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余話 愛の花を捧げたい。~前編~
直人は裏社会で生きてきた。
自分の名前が皮肉に思えるほどに、歪みねじ曲がった人生だった。
笑莉と出会ったのは、そんな人生が少しだけ上向きになったときだ。もっとも普通の人間から見れば、さらなる地獄へ自分から足を踏み入れていたのだろう。
その日、直人はいつものように安アパートのドアを乱暴に叩いた。
なかなか開かないのは毎度のことだ。
この部屋に住む闇医者は年中飲んだくれている。なんなら郵便受けに札束をねじ込んでやろうかと考え始めたとき、ドアの向こうから震える声が聞こえて来た。
「……救急車、呼びましょうか?」
女の声だ。
最初は闇医者が女を連れ込んでいるかと思ったが、だとしたらこの部屋でおこなわれていることは知っている人間のはずだ。
直人は相手の発言を鼻で笑う。
「返り血だよ、見てわかんねぇのか」
わかるわけがない。
医療関係者か直人のように裏社会で生きて来た人間でもない限り、服についた血の区別などわかるわけがないのだ。
直人は上着の内側から札束を取り出した。
「親父さんにツケ払いに来たんだ」
薄々察しながら言う。
闇医者はおそらく死んだのだ。いつ死んでもおかしくないくらい、浴びるほど酒を飲んでいた。
扉の向こうの声が怪訝そうに呟く。
「親父さん……?」
よく見れば、深夜の常夜灯に照らされた建物は以前とは変わっている。
前の安アパートは闇医者の持ち物だったはずだ。
彼が亡くなって土地が人手に渡り、新しい持ち主がべつのアパートを建てたのだろう。
(そんなに来てなかったのか……いや、来てなかったな)
年単位で来ていなかったことを思い出し、直人は自嘲の笑みを浮かべた。
自分は本当に狂犬だ。
初めて地下闘技場の試合で優勝して、その喜びを伝えたい相手、賞金でツケを払いたい相手は長年世話になった闇医者しかいなかった。そのくせ地下闘技場で戦闘欲を満たしていたときは、ちらりとも彼を思い出さなかったのだ。
「えーと……」
「ああ、いいよ。わかった、親父さんはいないんだろ?」
戸惑う声に言うと、郵便受けからなにかが出てきた。
「よくわかりませんけど、返り血だとしても拭いたほうが良いと思いますよ」
出てきたのは濡れたタオルだった。
「あんたお人好しだな。……そんなんじゃ悪いのに食いものにされるぜ」
「食いものにされるのは嫌ですねえ」
狂犬らしくもなく忠告しながらタオルを引き抜くと、向こうから笑い声が聞こえて来た。
このときはまだ彼女の名前も知らなかった。
可哀想なお人好しの彼女は、これから直人に執着されて名前を知られてしまうのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「よお」
直人と笑莉の付き合いは、それから一年ほど続いた。
付き合いと言っても恋人なんかじゃないし、肉体関係などもない。安アパートの扉を挟んで会話するだけだ。
地下闘技場の試合での優勝がきっかけで、ある組織に招き入れられた直人だが、ここへ来るときに舎弟を連れてくることはなかった。
笑莉に妙な噂が立たないよう、来る時間も考えている。
このアパートのほかの部屋に明かりがついているときは、どんなに深夜でも声をかけずに帰るようにしていた。
普通の社会で生きて来た笑莉は平和ボケで、直人のような男と話すのを別世界の話が聞けると面白がっている。
それでも笑莉は部屋の扉を開けることだけはなかった。
だから直人は笑莉の顔を知らない。
笑莉のほうは知っている。ドアののぞき穴からでも郵便受けからでも外は見られるからだ。
「こないだあんたが勧めてくれた漫画読んでみたぜ。……あんた、実は俺のこと好きだろ」
「はあ?」
「あんたお気に入りの殺人鬼、俺にそっくりだったじゃねぇか」
「いや、お気に入りってわけじゃ……描写が少ないから、どうしてこんなことにって考察してただけで」
言い訳する声に少し照れがあると感じるのは、直人の自惚れだろうか。
直人は顔が整っているほうだ。
狂犬のくせに恋人がいなかったことはない。──この一年以外は。
「……なあ笑莉。俺もうここには来られなくなった」
「……べつに呼んでませんけど?」
「なんだよぉ、理由くらい聞けよお」
「しょうがないなあ、直人くんは。……なんで?」
直人も笑莉も三十近い。
だけど話しているうちに直人のほうが年下だとわかってから、笑莉は直人をくん付けで呼ぶのだ。
ニ十歳過ぎればみんな変わらないと思いつつも、直人は笑莉にくん付けで呼ばれるのが好きだった。彼女に伝えたことはないけれど。
「理事になった」
「え……理事……なに?」
「あー、うちの組織はそう言うんだ。ほかのとこだと若頭ってとこかな」
「へーすごいねー」
「全然すごいと思ってねぇだろ」
「ごめん、別世界のことだから実感がなくって」
「うん、だよな。あんたはそれでいいよ。さすがに理事ともなるとひとり歩きは出来ねぇから、もうここには来られない」
「そっかー」
小さな声で、ちょっとだけ寂しいな、と聞こえたのは直人の願いが生んだ幻聴かもしれない。
本人に告げても喜ばないだろうが、直人が高い地位に着けたのは笑莉のおかげだ。
彼女と他愛のない話をすることで心が落ち着いて冷静になれた。組織の命令を過不足なくこなすことが出来た。狂犬のままではこうはいかなかっただろう。
「……だからさ、最後に笑莉の顔……見せてくれよ」
「……」
しばらく沈黙が続いて、カチャリとチェーンを外す音が聞こえたときだった。
「見つけたぞお、直人おッ!」
叫び声に振り向くと、同じ組織で直人に敵がい心を燃やしている男の姿があった。
苗字か名前に『熊』がついていたのを覚えている。
ひとりだけでなく舎弟も連れてきていた。
男が手にしていたものを投げつけてくる。
おそらく手製の爆弾だ。
男の舎弟に爆発物に詳しい人間がいると聞いていた。
激しい爆発音がして──
自分の名前が皮肉に思えるほどに、歪みねじ曲がった人生だった。
笑莉と出会ったのは、そんな人生が少しだけ上向きになったときだ。もっとも普通の人間から見れば、さらなる地獄へ自分から足を踏み入れていたのだろう。
その日、直人はいつものように安アパートのドアを乱暴に叩いた。
なかなか開かないのは毎度のことだ。
この部屋に住む闇医者は年中飲んだくれている。なんなら郵便受けに札束をねじ込んでやろうかと考え始めたとき、ドアの向こうから震える声が聞こえて来た。
「……救急車、呼びましょうか?」
女の声だ。
最初は闇医者が女を連れ込んでいるかと思ったが、だとしたらこの部屋でおこなわれていることは知っている人間のはずだ。
直人は相手の発言を鼻で笑う。
「返り血だよ、見てわかんねぇのか」
わかるわけがない。
医療関係者か直人のように裏社会で生きて来た人間でもない限り、服についた血の区別などわかるわけがないのだ。
直人は上着の内側から札束を取り出した。
「親父さんにツケ払いに来たんだ」
薄々察しながら言う。
闇医者はおそらく死んだのだ。いつ死んでもおかしくないくらい、浴びるほど酒を飲んでいた。
扉の向こうの声が怪訝そうに呟く。
「親父さん……?」
よく見れば、深夜の常夜灯に照らされた建物は以前とは変わっている。
前の安アパートは闇医者の持ち物だったはずだ。
彼が亡くなって土地が人手に渡り、新しい持ち主がべつのアパートを建てたのだろう。
(そんなに来てなかったのか……いや、来てなかったな)
年単位で来ていなかったことを思い出し、直人は自嘲の笑みを浮かべた。
自分は本当に狂犬だ。
初めて地下闘技場の試合で優勝して、その喜びを伝えたい相手、賞金でツケを払いたい相手は長年世話になった闇医者しかいなかった。そのくせ地下闘技場で戦闘欲を満たしていたときは、ちらりとも彼を思い出さなかったのだ。
「えーと……」
「ああ、いいよ。わかった、親父さんはいないんだろ?」
戸惑う声に言うと、郵便受けからなにかが出てきた。
「よくわかりませんけど、返り血だとしても拭いたほうが良いと思いますよ」
出てきたのは濡れたタオルだった。
「あんたお人好しだな。……そんなんじゃ悪いのに食いものにされるぜ」
「食いものにされるのは嫌ですねえ」
狂犬らしくもなく忠告しながらタオルを引き抜くと、向こうから笑い声が聞こえて来た。
このときはまだ彼女の名前も知らなかった。
可哀想なお人好しの彼女は、これから直人に執着されて名前を知られてしまうのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「よお」
直人と笑莉の付き合いは、それから一年ほど続いた。
付き合いと言っても恋人なんかじゃないし、肉体関係などもない。安アパートの扉を挟んで会話するだけだ。
地下闘技場の試合での優勝がきっかけで、ある組織に招き入れられた直人だが、ここへ来るときに舎弟を連れてくることはなかった。
笑莉に妙な噂が立たないよう、来る時間も考えている。
このアパートのほかの部屋に明かりがついているときは、どんなに深夜でも声をかけずに帰るようにしていた。
普通の社会で生きて来た笑莉は平和ボケで、直人のような男と話すのを別世界の話が聞けると面白がっている。
それでも笑莉は部屋の扉を開けることだけはなかった。
だから直人は笑莉の顔を知らない。
笑莉のほうは知っている。ドアののぞき穴からでも郵便受けからでも外は見られるからだ。
「こないだあんたが勧めてくれた漫画読んでみたぜ。……あんた、実は俺のこと好きだろ」
「はあ?」
「あんたお気に入りの殺人鬼、俺にそっくりだったじゃねぇか」
「いや、お気に入りってわけじゃ……描写が少ないから、どうしてこんなことにって考察してただけで」
言い訳する声に少し照れがあると感じるのは、直人の自惚れだろうか。
直人は顔が整っているほうだ。
狂犬のくせに恋人がいなかったことはない。──この一年以外は。
「……なあ笑莉。俺もうここには来られなくなった」
「……べつに呼んでませんけど?」
「なんだよぉ、理由くらい聞けよお」
「しょうがないなあ、直人くんは。……なんで?」
直人も笑莉も三十近い。
だけど話しているうちに直人のほうが年下だとわかってから、笑莉は直人をくん付けで呼ぶのだ。
ニ十歳過ぎればみんな変わらないと思いつつも、直人は笑莉にくん付けで呼ばれるのが好きだった。彼女に伝えたことはないけれど。
「理事になった」
「え……理事……なに?」
「あー、うちの組織はそう言うんだ。ほかのとこだと若頭ってとこかな」
「へーすごいねー」
「全然すごいと思ってねぇだろ」
「ごめん、別世界のことだから実感がなくって」
「うん、だよな。あんたはそれでいいよ。さすがに理事ともなるとひとり歩きは出来ねぇから、もうここには来られない」
「そっかー」
小さな声で、ちょっとだけ寂しいな、と聞こえたのは直人の願いが生んだ幻聴かもしれない。
本人に告げても喜ばないだろうが、直人が高い地位に着けたのは笑莉のおかげだ。
彼女と他愛のない話をすることで心が落ち着いて冷静になれた。組織の命令を過不足なくこなすことが出来た。狂犬のままではこうはいかなかっただろう。
「……だからさ、最後に笑莉の顔……見せてくれよ」
「……」
しばらく沈黙が続いて、カチャリとチェーンを外す音が聞こえたときだった。
「見つけたぞお、直人おッ!」
叫び声に振り向くと、同じ組織で直人に敵がい心を燃やしている男の姿があった。
苗字か名前に『熊』がついていたのを覚えている。
ひとりだけでなく舎弟も連れてきていた。
男が手にしていたものを投げつけてくる。
おそらく手製の爆弾だ。
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