この雪のように溶けていけ

豆狸

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「ソーンツェ! 俺はお前との婚約を破棄する!」

 夢の中、どこか遠くから自分の声が聞こえた。
 ……そうだ。俺は婚約者の侯爵令嬢ソーンツェを冤罪に落として婚約を破棄した。
 それどころか、

「グラービッチを傷つけたお前のような女が、ヒト族が神に与えられた聖なる魔術を使うことは許さない」

 封印魔術師でもないのに、彼女の細い肩に手をかけ刻印ごと砕いたんだ。
 そしてグラービッチ?
 グラービッチとはだれだっただろう?

 婚約破棄の場にアトカースはいなかった。
 反対されるのはわかっていたので、ヤツには外出禁止令を出していたのだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「グラービッチ! この子どもはなんなんだ!」

 揺り籠の中には、俺にも目の前の女にも似ていない赤ん坊が眠っている。

「なによ、うるさいわねえ。下手くそな王子様を楽しませてあげたんだから、ほかの男の種でも大目に見なさいよ」
「貴様っ!」
「はーああ。それにしても辺境なんてつまらないわねえ。アタシは王都で暮らすから、この子のことはお願いね」
「ふざけるなっ! 離縁だ。とっとと出て行け、このアバズレ!……くそ。貴様なんかに騙されたばっかりに、俺はソーンツェを失ってしまった」
「はあ? どいつもこいつもソーンツェソーンツェ。あんな女のどこがいいのよ!」

 グラービッチはソーンツェの父が市井で作った庶子だ。
 母を亡くして侯爵家に入り込み、周囲の男達を虜にした。
 結婚までは、と貞操を守るソーンツェに不満を感じていた俺は、簡単に体を許す奔放なグラービッチに夢中になった。彼女の言うことをすべて信じ、ソーンツェとの婚約を破棄して彼女を国外に追放した。

 簡単に、どころかだれにでも体を許すグラービッチは異母姉のソーンツェに劣等感があるらしく、彼女の名前を出すと理性を失い怒り狂った。
 もっとも、普段から理性のないような女だったが。

「すべてだ。ソーンツェはすべてが貴様に勝る。グラービッチよ、貴様などソーンツェの足元にも及ばない」
「きーっ!」
「おい、なにをする!」

 グラービッチは金切声を上げて、自分の産んだ赤ん坊を掴んで窓の外へ投げ捨てようとした。そんな彼女と揉み合いになり、俺は──

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ……どうしてあんなバカな真似をしてしまったのだろう。

 この十年間のことを夢の中で追体験して、俺は目覚めた。
 グラービッチと彼女の産んだ子の死は、事故として片付けられている。
 ソーンツェの父親はもういない。腐っても王族である俺の身代わりとして、冤罪で妻子を追放した罪を償わさせられたのだ。

 俺は記憶がなかったときに思った通り、大氾濫スタンピードで跡取りを失った伯爵家の領地をも統合した侯爵家を受け継いでいる。
 これまでの愚かな行いを戒めるためか公爵位は許されなかった。
 王宮への登城も禁止されている。

 ソーンツェの治療のおかげで、一晩眠っただけで体調はかなり回復していた。
 俺はベッドから出た。
 椅子に畳んだ服が置かれている。俺のものではないが、これを着ろということだろう。

 俺が寝かされていた部屋は家の二階にあった。
 侯爵家の屋敷から考えれば小屋とでもいうような大きさだが、良く手入れのされた居心地の良さそうな家だ。
 だれが意識のない俺を二階に運んだんだ。アトカースか?

 ふと窓から外を見ると、信じられないものがそこにあった。
 魔獣だ。
 俺が侯爵領から追いかけ、反撃を食らって逃がしてしまった魔獣が白い雪原に転がっている。だれが倒した。アトカース? まさか! ソーンツェではないよな?

 俺は用意されていた服を着て階段を降りた。
 暖炉の前の毛皮に座って三人の人間が朝食を摂っている。
 ソーンツェ、アトカース、そして……だれだ? 服の上からでも鍛えられた逞しい体がわかる、白熊獣人の男だった。

 見知らぬ男は俺と変わらない年ごろで、どこか高貴で威圧的な雰囲気がある。
 王国と獣人国には正式な国交がない。
 この国の貴族だとしても俺にはわからなかった。ソーンツェの祖父や伯爵は大氾濫スタンピードの際に共闘するため、個人的に交流していたと聞くのだが。

「おはようございます、カシマール様。朝食はいかがですか?」

 ソーンツェが俺に微笑む。

「ああ、いただこう。……その、彼はだれだ」
「ラスヴェートは……」
「俺はソーンツェの恋人だ。お前が逃がした魔獣には止めを刺しておいたぞ。庭に置いてあるから、素材が必要なら持って帰るといい」
「……感謝する」
「カシマール様、このスープ美味しいですよ。昨日の具は海産物でしたが、今日の具は鹿肉です」

 ──朝食を摂った後、俺とアトカースはソーンツェ達に橇を借り、魔獣を乗せて帰路に着いた。
 侯爵領に近づくごとに風に雪が混じっていった。
 また吹雪になるのかもしれない。どんなに雪が積もっても春になれば溶けて消える。だが、俺の過去は何年経とうと消えはしない。

 俺は、ラスヴェートと名乗った男の隣で見せたソーンツェの笑みを思い出す。
 くだらない欲情に惑わされて見失っていた気持ちに、今さら気づいても意味などない。
 後悔も執着も初恋も、この雪のように溶けていけ──

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