じる。
一歩、また一歩。
距離が詰まる。

(……来る)

アイナは、反射的に柱の影へ身を滑り込ませた。
息を止める。
制服の裾を押さえ、気配を殺す。

視界の端に、ヴィルの姿が映った。

いつものように真っ直ぐで、いつものように堂々としていて。
何も疑っていない顔。

――なのに。

ヴィルは、ほんの一瞬だけ足を止めた。

(……っ)

アイナの喉が、きゅっと鳴る。

視線が、空を探るように揺れる。
何かを失くしたような、違和感を探るような目。

(気づかないで……)

願うように、影の中で息を潜める。

一拍。

ヴィルは小さく眉を寄せ、それから歩き出した。
足音が、遠ざかっていく。

(……行った)

胸に溜め込んでいた空気を、静かに吐き出す。
手で口を押さえ、音を殺す。

視界から、完全に消えた。

今だ。

アイナは、走った。

音を立てないように、でも全力で。
角を曲がり、回廊を抜け、視線を走らせる。

(目標地点……)

脳裏に浮かぶ、朝の合図。

ベルトに触れ、地面を指し、指で描かれた円。

(……円の中)

訓練所。

扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
石と土の匂い。
静まり返った広い空間。

そして――

いた。

青い髪。
背筋を伸ばして立つ、その姿。

エルンストは、最初からそこにいたかのように、静かに佇んでいた。
いや、違う。

(……待ってた)

それが、わかってしまう。

アイナが足を止めた、その瞬間。
エルンストの視線が、まっすぐこちらに向いた。

言葉はない。
ただ、目が合う。

そして。

ほんのわずか、立ち位置がずれた。

円の中。
影になる位置。

――ここだ。

(……)

胸が、きゅっと締めつけられる。

守っている。
でも、同時に――奪っている。

ヴィルを避けるために。
気づかせないために。

エルンストは、何も言わない。
ただ、そこにいる。

アイナは、円の中へ足を踏み入れた。

扉の向こうでは、もう誰も気づかない。
廊下には、何事もなかったような日常が流れている。

なのに。

ここだけが、別の世界みたいだった。

エルンストが、低く息を吸う。

「……来たな」

その声に、胸が跳ねる。

「うん……」

短い返事。
それだけで、十分だった。

エルンストの視線が、アイナの顔をなぞる。
逃げたか。
無事か。
怖くなかったか。

全部を確認するように。

「……大丈夫か?」

「……うん」

嘘じゃない。
でも、本当でもない。

ドキドキして。
怖くて。
嬉しくて。

全部が混ざって、うまく言葉にできないだけ。

エルンストは、何も言わずに距離を詰めた。
触れない。
でも、近い。

その距離が、たまらなくて。

(……鬼ごっこと隠れんぼの授業)

心の中で苦笑する。

こんなところで役に立つなんて。

――もし、ヴィルが一歩早かったら。
――もし、エルンストが動かなかったら。

考えるだけで、背中が冷える。

それでも。

今、ここにいる。

円の中で。
彼の視線の中で。

アイナは、小さく息を吸い込んだ。

「……来れて、よかった」

エルンストの口元が、ほんのわずかに緩む。

「……ああ」

その短い返事が、胸に深く落ちた。



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