降り積もる記憶の彼方から

椎葉ユズル

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scene 1

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 佐野遼太郎さのりょうたろうが初めてその男に会ったのは、そろそろ桜の花が散り始めるという頃だった。

 鮮やかな薄紅色の花びらが地面を覆い、見上げれば新緑が目に眩しい季節がそこまでやってきていた。
 会社までの道のり、いつもの川沿いの遊歩道をゆっくりと歩く。遼太郎は季節の移り変わりをこの景色で味わうのが好きだった。

 通勤ラッシュにはほど遠い時間。のんびり時間をかけて歩く道。早朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込む。
 遊歩道を抜けたら大通りに出る。遼太郎が勤める会社は、大通りの信号を渡ってすぐだ。

 誰もいない青信号を大股で渡り、ビルのガラス扉を抜ける。十二階建てのビルの中は、様々な業種の事務所が入っている。いわゆる雑居ビルだ。
 この時間に出入りする人間はほとんどいない。遼太郎が出勤するときは、エレベーターホールはたいてい一人だった。 


 なので、その日その男がいたことに遼太郎は驚いた。
 男の方もこんな朝早い時間に自分以外の人間が出勤してきたことに驚いたようだ。一瞬、黒髪のかかる目を見開いてこちらを見た。しかしその視線はふいっとすぐに逸らされた。

 挨拶でも、と思った遼太郎の親切心はそこで萎んでしまった。

 ――なんだ。そんなにあからさまに無視しなくても。
 階段で行こうかとも思ったが、七階まで昇る気力が起きず、結局二人、気まずい雰囲気のままエレベーターを待つ。

 右手に有名なカフェショップのタンブラー、左手に大きな図面ケース。
 図面ケースは肩紐がついてないから、指に引っかけて持つしかない。そして背中にビジネスバッグ。

 そっと窺った横顔の肌のきめ細かさからみると、男というより青年と呼んだほうがよさそうだ。もしかしたらこの春入社したばかりの新人なのかもしれない。……自分はもうそろそろ『青年』の域からは脱しそうだ。悲しいことに。

 背がひょろりと高い。見上げたその頭は真っ黒で、癖っ毛なのか、あちこち自由に跳ねた髪に覆われている。
 あまりジロジロ眺めているのも失礼だと思いつつ、先ほど逸らされた視線のことが気になって、つい不躾な態度になってしまう。

 やっとエレベーターのランプが点灯し、静かに両扉のドアが開いた。近くにいた遼太郎が先に乗り、青年が後に続く。

 そこで初めて両手が塞がって階数のボタンが押せないことに気づいたようだ。あ、と小さくつぶやく声が耳に届いた。

「――何階ですか?」
 社会人のマナーとして、同じビルで働く者のよしみとして、遼太郎はムカムカする感情を押し殺して、営業スマイルを浮かべた。顔だけ笑うなんて日常茶飯事だ。

「あ、ご、五階を……ありがとうございます」
 黒髪の青年は、遼太郎を見て少しはにかんだように微笑んだ。

 ――なぜか、その笑顔にすごく惹かれた。
 屈託のない、喜びに溢れたその表情。

 ただボタンを押してやっただけなのに。
 一瞬見惚れてしまい、そんな自分に驚いて思わず顔を思いっきり逸らした。

 エレベーターが「5」を点灯させ、静かに停止した。
 青年は遼太郎の態度に愁色を濃くして、少し肩を落とし猫背になってドアをくぐり抜けていった。

 鉄製の扉が背の高い後ろ姿を徐々に隠していく。その背中に少しだけ罪悪感を感じてしまう自分をもてあまし、遼太郎は胸に手をあてて大きなため息をついた。


  scene 1. 〈了〉
 
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