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中編 騎士の妻の微笑み
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いや、この王国に知らないものはいない。
この王国どころか、王太子だったダヴィデの結婚披露宴に招かれた近隣諸国の人間もみな知っている。
セポルトゥーラが隣国の工作員で、隣国のテーテン大公に育てられた彼の愛人だったことを。結婚披露宴でテーテン大公の突然死を告げられたセポルトゥーラが狂乱状態になり、自分の口からすべてを明かしたのだから。
きちんと国の機関に育てられた工作員ならば、どうしてもその臭いが残る。
しかしテーテン大公の愛人として育てられ、工作員として活躍することを大公に褒められるための行為としか考えていなかったセポルトゥーラ達にはその臭いはなかった。
もちろん愛国心もなく、彼女達は隣国の工作員でありながら隣国のためには行動していなかった。すべてはテーテン大公のために、自分達が彼に褒められ認められるために。
彼女達──そう、工作員はセポルトゥーラひとりではなかった。
テーテン大公に利益をもたらすためだけに、近隣諸国に工作員が送り込まれていたのだ。
なんの利益も得られなかったのに、国際社会での隣国の立場は地に落ちた。自国の梟雄を御しきれていなかったのだから仕方がない。
工作員に気づかなかった近隣諸国の重鎮達も笑いものだ。
事実を確認することもなく工作員の言葉を信じ込んで長年の婚約者を棄て、セポルトゥーラの背後にあるものを調査もせずに王太子妃に迎えたような間抜けは特に。
ダヴィデの父は責任を取って退位し、数代前に王家から分かれたカンクロ公爵家の子息が新しい王となった。本当はジェメッリ公爵家のほうが今の王家に近いのだが、令嬢との婚約破棄のことを思えば押し付けられるはずがない。カンクロ公爵子息は重荷しかない玉座を心から嫌がりながらも、王国の未来のためにそれを受け継いだ。
(ジェメッリ公爵は前から知っていたのかもしれない、セポルトゥーラが工作員であることを。知っていたからこそ、私を泳がせていたんだ)
最悪の結果を選び、ジェメッリ公爵に父と自分を見捨てさせたのはダヴィデだった。
文句を言うことも出来ない。
公爵家の令嬢であるエヴァンジェリーナを棄てておいて、問題の起こらないように新しい王太子の婚約者セポルトゥーラを調査せよ、などとジェメッリ公爵に命じることなど出来はしないのだから。
「すまなかった、エヴァンジェリーナ嬢」
ダヴィデは廃太子であるが、王子という立場は失っていない。
王宮に住み新王の補佐として仕えているのだ。新王のとてつもない恩情である。
周囲のすべての人間が、侮蔑の視線を向けてくるけれど。
セポルトゥーラを経由してダヴィデがテーテン大公に流した情報で、この王国は多くの取り引きを失った。大公に奪われたのだ。
もちろん横入がなくても上手く行ったとは限らない。
それでも、失い奪われた取り引きのひとつでも上手く行っていたら、ダヴィデがセポルトゥーラに現を抜かしていた数年間で起こった問題のいくつかは解決していたのではないかと、人は思ってしまうのだ。
ほう、とエヴァンジェリーナが溜息を漏らす。
「謝罪はお受けしますわ、ダヴィデ殿下。ですので、もう二度と付き纏いはなさらないでくださいませね」
エヴァンジェリーナはダヴィデの手紙を受け取ってくれなかった。
ジェメッリ公爵家の令嬢でなくなった彼女は高位貴族の集まる夜会にも茶会にも出席しなくなったので、自然と顔を合わせることもなくなった。
もっとも公爵令嬢のままだったとしても学園の卒業パーティで、公衆の面前で婚約を破棄されたのだ。辛く悲しい記憶で塗り潰された社交界に出たいとは思わなかっただろう。
ダヴィデが元婚約者に会うためには、彼女が夫と暮らす家に押しかけるしかなかった。
会う気がないと拒絶されても、ダヴィデは何度も押しかけた。
正当な婚約者だったころのエヴァンジェリーナの手紙を無視し、夜会や茶会でも浮気相手のセポルトゥーラと過ごしていたくせに、学園で話しかける彼女を『付き纏い』と嘲っていたことなど忘れたかのように。
婚約者として向き合う義務があったあのころのダヴィデとは違う。
今のエヴァンジェリーナにはダヴィデと会わなくてはいけない理由などどこにもないのだ。
彼女の夫はジェメッリ公爵家の騎士で、王家に従う義理はない。
「今度我が家へいらしたら、新王陛下に対処をお願いさせていただきますので」
「……」
ダヴィデは恐る恐る顔を上げた。
エヴァンジェリーナは微笑んでいた。
騎士の妻が歓迎していない来客に向ける微笑みだ。
昔のエヴァンジェリーナの微笑みにはダヴィデへの愛があった。
ダヴィデに愛されたいという願いがあった。
重いと感じていた、逃れたいと感じていたその微笑みが、今のダヴィデは欲しくてたまらなかった。心地良いと感じていたセポルトゥーラの微笑みが作り物だったことを知ってしまった今は、ほかに自分を愛してくれるものなどいなくなってしまった今は。
ダヴィデの父である先王は気鬱の病から床に就き、日に日に意識が混乱していって、今は息子の顔もわからなくなっている。
工作員のセポルトゥーラが処刑されるのは当然だが、巻き添えになった侯爵家に彼女を養女にするよう懇願したのは先王の息子可愛さからだった。罪悪感を感じないわけがない。
代々仕えてくれていたダヴィデの側近達もその家族も処罰なしには済まなかった。
エヴァンジェリーナの家を出て数歩歩いたところで、ダヴィデはこっそり振り返った。
儀礼的に見送ってくれていたエヴァンジェリーナとその夫が、家に入っていく姿が見えた。
エヴァンジェリーナが微笑んでいる。愛するものへ向ける心からの微笑みを浮かべている。その微笑みがダヴィデに向けられることは二度とない。
この王国どころか、王太子だったダヴィデの結婚披露宴に招かれた近隣諸国の人間もみな知っている。
セポルトゥーラが隣国の工作員で、隣国のテーテン大公に育てられた彼の愛人だったことを。結婚披露宴でテーテン大公の突然死を告げられたセポルトゥーラが狂乱状態になり、自分の口からすべてを明かしたのだから。
きちんと国の機関に育てられた工作員ならば、どうしてもその臭いが残る。
しかしテーテン大公の愛人として育てられ、工作員として活躍することを大公に褒められるための行為としか考えていなかったセポルトゥーラ達にはその臭いはなかった。
もちろん愛国心もなく、彼女達は隣国の工作員でありながら隣国のためには行動していなかった。すべてはテーテン大公のために、自分達が彼に褒められ認められるために。
彼女達──そう、工作員はセポルトゥーラひとりではなかった。
テーテン大公に利益をもたらすためだけに、近隣諸国に工作員が送り込まれていたのだ。
なんの利益も得られなかったのに、国際社会での隣国の立場は地に落ちた。自国の梟雄を御しきれていなかったのだから仕方がない。
工作員に気づかなかった近隣諸国の重鎮達も笑いものだ。
事実を確認することもなく工作員の言葉を信じ込んで長年の婚約者を棄て、セポルトゥーラの背後にあるものを調査もせずに王太子妃に迎えたような間抜けは特に。
ダヴィデの父は責任を取って退位し、数代前に王家から分かれたカンクロ公爵家の子息が新しい王となった。本当はジェメッリ公爵家のほうが今の王家に近いのだが、令嬢との婚約破棄のことを思えば押し付けられるはずがない。カンクロ公爵子息は重荷しかない玉座を心から嫌がりながらも、王国の未来のためにそれを受け継いだ。
(ジェメッリ公爵は前から知っていたのかもしれない、セポルトゥーラが工作員であることを。知っていたからこそ、私を泳がせていたんだ)
最悪の結果を選び、ジェメッリ公爵に父と自分を見捨てさせたのはダヴィデだった。
文句を言うことも出来ない。
公爵家の令嬢であるエヴァンジェリーナを棄てておいて、問題の起こらないように新しい王太子の婚約者セポルトゥーラを調査せよ、などとジェメッリ公爵に命じることなど出来はしないのだから。
「すまなかった、エヴァンジェリーナ嬢」
ダヴィデは廃太子であるが、王子という立場は失っていない。
王宮に住み新王の補佐として仕えているのだ。新王のとてつもない恩情である。
周囲のすべての人間が、侮蔑の視線を向けてくるけれど。
セポルトゥーラを経由してダヴィデがテーテン大公に流した情報で、この王国は多くの取り引きを失った。大公に奪われたのだ。
もちろん横入がなくても上手く行ったとは限らない。
それでも、失い奪われた取り引きのひとつでも上手く行っていたら、ダヴィデがセポルトゥーラに現を抜かしていた数年間で起こった問題のいくつかは解決していたのではないかと、人は思ってしまうのだ。
ほう、とエヴァンジェリーナが溜息を漏らす。
「謝罪はお受けしますわ、ダヴィデ殿下。ですので、もう二度と付き纏いはなさらないでくださいませね」
エヴァンジェリーナはダヴィデの手紙を受け取ってくれなかった。
ジェメッリ公爵家の令嬢でなくなった彼女は高位貴族の集まる夜会にも茶会にも出席しなくなったので、自然と顔を合わせることもなくなった。
もっとも公爵令嬢のままだったとしても学園の卒業パーティで、公衆の面前で婚約を破棄されたのだ。辛く悲しい記憶で塗り潰された社交界に出たいとは思わなかっただろう。
ダヴィデが元婚約者に会うためには、彼女が夫と暮らす家に押しかけるしかなかった。
会う気がないと拒絶されても、ダヴィデは何度も押しかけた。
正当な婚約者だったころのエヴァンジェリーナの手紙を無視し、夜会や茶会でも浮気相手のセポルトゥーラと過ごしていたくせに、学園で話しかける彼女を『付き纏い』と嘲っていたことなど忘れたかのように。
婚約者として向き合う義務があったあのころのダヴィデとは違う。
今のエヴァンジェリーナにはダヴィデと会わなくてはいけない理由などどこにもないのだ。
彼女の夫はジェメッリ公爵家の騎士で、王家に従う義理はない。
「今度我が家へいらしたら、新王陛下に対処をお願いさせていただきますので」
「……」
ダヴィデは恐る恐る顔を上げた。
エヴァンジェリーナは微笑んでいた。
騎士の妻が歓迎していない来客に向ける微笑みだ。
昔のエヴァンジェリーナの微笑みにはダヴィデへの愛があった。
ダヴィデに愛されたいという願いがあった。
重いと感じていた、逃れたいと感じていたその微笑みが、今のダヴィデは欲しくてたまらなかった。心地良いと感じていたセポルトゥーラの微笑みが作り物だったことを知ってしまった今は、ほかに自分を愛してくれるものなどいなくなってしまった今は。
ダヴィデの父である先王は気鬱の病から床に就き、日に日に意識が混乱していって、今は息子の顔もわからなくなっている。
工作員のセポルトゥーラが処刑されるのは当然だが、巻き添えになった侯爵家に彼女を養女にするよう懇願したのは先王の息子可愛さからだった。罪悪感を感じないわけがない。
代々仕えてくれていたダヴィデの側近達もその家族も処罰なしには済まなかった。
エヴァンジェリーナの家を出て数歩歩いたところで、ダヴィデはこっそり振り返った。
儀礼的に見送ってくれていたエヴァンジェリーナとその夫が、家に入っていく姿が見えた。
エヴァンジェリーナが微笑んでいる。愛するものへ向ける心からの微笑みを浮かべている。その微笑みがダヴィデに向けられることは二度とない。
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