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第5話:血ではない温度
🩸05-1 均された血、消えない匂い
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(ルカリウス)
夜はまだ深い。
王城の一角、騎士棟。
重い黒のカーテンが光を遮り、
騎士の私室には静かな闇が沈んでいる。
燭台の炎が低く揺れ、
赤い影が石壁に滲んでいた。
石の床。冷えた空気。
鉄と革の匂い。
いつも通りの、騎士の部屋だ。
──なのに。
今夜だけ、空気がわずかに緩んでいる。
他人の体温。
差し出された首筋の血の気配。
本来この部屋には存在しない温度が、
冷えた空気を薄く濁していた。
整いすぎている。
ここには“特別”がない。
ルカリウスは長椅子に腰掛けていた。
膝の上には、ひとりの女。
吸血族貴族の娘。
艶やかな黒髪が肩を滑り、白い首筋が惜しげもなく晒されている。
薄い皮膚の下で、律儀な鼓動が規則正しく脈打っていた。
「今日は、私を選んでくださるのですね」
期待を含んだ声。
ルカリウスは答えない。
顎を持ち上げ、鼻先をわずかに寄せる。
匂いを確かめる仕草は、捕食者のそれだった。
整っている。
安全で、均されている。
女は目を閉じ、自ら首筋を差し出す。
迷いなく、牙が沈む。
温度が舌を満たす。
鼓動とともに命が流れ込み、熱が喉を落ち、内側をゆっくりと満たしていく。
必要な分だけ。
血は燃料だ。
匂いに差はある。だが本質は変わらない。
貴族も、一般族も、人間も──結局は同じ命の匂い。
それでも。
舌の奥が、別の温度を探している。
女の指が肩に絡む。吐息が震える。
吸血は快楽を伴う。
だがルカリウスにとっては、要るから飲む。
それだけだ。
──それなのに。
(……違う)
量は足りているはずなのに、鼻腔の奥に残るものが消えない。
思い出すのは、ほんの一瞬、掠めただけの王族の血。
味ではない。
舌の記憶でもない。
匂いだ。
深い赤のダマスクローズ。
凛と立つアイリス。
肌に沈むホワイトムスク。
その奥に、体温でだけほどける、わずかな甘さ。
澄みきった命の気配。
冷えた夜気を裂く、鋭い光。
ただの血ではなかった。
本能の底を、確かに揺らす匂いだった。
今、別の女の血を飲んでいるというのに。
鼻の奥に残るのは、あの気配だけだ。
牙を抜くと、女は頬を染め、満足げに微笑む。
「……優しいですね、ルカリウス様」
優しい。
その言葉を受け止める場所が、ルカリウスの中にはない。
横並びのひとり。昨日は別の女。明日はまた別の誰か。
置いていかれないために飲む。
それだけだ。
それなのに──
なぜ、あの匂いだけが残る。
飲んでいないはずの血が、
喉の奥でまだ呼吸している。
手のひらに蘇るのは、ローゼリアの首筋の感触。
浅く掠めた、あの小さな傷。
血は飲んでいない。
それでも、消えない。
「……帰れ」
女が去り、命の匂いが薄れていく。
血は足りている。
それでも──
渇きだけが、残る。
夜はまだ深い。
王城の一角、騎士棟。
重い黒のカーテンが光を遮り、
騎士の私室には静かな闇が沈んでいる。
燭台の炎が低く揺れ、
赤い影が石壁に滲んでいた。
石の床。冷えた空気。
鉄と革の匂い。
いつも通りの、騎士の部屋だ。
──なのに。
今夜だけ、空気がわずかに緩んでいる。
他人の体温。
差し出された首筋の血の気配。
本来この部屋には存在しない温度が、
冷えた空気を薄く濁していた。
整いすぎている。
ここには“特別”がない。
ルカリウスは長椅子に腰掛けていた。
膝の上には、ひとりの女。
吸血族貴族の娘。
艶やかな黒髪が肩を滑り、白い首筋が惜しげもなく晒されている。
薄い皮膚の下で、律儀な鼓動が規則正しく脈打っていた。
「今日は、私を選んでくださるのですね」
期待を含んだ声。
ルカリウスは答えない。
顎を持ち上げ、鼻先をわずかに寄せる。
匂いを確かめる仕草は、捕食者のそれだった。
整っている。
安全で、均されている。
女は目を閉じ、自ら首筋を差し出す。
迷いなく、牙が沈む。
温度が舌を満たす。
鼓動とともに命が流れ込み、熱が喉を落ち、内側をゆっくりと満たしていく。
必要な分だけ。
血は燃料だ。
匂いに差はある。だが本質は変わらない。
貴族も、一般族も、人間も──結局は同じ命の匂い。
それでも。
舌の奥が、別の温度を探している。
女の指が肩に絡む。吐息が震える。
吸血は快楽を伴う。
だがルカリウスにとっては、要るから飲む。
それだけだ。
──それなのに。
(……違う)
量は足りているはずなのに、鼻腔の奥に残るものが消えない。
思い出すのは、ほんの一瞬、掠めただけの王族の血。
味ではない。
舌の記憶でもない。
匂いだ。
深い赤のダマスクローズ。
凛と立つアイリス。
肌に沈むホワイトムスク。
その奥に、体温でだけほどける、わずかな甘さ。
澄みきった命の気配。
冷えた夜気を裂く、鋭い光。
ただの血ではなかった。
本能の底を、確かに揺らす匂いだった。
今、別の女の血を飲んでいるというのに。
鼻の奥に残るのは、あの気配だけだ。
牙を抜くと、女は頬を染め、満足げに微笑む。
「……優しいですね、ルカリウス様」
優しい。
その言葉を受け止める場所が、ルカリウスの中にはない。
横並びのひとり。昨日は別の女。明日はまた別の誰か。
置いていかれないために飲む。
それだけだ。
それなのに──
なぜ、あの匂いだけが残る。
飲んでいないはずの血が、
喉の奥でまだ呼吸している。
手のひらに蘇るのは、ローゼリアの首筋の感触。
浅く掠めた、あの小さな傷。
血は飲んでいない。
それでも、消えない。
「……帰れ」
女が去り、命の匂いが薄れていく。
血は足りている。
それでも──
渇きだけが、残る。
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