一昨日のキス、明日にキス

豆狸

文字の大きさ
4 / 51

3・X+10年7月7日③

しおりを挟む
 高校時代の漫研の後輩、井上類が住むマンションは、菜乃花のアパートから電車で三駅ほど離れた地域にある。
 類は最初の連載をしていたとき、このマンションを購入したのだった。
 駅裏はもちろん、ショッピングセンターがある辺りとも比べものにならないほど栄えている場所である。この地方の中心部といっていい、いわゆる繁華街だ。
 裏通りにはいかがわしい店が多く、高校のころはあまり行かないようにと言われていた。
 山に見下ろされた小さな田舎町であっても、問題は生じるものだ。

「……部長、先輩。こんな遅くにすいません。締め切りまで余裕があったから、ひとりで大丈夫だと思ってたんですけど」
「アシスタントさんを雇うとお金がかかるものね」
「わたしたちはお金じゃなくて夕食とかでいいからね」
「ありがとうございます」

 今の類は、バイトをしながら漫画を描いていた。
 金銭的に苦しいはずだ。
 雑誌に載った読み切りの原稿料だけで生活するのは難しい。
 連載がないと定期的に単行本が出ないのだから。
 そもそも読み切りは、単行本になるかどうかもわからない。
 扉を開けてふたりを迎え入れた類は、タオル地のバンダナで前髪を上げていた。
 高校時代は伸ばした前髪で隠していた端正な顔が、露わになっている。
 背も高くすらりとした体躯の彼が高校時代にも顔を見せていたら、かなりモテていたのではないかと思われた。
 忙しくて髭も剃っていないのではないかと期待していた菜乃花だが、類は剥きたて茹で卵のようにツルツルの顔だった。菜乃花たちが来るので、きちんと身支度したのかもしれない。
 机が並んだ仕事部屋に入ると、弥生が持って来たバッグから数枚のCDを取り出した。
 満面の笑顔で言う。

「睡魔に負けないよう、厳選したBLドラマのCDを持ってきました」

 彼女は筋金入りの腐女子──いわゆるBL、男性同士の恋愛ものを好む女性──なのである。
 中学からの長い付き合いだけれど、菜乃花はその趣味に引き込まれていない。
 しっかり者の弥生でなく、どちらかといえばのんびり者の菜乃花が部長を任命されたのは、漫研の部室がBL漫画で埋まることを懸念した顧問の采配であった。そうでなくても前の部長の麻宮渚が部室の本棚にBL漫画を詰め込んでいたので、これは英断だったと言えるだろう。
 類は、たとえようもなく冷たい目で弥生を見た。

「……却下です」
「直截的なシーンはないのよ? ちょっとイチャイチャしてるだけなの」
「却下ですってば」
「期待の新鋭BL作家のジュジュ先生初のドラマCDなのよ? もちろん私はCDのついた特装版と通常版を両方買ったわ。だって巻末のおまけ漫画が違うんですもの。通常版のおまけ漫画はジュジュ先生お得意の猫耳ものなの。ルイルイも猫好きでしょう? 今度持ってきましょうか」
「弥生ちゃん?」
「はーい。1・嫌がる人に無理矢理勧めない、2・リアルの人間を妄想の対象にしない、3・年齢制限は守る、ですね、部長」

 高校時代に約束させた誓いだ。
 頷いて、菜乃花は類に指定された席に腰かけた。

(まあ、もう3は関係ないんだけどね)

 三人とも二十歳を過ぎている。三十歳も近いのだ。
 弥生も菜乃花の向かい側の席に座り、類が横に飛び出たお誕生日席に腰を降ろした。
 室内の大きなTVをつけて、類が指示を出す。

「とりあえず、おふたりとも前の机にある原稿の消しゴムかけをお願いします。終わったら、次の作業をお願いしますので」
「ルイルイ、原稿はこれで全部なのかしら? 読みきりなら、もう少しページがもらえるんじゃない?」
「……残りの原稿は、これから僕がペン入れします」
「類くん、締め切りは?」
「……明後日です」

 かなりギリギリの日程だ。
 プロのアシスタントならまだしも、素人に過ぎない菜乃花と弥生がどれだけ力になれるものか。
 考えていても仕方がないので、菜乃花は消しゴムを手に取った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

皇后マルティナの復讐が幕を開ける時[完]

風龍佳乃
恋愛
マルティナには初恋の人がいたが 王命により皇太子の元に嫁ぎ 無能と言われた夫を支えていた ある日突然 皇帝になった夫が自分の元婚約者令嬢を 第2夫人迎えたのだった マルティナは初恋の人である 第2皇子であった彼を新皇帝にするべく 動き出したのだった マルティナは時間をかけながら じっくりと王家を牛耳り 自分を蔑ろにした夫に三行半を突き付け 理想の人生を作り上げていく

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

誰でもイイけど、お前は無いわw

猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。 同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。 見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、 「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」 と言われてしまう。

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...