愛しているは、もういらない。

豆狸

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後日談B 愛していると言う前に

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「エレナ?」

 隣国の大学に留学した私は、だれかに呼ばれて振り向いた。
 そこには黒髪で、私と同じ緑色の瞳を持つ逞しい青年が立っている。
 アレッサンドロ様と同じ年ごろだろうか。どこか見覚えがあるような気がする彼は、優しく微笑んで言葉を続けた。その瞳は眩しい夏の陽光に照らされた鮮やかな新緑の色だ。

「マルキ商会のエレナだろう? 俺はロマーノ子爵家のエステルだ。っと、呼び捨てにして悪かったな、エレナ嬢」
「まあ、エステル様?」

 ロマーノ子爵家のエステル様は、フランコ伯爵家のアレッサンドロ様との婚約が結ばれる前に婚約者候補だった方だ。

「会ったのは幼いころに数回だけだったのに、俺のことを覚えていてくれたんだな」
「エステル様のほうこそ」
「そりゃ覚えているさ。なんたって君は俺の……その、婚約者候補だったんだから」
「ふふ、そうですね。幼い子でも……いえ、幼い子どもだからこそ将来結婚するかもしれない相手として紹介された方のことは心に残りますよね」
「どうしてここ隣国に? まだ病弱で学園には入学出来なかった……のなら、留学も出来ないよな。アレッサンドロ様も一緒なのか?」

 私はエステル様から目を逸らし、頭を横に振った。
 学園に入学せず隣国に留学していたエステル様はこちらの事情をご存じないのだろう。
 思い出すと重いものが胸に落ちてくる。それを飲み込んで口を開いた。

「私、アレッサンドロ様との婚約を解消したんです。それで、まあ、ほとぼりが冷めるまでのつもりで留学してきました。でもこのままこの国にマルキ商会の支店を作って、一生向こうには戻らないかもしれません」

 私は親しい人以外には無表情で、学園では氷の人形と噂されていた。
 マルキ商会の財力を目当てに近づいてくる人に愛想を振り撒いても仕方がないし、下手に信じて裏切られるのも怖かった。もっともそんなことを言いながら、まんまとアレッサンドロ様とリティージョ様には騙されていたのだけれど。
 最初の婚約者候補だったエステル様に対しては、不思議なほど自然な笑顔を浮かべられた。

「そうか……」

 エステル様は、なぜか暗い表情になった。

「もしかして俺のせいか?」
「え?」
「……こちらに留学する前、マルキ商会へ手紙を送ったんだ。コンテ男爵家のリティージョ嬢がアレッサンドロ様に近づいているから注意したほうが良いと。浮気しているという確信があったわけでもないのに、いい加減なことを言ってしまったかもしれない」
「そうでしたの。大丈夫ですわ、エステル様。誤解で婚約を解消したのではなく、ちゃんと確認しました。……私自身が、あのふたりが密会しているのを目撃しましたしね」

 それでも踏ん切りがつくまでには少々時間がかかった。
 エステル様の忠告がなかったら家族がふたりを調査することもなく、ガッロ侯爵家のエンリーコ様に密会のことを教えられても確かめにも行かなかったかもしれない。
 今もアレッサンドロ様を信じていたら──私は無意味な妄想を振り切った。

「家族に忠告していただいて、ありがとうございました」
「そう、か。誤解でなかったのなら良かった。アレッサンドロ様は優しい方だったから、すり寄るリティージョ嬢に冷たく出来なかっただけだったのではないかと心配していたんだ」

 こちらに来る前マルキ商会の屋敷を訪ねてきて、リティージョ様には同情していただけだとおっしゃったアレッサンドロ様を思い出す。
 婚約者がいながら彼女の恋人として振る舞うことが彼の優しさだったのだろうか。
 エステル様が疑ったのは、同じ派閥の貴族夫人が開催するお茶会に招かれたときなどに仲睦まじく過ごしているふたりを目撃したからだという。

「俺と婚約するはずだった君を奪っておきながら……そう思うと許せなかったんだ」
「まあ。エステル様は私との婚約を歓迎してくださっていたのですか? ロマーノ子爵家は新しい事業を興すときくらいしかマルキ商会の援助を必要とされませんでしたし、そのときの借金もすぐ返してくださっていましたのに」
「確かにロマーノ子爵家うちならどこの商会でも金を貸してくれただろうけど、正式に婚約を結ぶ前の顔合わせで君と会うごとに……守りたいと思うようになっていったんだ」

 あのころの私は起きている日よりもベッドで寝込んでいる日のほうが多かった。
 たまの起きている日にお会い出来ていたのと、エステル様ご自身が幼いころから逞しく頼りがいのありそうな少年だったことで、彼と会った日はとても楽しい日々だったとして記憶に残っている。
 そういえば、アレッサンドロ様と初めてお会いしたときは数年前にお亡くなりになったお母様の話を聞かされた。その日は体調が悪い日で、ベッドで寝間着のまま迎えた私を見た彼は、お母様が亡くなった日のことを思い出したのだという。悲しげに語るアレッサンドロ様を見て、私は彼を守りたいと思ったのだけど──

「エレナ嬢。その、実は俺にはまだ婚約者がいないんだ」
「そうなんですか? エステル様なら引く手数多でしょうに。ロマーノ子爵家も将来有望ですし」
「んー。実家のほうは妹が婿を取って継ぐ予定でね。俺はもうこの国に骨を埋めるつもりなんだ。この大学での研究を生涯続けたい」
「どんな研究をなさってるんですか?」
「……いろいろな病気の治療薬だ。良かったら研究室に来てみるかい? 思い出すのが嫌じゃなければ、昔飲んだ薬の感想を教えてもらいたい」
「ええ、ご迷惑でなければ」
「次の授業がないなら早速来るかい? あ、その前に学食でお茶でも飲もうか」

 頷いた私を連れて、エステル様は歩き出した。
 広い背中を目印に追いかける。今も昔も気遣いの出来ない方ではないと思うが、なんだか焦っていらっしゃるようだ。
 ときどき私を振り返って、今度こそ奪われる前に言うぞ、なんて呟いているのはなんだろう?
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