この声は届かない

豆狸

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<灰色の髪の令嬢>

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 母は病死ではなかった。
 かと言って、噂されているように私を傀儡にしようとした母の取り巻きどもの仕業でもない。
 ましてや父に婚約を破棄された元公爵令嬢、現女伯爵がそんなことをするはずがなかった。

 ──母を殺したのは父だ。
 一時の劣情で妃にしたのはいいが、王宮にまでついてくる取り巻き、貴族令嬢なら最初からわかっていることすら知らない彼女に疲れ果てたのだ。
 いいや、父は母に貴族令嬢の嗜みも王妃としての常識も教えようとはしなかった。面倒なことはすべて、別の人間に押し付けていた。母を殺すと決めたのは父でも、実行犯は別の人間だっただろう。

 かく言う私が母を愛していたのかと聞かれると、言葉に詰まらずにはいられない。
 母は幼く手のかかる子どもよりも、耳に心地良い言葉をくれて命令通りに動いてくれる取り巻き達といることを好んだ。平民出身の彼女は、降って湧いた幸運に溺れていた。
 普通の母親が子どもに与えるような愛情を私に与えてくれたのは、婚約者となった灰色の髪の令嬢、ロザリンドだった。

 間違ったこと愚かなことには眉を顰めて諫言するけれど、正しい方向へ向かうことなら自分が少々損をしても力を貸してくれる侯爵、父の友人の娘だ。
 両親と兄の愛情を一身に受けて育った彼女は、自分の受けてきた愛情を惜しげもなく私に注いでくれた。
 私は彼女が好きだった。そう、愛していた。なのに、私は彼女に愛情を返さなかった。父や母から愛情を受けた記憶は無くても、彼女に受けた愛情の記憶ならあったのに、愛する努力をしようとしなかった。愚かな母と同じように、私は溺れるだけで自ら泳ごうとはしなかったのだ。

 平民出身の母を貴族や近隣の王族に莫迦にされて悔しい思いをした父は、その腹いせとばかりにロザリンドの王妃教育に力を注いだ。
 正直なところ、彼女は学園に入学した時点で、そのまま王妃として王太子妃としてやっていけるだけの実力を身に着けていた。
 だが、父にはそれでは足りなかった。すべてがひれ伏す、すべてが褒め称える王妃にしようと彼女を教育し続けた。もちろんいつもと同じように、他人の力で。

 私はなにもしなかった。
 ロザリンドを助けることも父を止めることもせず、学園生活を楽しんでいた。
 学園で出会った特待生の少女は才気煥発で、もしかしたら母もこのような少女だったのではないかと、わずかに残った母への愛を支えてくれた。母がおかしくなったのは、すべて貴族社会が悪いのだ。そんな風に思い、高位貴族を嫌って身分の低いものとのみ付き合っていた。

 そのくせ、王宮で会う疲れ切った顔のロザリンドが、私を見つけた途端笑顔になるのが嬉しくてならなかった。
 愛されていることを疑ったこともなかった。

 王妃教育に縛られていたロザリンドが学園に登校し出しても、私は特待生やその取り巻き達と過ごしていた。
 今にして思えば、彼女の言葉に間違いはなかった。
 婚約者のいる私が別の女性と親しくするのは良いことではない。特待生にしても男を侍らせて、婚約者のいる私とばかりいては問題がある。

 しかし、私はロザリンドの言葉を否定し、彼女に怒号を浴びせた。
 私を愛しているのだろう? ならばすべて認めろ、受け入れろ。そんな身勝手な思いを彼女にぶつけ続けた。自分の望んだ婚約ではない、苦痛に感じながら我慢しているのだとまで言って罵った。
 そんな振る舞いが許されるはずがない。ロザリンドが私を感知しなくなったのは、当然のことだろう。むしろ、彼女が壊れて死んでしまわなくて良かったと思う。

 学園を卒業するまでは地獄だった。
 ロザリンドに私は見えない。私の声も聞こえない。
 それはつまり、彼女が私を見てくれないということだ。話しかけてくれないということだ。手紙を送っても、プレゼントをしても彼女には認識できないのだ。

 パーティで私と踊る彼女の顔からは嫌悪が隠しきれていなかった。
 姿の見えない『なにか』と踊るのは楽しいことではないだろう。
 学年が上がると、ロザリンドの親友で伯爵令嬢のイングリッドの弟が入学して、さらに私の地獄を深くした。

 ロザリンドはあの男を見つめる。あの男に挨拶する。あの男に微笑みかける。
 そこに私がいたとしても、彼女が感知するのはあの男だけだ!
 あの男は、出会う前から私を嫌っていた。姉であるイングリッドから、ロザリンドに対する私の仕打ちを聞いていたのだろう。

 ──私はなにもしなかった。
 王妃教育で疲れたロザリンドに微笑みかけるだけでも変わっていただろうに。
 なにもしていないという罪悪感から、逆に彼女を傷つけ追い詰めるような言葉しか放てなかったのだ。

 学園を卒業して、私とロザリンドの婚約は解消された。
 侯爵はお人好しだから、父さえ愚かな真似をしなければ今後も力を貸してくれるだろう。娘を傷つけた私の代になったら、どうなるかはわからないが。
 女伯爵は莫迦ではないので、すべての貴族を手中に収めるまでは王家を叩き潰すような真似はしない。侯爵が味方でいる限り、私達親子は生き長らえる。

 私の新しい婚約者は、なかなか決まらなかった。
 当然だ。私がロザリンドにした仕打ちは広く知られている。父が女伯爵との婚約を破棄したことだって、まだ忘れられてはいないのだ。
 王家はこのまま、ゆっくりと滅びていくのかもしれない。父の愛人になろうというものも、私の恋人になろうというものもいないのだから。特待生の彼女さえ、学園を卒業したら姿を消した。侯爵令嬢と婚約していない私に媚びを売っても利がないと判断したのだ。

 数年経って、私はロザリンドがあの男と結婚するという噂を聞いた。
 ふたりとも貴族の地位を捨て、平民として結ばれる。
 私が口を出せるような余地はどこにもない。それでも心が騒いだ。一目だけでも会いたかった。私は無理を言って侯爵領に入った。

 ロザリンドは、領都広場の噴水に腰かけていた。
 婚礼で撒き散らされた花びらが灰色の髪に飾られている。幼いころからずっと見ていたのに、彼女の髪があんなにも美しいと気づいたのは今日が初めてだった。
 これまでの私の愛はきっと、母を求める子どもの愛だったのだろう。私は今日、彼女に恋をしたのだ。

 私は彼女に近づいた。
 ほかの人間なら彼女は移動していただろう。私を感知していないから、彼女は動かないのだ。
 灰色の髪から花びらを拾い上げる。

「……ロザリンド……」

 どんなに愛を込めて呼んでも、私の声は彼女に届かない。
 すぐにあの男が現れて私を睨みつけた。
 そんな射殺すような視線を送って来なくても、ロザリンドは君のものだ。彼女は君を愛している。彼女の笑顔はもう私には向けられない。

「……ロザリンド、ロザリンド、ロザリンド……」

 ──何度繰り返し呼んでも彼女は私を振り向かず、あの男と去っていく。
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