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愛称で呼ばれた男
なんの前触れもなく、呼ばれた。
「エルン」
たった二音。
それだけで、世界が一瞬、きらりと色を変えた。
反射的に振り返っていた。
満面の笑みだったと思う。抑えられなかった。
――呼ばれた。
名前を、あの距離で。
誰の前でもなく、無意識に。
胸の奥が、跳ね上がる。
理性が「状況を確認しろ」と言う前に、感情が先に前へ出た。
……だが。
振り返った先で見た彼女の顔に、俺は一瞬、息を詰めた。
必死だった。
笑顔じゃない。
冗談でもない。
瞳は揺れていて、唇は強く結ばれている。
そして――指が、震えていた。
(……なんだ?)
そこではじめて、時間が戻る。
自分の腕の中。
桃色の髪。
掴まれた服。
騎士として、当然の行動だった。
転びそうになった人間を支える。それだけだ。
だが。
アイナの震える指先を見た瞬間、
胸の奥に、ひどく嫌な感覚が落ちてきた。
(……違う)
これは、嫉妬じゃない。
怒りでもない。
――恐怖だ。
彼女が、怖がっている。
俺が誰かに触れたことを、ではない。
“何かが動き出した”ことを、直感的に感じ取っている。
それが、伝わってくる。
俺は、抱いていた腕をすぐに離した。
必要以上に触れない。距離を戻す。
そして、彼女の方へ向き直る。
「授業、始まるな」
そう言った時、
彼女がほんの一瞬、安堵したのが分かった。
――それが、胸に刺さった。
俺は、彼女を不安にさせたくない。
それだけは、はっきりしている。
それなのに。
ふと、別の記憶が重なる。
廊下。
すれ違った男。
金髪、鋭い眼差し。
アイナが、反射的に俺とヴィルの後ろに隠れた、あの瞬間。
(……レオン・ヴァルグ)
あれは偶然じゃない。
彼女は、知っている。
そして――避けている。
桃色の彼女。
留学生。
学園の空気。
何かが、ずれている。
静かに、だが確実に。
俺は、アイナを見る。
彼女は、もう平静を装っている。
いつもの調子に戻ろうとしている。
だが、指先の震えは、まだ消えていない。
(……守る)
そう思った瞬間、
胸の奥で、熱が静かに広がった。
奪わない。
囲い込まない。
だが、見失わない。
俺はもう、
「何も起きていないふり」をするつもりはなかった。
愛称で呼ばれた、その一瞬で。
彼女がどれほど無意識に、俺を頼っているかを知ってしまったからだ。
そして同時に――
この学園には、
彼女の平穏を脅かす“要素”が、確実に増えている。
桃色の彼女。
隣国の公爵子息。
そして、俺自身。
(……静かに、行こう)
焦るな。
踏み込むな。
だが、準備はする。
彼女がまた震えた時、
次は――迷わず、手を伸ばせるように。
そう、静かに決めながら、
俺は歩き出した。
新学期の廊下は、
思っていたよりも、ずっと騒がしかった。
「エルン」
たった二音。
それだけで、世界が一瞬、きらりと色を変えた。
反射的に振り返っていた。
満面の笑みだったと思う。抑えられなかった。
――呼ばれた。
名前を、あの距離で。
誰の前でもなく、無意識に。
胸の奥が、跳ね上がる。
理性が「状況を確認しろ」と言う前に、感情が先に前へ出た。
……だが。
振り返った先で見た彼女の顔に、俺は一瞬、息を詰めた。
必死だった。
笑顔じゃない。
冗談でもない。
瞳は揺れていて、唇は強く結ばれている。
そして――指が、震えていた。
(……なんだ?)
そこではじめて、時間が戻る。
自分の腕の中。
桃色の髪。
掴まれた服。
騎士として、当然の行動だった。
転びそうになった人間を支える。それだけだ。
だが。
アイナの震える指先を見た瞬間、
胸の奥に、ひどく嫌な感覚が落ちてきた。
(……違う)
これは、嫉妬じゃない。
怒りでもない。
――恐怖だ。
彼女が、怖がっている。
俺が誰かに触れたことを、ではない。
“何かが動き出した”ことを、直感的に感じ取っている。
それが、伝わってくる。
俺は、抱いていた腕をすぐに離した。
必要以上に触れない。距離を戻す。
そして、彼女の方へ向き直る。
「授業、始まるな」
そう言った時、
彼女がほんの一瞬、安堵したのが分かった。
――それが、胸に刺さった。
俺は、彼女を不安にさせたくない。
それだけは、はっきりしている。
それなのに。
ふと、別の記憶が重なる。
廊下。
すれ違った男。
金髪、鋭い眼差し。
アイナが、反射的に俺とヴィルの後ろに隠れた、あの瞬間。
(……レオン・ヴァルグ)
あれは偶然じゃない。
彼女は、知っている。
そして――避けている。
桃色の彼女。
留学生。
学園の空気。
何かが、ずれている。
静かに、だが確実に。
俺は、アイナを見る。
彼女は、もう平静を装っている。
いつもの調子に戻ろうとしている。
だが、指先の震えは、まだ消えていない。
(……守る)
そう思った瞬間、
胸の奥で、熱が静かに広がった。
奪わない。
囲い込まない。
だが、見失わない。
俺はもう、
「何も起きていないふり」をするつもりはなかった。
愛称で呼ばれた、その一瞬で。
彼女がどれほど無意識に、俺を頼っているかを知ってしまったからだ。
そして同時に――
この学園には、
彼女の平穏を脅かす“要素”が、確実に増えている。
桃色の彼女。
隣国の公爵子息。
そして、俺自身。
(……静かに、行こう)
焦るな。
踏み込むな。
だが、準備はする。
彼女がまた震えた時、
次は――迷わず、手を伸ばせるように。
そう、静かに決めながら、
俺は歩き出した。
新学期の廊下は、
思っていたよりも、ずっと騒がしかった。
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