一昨日のキス、明日にキス

豆狸

文字の大きさ
1 / 51

0・X年7月9日①

しおりを挟む
 佐藤菜乃花は瞼を閉じて、ほんのり色づいたリップグロスを指先で唇に伸ばした。
 爽やかな柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
 リップグロスの香りが、遠い思い出を鮮やかに変えていく。
 さっきまで頬に当たっていた夏の日差しの強さも気にならなくなっていった。
 代わりになぜか、近所の家で回る洗濯機の音が、妙に近くで聞こえてくる。

(……おばあちゃんに作ってもらったのは、高校三年生のときだっけ)

 このリップグロスは、菜乃花の趣味に合わせて彼女が手作りしてくれたものだ。高校生になってもオシャレに興味のなかった菜乃花の変化に、こういったもの──リップグロスや石鹸、さまざまな小物──を作るのが趣味だった祖母は、とても喜んでくれた。

(それまでは薬用のリップしか使ったことなくて……)

 同級生にはメイクを始めている子も多かったけれど、菜乃花は色つきのリップを使うことさえためらっていた。
 それが突然オシャレに興味を持ち始めたのは、きっと彼への──
 昨日見たニュースの記憶が蘇り、菜乃花は唇を噛んだ。
 結末が同じだとしても、あのころちゃんと告白していれば、この気持ちを消化できていたのだろうか。

(考えても、どうしようもないけれど)

 頭を振って、菜乃花は瞳を開けた。

「……え?」

 目の前の洗面台が、いつものものと形が違う。
 しかし、まったく見覚えがないわけではなかった。
 三か月前の祖母の葬式から戻っていない、実家の洗面台と同じものだ。
 だが、そんなはずはない。
 菜乃花はひとり暮らししているアパートの洗面台の前に立っていたのだから。
 1DKの狭い部屋、脱衣所というほどでもない風呂場前の空間に置かれた洗面台に、窓からの日差しが降り注いでいた。
 でも今いる場所には窓がなく、広い脱衣所自体の照明が灯されている。
 大きな音を立てながら、洗面台の横で洗濯機が廻っていた。
 そして、なにより──
 菜乃花は一歩踏み出して、鏡の中を覗き込む。

「これが、わたし……?」

 ちゃんと見知っている顔だ。
 基本的な作りは、まるで変わっていない。髪型だってそのままだ。
 だけどそこに映っているのは、二十八歳の佐藤菜乃花ではなく、十八歳の佐藤菜乃花だった。

「姉ちゃんっ! まだ?」

 脱衣所の扉が乱暴に叩かれて、弟の声がする。
 今年から中学生になった弟の照人は、姉の菜乃花よりもずっと早くオシャレに目覚めていた。毎朝洗面台を独占するのは、昨日までは照人のほうだった。

「……ん?」

 菜乃花は首を傾げた。
 自分は『どっち』なのだろう。
 瞳を開けるまでは二十八歳のつもりだったのに、今は自信がない。
 十八歳の意識が鮮明過ぎるし、これからの十年間の記憶は、確かめようとすると砂のように崩れ落ちていく。

(二十八歳の記憶がある十八歳? 十八歳の体の中に入っている二十八歳?)

 あるいは、十年間の隔たりを越えてふたつの意識が交じり合ったのか。

「もうっ!」

 脱衣所の扉が乱暴に開いて、飛び込んできた照人を見て菜乃花は吹き出した。

「な、なんだよ?」
「ううん……」

 無理矢理横に入ってきた照人の頭を撫でると、彼は真っ赤になって頬を膨らませた。
 幼なじみの女の子より背が低いのを気にしているのだ。

(大丈夫よ、そんなに気にしなくても)

 夏休みが終わるころには、菜乃花はもう弟の頭を撫でられなくなる。
 彼の身長が一気に伸びることを、菜乃花は知っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

皇后マルティナの復讐が幕を開ける時[完]

風龍佳乃
恋愛
マルティナには初恋の人がいたが 王命により皇太子の元に嫁ぎ 無能と言われた夫を支えていた ある日突然 皇帝になった夫が自分の元婚約者令嬢を 第2夫人迎えたのだった マルティナは初恋の人である 第2皇子であった彼を新皇帝にするべく 動き出したのだった マルティナは時間をかけながら じっくりと王家を牛耳り 自分を蔑ろにした夫に三行半を突き付け 理想の人生を作り上げていく

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

誰でもイイけど、お前は無いわw

猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。 同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。 見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、 「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」 と言われてしまう。

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...