初恋の相手と結ばれて幸せですか?

豆狸

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第一話 初恋

「おはようございます、イーゴリ様」

 チトフ子爵家のイーゴリ様は私の婚約者です。
 ほかにだれもいない教室で声をかけると、ご自分の席で本の頁をめくっていらした彼が顔を上げました。
 窓からの風で金色の髪が揺れ、緑色の瞳が細くなって端正なお顔に笑みを浮かべます。イーゴリ様の瞳の緑色は薄く、春の若葉のように柔らかい色合いです。

「おはよう、ニーナ」

 ここは貴族や裕福な庶民が通う三年制の学園です。
 婚約をしているふたりは同じ馬車で登下校するのが普通ですが、私のデニソフ伯爵家の王都の屋敷とイーゴリ様のお宅は学園を挟んで逆方向にあります。
 なので私達は早目に登校して、人のいない教室で語り合うのが常となっていました。

「『そよ風の戦記』の三巻を持ってきたよ」

 イーゴリ様はそう言って、めくっていた本を閉じて私に差し出してきました。

「まあ! 先日発売されたばかりではありませんか。イーゴリ様は読み終わられたのですか?」
「うん。とても面白かったよ。まだまだ読み返したいとも思うけど、それより君と感想を語り合いたくて。今、ほかに読んでる本があったかな?」
「いいえ。イーゴリ様さえよろしければお借りします。楽しみですわ」
「僕もニーナの感想を聞くのが楽しみだよ」

 ふたりで微笑み合ったとき、教室の扉が開きました。

「おはよう。……邪魔したか?」
「そんなことありませんわ。おはようございます、ミハイル様」
「おはよう、ミハイル」

 ミハイル様はリャザノフ伯爵家のご子息です。
 私の兄とミハイル様のお兄様が同い年の親友なので幼いころから知っています。
 学園に入学してからは私とイーゴリ様、ミハイル様、そして──

「おはよう、ニーナ。またミハイル様に邪魔されたの?」

 パヴロワ侯爵令嬢のタチアナ様。

「ミハイル。自分に婚約者がいないからって、仲の良い婚約者同士の邪魔をするなよ?」

 からかうようにおっしゃるタチアナ様の婚約者のヴラジーミル様。
 パヴロワ侯爵家は年の離れた妹しかいないタチアナ様が継ぐ予定なので、ヴラジーミル様は入り婿になるのです。
 この五人で仲良く過ごしています。

「ああ。すまなかったな、イーゴリ。ニーナ嬢も」

 ミハイル様が私達の邪魔をしただなんて、だれも本気で思っていません。
 だってここは教室ですもの。後十分もすればほかの生徒も登校してきます。
 私とイーゴリ様がお互いに会いたくて早めに登校しているのは事実ですが、ミハイル様はミハイル様で早く登校する理由があるのです。

「気にしないでよ、ミハイル。ヴラジーミルは君をからかってるだけだ。それより『そよ風の戦記』の三巻が出たんだ。君もニーナの次に読まないか?」
「イーゴリ様は相変わらず手に入れるのが早いわね」
「母が出版社の後ろ盾をしているからね」

 イーゴリ様のお母様はかなりのやり手で、『そよ風の戦記』の出版社以外にも多くの商会と関わっています。イーゴリ様のお父様は入り婿なので、彼女が女子爵なのです。
 私達は学園の最終学年です。
 卒業してイーゴリ様に嫁いだら、有能なお母様と比べられてしまうのは間違いありません。……次代の子爵夫人として頑張らなくては。

「ミハイルが読み終えるころにはタチアナも新刊を手に入れているだろうね。またみんなで語り合おうよ」

 ヴラジーミル様はパヴロワ侯爵家に婿入り予定の貴族家の次男です。

「そうね。……ねえイーゴリ様、三巻で主役のふたりは再会したのかしら?」
「それは読んでからのお楽しみですよ、タチアナ嬢」
「わかっているけれど気になるじゃない!」
「タチアナはふたりの恋愛にしか興味がないから」

 呆れたように言って肩を竦めるヴラジーミル様をタチアナ様が睨みつけます。
 いつもこんな調子のおふたりですが、軽口も叩き合えるほど仲が良いということです。

「ヴラジーミルは恋愛に興味はないの? 僕は大陸全土を巻き込んだ戦乱の行方だけじゃなくて、運命のイタズラで引き裂かれた初恋同士のふたりが巡り合う日も楽しみにしてるんだけど」
「イーゴリ様。ヴラジーミルはね、二巻でふたりが出会いそうですれ違ってしまったところを読んで、どうしてなんだ! って泣いていたのよ」
「……そんな場面あったか?」
「ミハイル様は戦術関係のところがお好きなのですよね」

 私が言うと、ミハイル様は恥ずかしそうに微笑みました。

「戦術の授業で習うときよりも物語で読むほうが臨場感があって頭に入るんだ。……そうか。『そよ風の戦記』には恋愛の要素もあったのか」
「むしろそれが主題だよ、ミハイル!」

 学園では身分を問わず友好を深め合うことが奨励されています。
 さすがに女性が婚約者以外の殿方を呼び捨てにすることはありませんが、男性がだれに対しても普段の口調で話しかけるのは珍しいことではありませんでした。
 もちろんそれは学園の中だけの話で、ミハイル様もお兄様と一緒に我が家に来たときなどは私に対しても丁寧語でお話しになります。

 楽しく話しているうちに時間が過ぎ去って、ほかの生徒も教室に入って来ました。
 始業の鐘が鳴って、慌ててそれぞれの席へ戻ります。
 と言っても私の席はイーゴリ様のお隣なのですが。タチアナ様の席もヴラジーミル様のお隣です。

 私はイーゴリ様にお借りした新刊をそっと鞄に仕舞いました。
 本というのは高価なものです。
 まして娯楽のためだけの物語に大金を支払う余裕のある人間は、貴族であってもそうはいません。

 爵位こそ上ですが、デニソフ伯爵家はチトフ子爵家よりも貧しいのです。
 援助目当ての婚約と言われればその通りなのですけれど、私にとってイーゴリ様は初恋の方でした。
 彼の横顔を見ているだけで心臓の動悸が激しくなってきたので、そっと胸に手を当てます。

 イーゴリ様の初恋の相手も私なら良いのに──呑気にそんなことを思っていた私の幸せな日々はその日、教師が連れて来た転校生の少女の存在によって打ち砕かれたのでした。

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