降り積もる記憶の彼方から

椎葉ユズル

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scene 3.

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「あ、佐野くん帰ってきた!」

 遼太郎が帰社してきたとたん、同じ営業部一課で同期でもある、西野綾花にしのあやかが立ち上がって歓迎してくれた。

「じゃ、行こっか」
「え、ちょっと待てよ。どこに?」
 袖を引っ張る綾花の手をそっと外し、遼太郎は重い鞄を自席に置いた。

「そのために帰って来たんじゃないの? 今日四時からビル全体で避難訓練。あたしと佐野くん代表者。……まさか忘れてたんじゃないでしょうね」

 茶色い明るめのボブヘアを揺らして、綾花がじろりと睨みつけてくる。そういえば先ほど館内放送が流れていたのを聞いたくせに欠片も思い出さなかったとは口が裂けても言えず、
「いやいや、まさか」
 へらっと苦笑いしてごまかす。ごまかせたかどうか怪しいものだったが。

 一応、訓練なので、エレベーターは使えない。重い鉄製のドアを開け、綾花と一緒に長い非常階段を降りていく。途中のフロアからもどんどん人が増え、普段静まり返っているであろう非常階段は大渋滞となった。階段の隙間から下を覗くと遥か地階まで見通せて、少し目まいがした。

 


 会場である地下二階の駐車場にようやくたどり着く。

 群衆の輪の中に、いつも見るビルの管理会社の人間が消火器を持って立っている。これから避難時の注意事項の説明があり、消火器の実践訓練だ。毎回、いきなり指名を受けた者が注目を一身に浴びながら慣れない消火活動をせねばならない。

 前回その役目を仰せつかって、かなり手間取ってしまい決まりの悪い思いをした遼太郎にとっては当たりたくない役目だ。

「だいたいさあ。なんでまた俺? こういうの持ち回りなんじゃない普通」
「前川さんが『佐野が適任だから』って」

 前川は課の直属の上司に当たる。あの人、自分が行きたくないからって。

「……絶対なんか奢ってもらう」
「あ、じゃああたしも~」

 ニッと笑う綾花を見て、荒んでいた心が少し和む。彼女のサバサバした物言いは正直すぎるきらいもあるが、遼太郎には小気味よく感じる。同じ課ということもあるが、社内ではいちばん会話している相手かもしれない。

 


 ひとしきり笑ったあと、ふと周りを見渡した。正面の人だかりのなかに、遼太郎は頭ひとつ飛び出た、ふわふわと綿毛のように揺れる黒髪を見つけた。

 ――黒木だ。

 ひょろりと背の高いその横顔は、隣にいる誰かと談笑しており遼太郎には気づいていないようだった。
 
 お互い目が合えば会釈のひとつもしようかと眺めていたが、話が盛り上がっているのか、なかなか顔をあげようとしない。

 ――ふうん。あんなふうに笑うんだ。

 春の陽だまりを思いおこさせる、暖かくて、穏やかな満面の笑み。それは誰にでもそうなのか、今、視線を向けている相手にだけなのか。

 ちらりと、人の垣根のすきまから相手の顔が見えた。可愛い女の子。長い髪を上半分、大きめの髪留めで上げている。黒木の話に頷いて、頬をほんの少し赤らめながら微笑んでいる姿はさながら清楚なお嬢様だ。 

「え~、なになに? あっちに気になるひとでもいるの? あたしより可愛い?」
 好奇心丸出し、といった感じで綾花が肘で脇腹をつついてくる。

「アホ。そんなんじゃないって」

 ふと、視線を感じた。強い視線。

 ふり仰ぐと、黒木の氷のような冷たい眼差しにぶつかった。それは遼太郎の胸に、鋭く突き刺さった。

 しかしその冷たさはすぐに消え去って、あたかも置いていかれた子どもみたいな悲しい面持ちに変わった。

 ――なんだよ。そっちだって。

 黒木の顔を見ているのが何故かつらくなって、遼太郎は綾花の方に視線を戻した。それからはわざと正面を見ないように努めた。
 

  scene 3. 〈了〉
 
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