この声は届かない

豆狸

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 何日経っても、私には王太子殿下が見えませんでした。
 声も聞こえません。
 手紙を書いていただいても、それを感知することができません。肖像画すら白紙に見えます。改めて医者や薬師、王宮魔術師達に検査されましたが、やっぱり異常は見つからないのです。私はもう、殿下のおぼろげな輪郭しか思い出せません。

 こんな状況ですので、お父様が国王陛下に婚約の解消をお願いしました。
 ですが断られてしまいました。
 私との婚約を解消してしまったら、王太子殿下には後ろ盾が無くなります。イングリッド様がおっしゃっていたように、高位貴族が王家を見捨てることでしょう。最初に高位貴族の筆頭である公爵家を裏切ったのは王家のほうなのですから、どうしようもありません。

 学園の卒業まで、という約束で、婚約は継続されることになりました。王妃教育も休止中です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「不思議だねえ」

 そうおっしゃるのは、イングリッド様の弟君です。
 王太子殿下を感知できないまま時は過ぎて、私とイングリッド様は学年が上がりました。
 入学してきた彼女の弟君とも仲良くさせていただいています。今日も中庭のテーブルで一緒に昼食を摂っていました。

「不思議よねえ」

 イングリッド様もおっしゃって、私も頷きました。

「不思議です」

 特待生と仲睦まじくされている殿下の姿を見るのは嫌でしたが、どうせなら感知できなくなるのは特待生のほうが良かったです。
 精神的なものかもしれないと言われているけれど、たとえ教えてもらっていなくても、殿下が関わったものすべてが感知できなくなるのです。
 誕生日のプレゼントも、パーティの前に届けられるドレスやアクセサリーも、私の目には映りません。ほかの方には見えていると言われても裸のようで恐ろしく、殿下に贈られたドレスを纏うことなどできませんでした。

 本当は、殿下と踊るのも嫌です。だって見えないのですから。
 得体の知れない力に無理矢理動かされているようなものなので、ダンスの間中鳥肌が治まりません。
 最初のうちこそうっすらと記憶にある殿下の姿を想像して我慢していましたが、最近ではもう恐怖しかありません。顔も見えない、声も聞こえない人が存在していると意識し続けるなんて難しすぎます。

「……早く卒業して、婚約を解消していただきたいです」

 呟いて、私は自分が情けなくなりました。
 初めて出会った瞬間に恋に落ち、母君を亡くした彼のお力になろうと誓った私はどこへ行ったのでしょう。
 でも、もう殿下の顔は見えないし、声も聞こえないのです。触れられる感覚はありますが、それは感じれば感じるほど気持ちが悪くなるものでした。

「そうよね」

 イングリッド様が、私に微笑みます。

「ロザリンドはアイツに罪悪感を抱いているのかもしれないけれど、そんなもの必要なくってよ。私は、学園に入学する前からあなた達のことを見てきたわ。特待生だけが原因じゃない。彼女がいなくても、あんな仕打ちを受けていたら、いつかあなたは壊れていたわよ」
「そうでしょうか……」

 よくわかりません。
 王太子殿下が見えなくなってから、彼の声が聞こえなくなってから、これまで過ごしてきた日々の記憶さえ薄れていっているのです。
 疎まれ、蔑まれるだけの関係だったからかもしれません。最初から私は、殿下に相応しくない娘だったのです。

「早く卒業してほしいけど、こうして学園で会えなくなるのは寂しいなあ」

 弟君の言葉に、胸の中が温かくなりました。
 私には兄はいても弟はいません。
 弟君に慕われているイングリッド様が羨ましく思えます。もちろん、我が家のお兄様も大好きなのですけれどね。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 学園を卒業しても、私が王太子殿下を感知することはできませんでした。
 婚約が解消されて数年後、私は──

「おめでとう、ロザリンド!」
「ありがとうございます、イングリッド様」
「あなたが義妹になるなんて嬉しいわ!」

 イングリッド様の弟君と結婚しました。
 彼は伯爵家の当主の座はイングリッド様に譲り、市井の魔術師として生きていきます。
 私が、少しでも彼の支えになれると良いのですが。侯爵家の家族にも祝福された結婚です。王太子殿下との婚約を解消した私が、貴族社会で生きていくのは難しいですからね。なんだかんだ言っても王家は王家です。王太子殿下が、未来の国王陛下が見えないようでは貴族の妻は務まりません。

 結婚式は侯爵領でおこなわれました。
 市井の魔術師と言いましたけれど、実は夫は侯爵家付きの魔術師になるのです。だからこそ家族も許してくれたのでしょうね。
 領都を挙げての華やかな式です。領民達が祝福してくれています。辺り一面に花びらが舞っています。

 式の後、私は領都の広場にある噴水の傍らに腰かけていました。
 夫が挨拶回りから帰ってくるのを待っているのです。
 領都の門は開かれていますが、衛兵や騎士団は巡回しています。怪しい人間は入って来れないので安心です。わたしが疲れているのを察してくれているのか、近寄ってくる領民はいません。

「……今日の記念に押し花にしましょうか」

 呟きながら石畳に落ちた花びらを拾おうとしたとき、自分の髪に花びらがついているのに気づきました。
 くすんだ灰色の髪ですが、夫は綺麗だと言ってくれます。
 明ける直前の夜空のようで視線が吸い込まれると言うのです。

 落ちているものよりも良いかと思って髪の花びらに手を伸ばしたとき、それは、ふわりと浮かび上がりました。風でしょうか? それとも──

「ロザリンド」
「あなた!」

 夫の声に立ち上がります。
 彼は平民のお義父様に似ていて、お義母様そっくりの冷たいほど整った美貌を持つイングリッド様とはあまり似ていません。
 癖のある茶色い髪で、柔らかい印象を受ける人の好さそうな顔をしています。

 だけどときどき、今のように冷たい表情になりました。
 なにかを憎み、睨みつけているような顔を見るのは久しぶりです。
 そういえば、学園時代はよく見ていたような気がします。

「どうなさったの? なんだか険しいお顔をされているわ」
「そりゃあ侯爵家付きの魔術師として領内の重要人物に挨拶して回ってたんだから、疲れて険しい顔にもなるさ。……癒してよ、僕のロザリンド」

 胸に顔を埋める彼を抱き締めます。
 伝わってくる体温は、私の心まで温めてくれます。
 そんなことはないと信じていますけれど、もし彼の姿が見えなくなって声が聞こえなくなったとしても、私は見えない夫に怯えたりはしないでしょう。

「……愛しています」
「……うん、僕も」

 幸せな婚礼の日は、もっと幸せな人生の幕開けでした。
 私はもう頭痛に悩まされることはありません。
 疲労や老いから頭痛を感じるときが来ても、優しい夫の存在が癒してくれるのです。
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