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0・X年7月9日①
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佐藤菜乃花は瞼を閉じて、ほんのり色づいたリップグロスを指先で唇に伸ばした。
爽やかな柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
リップグロスの香りが、遠い思い出を鮮やかに変えていく。
さっきまで頬に当たっていた夏の日差しの強さも気にならなくなっていった。
代わりになぜか、近所の家で回る洗濯機の音が、妙に近くで聞こえてくる。
(……おばあちゃんに作ってもらったのは、高校三年生のときだっけ)
このリップグロスは、菜乃花の趣味に合わせて彼女が手作りしてくれたものだ。高校生になってもオシャレに興味のなかった菜乃花の変化に、こういったもの──リップグロスや石鹸、さまざまな小物──を作るのが趣味だった祖母は、とても喜んでくれた。
(それまでは薬用のリップしか使ったことなくて……)
同級生にはメイクを始めている子も多かったけれど、菜乃花は色つきのリップを使うことさえためらっていた。
それが突然オシャレに興味を持ち始めたのは、きっと彼への──
昨日見たニュースの記憶が蘇り、菜乃花は唇を噛んだ。
結末が同じだとしても、あのころちゃんと告白していれば、この気持ちを消化できていたのだろうか。
(考えても、どうしようもないけれど)
頭を振って、菜乃花は瞳を開けた。
「……え?」
目の前の洗面台が、いつものものと形が違う。
しかし、まったく見覚えがないわけではなかった。
三か月前の祖母の葬式から戻っていない、実家の洗面台と同じものだ。
だが、そんなはずはない。
菜乃花はひとり暮らししているアパートの洗面台の前に立っていたのだから。
1DKの狭い部屋、脱衣所というほどでもない風呂場前の空間に置かれた洗面台に、窓からの日差しが降り注いでいた。
でも今いる場所には窓がなく、広い脱衣所自体の照明が灯されている。
大きな音を立てながら、洗面台の横で洗濯機が廻っていた。
そして、なにより──
菜乃花は一歩踏み出して、鏡の中を覗き込む。
「これが、わたし……?」
ちゃんと見知っている顔だ。
基本的な作りは、まるで変わっていない。髪型だってそのままだ。
だけどそこに映っているのは、二十八歳の佐藤菜乃花ではなく、十八歳の佐藤菜乃花だった。
「姉ちゃんっ! まだ?」
脱衣所の扉が乱暴に叩かれて、弟の声がする。
今年から中学生になった弟の照人は、姉の菜乃花よりもずっと早くオシャレに目覚めていた。毎朝洗面台を独占するのは、昨日までは照人のほうだった。
「……ん?」
菜乃花は首を傾げた。
自分は『どっち』なのだろう。
瞳を開けるまでは二十八歳のつもりだったのに、今は自信がない。
十八歳の意識が鮮明過ぎるし、これからの十年間の記憶は、確かめようとすると砂のように崩れ落ちていく。
(二十八歳の記憶がある十八歳? 十八歳の体の中に入っている二十八歳?)
あるいは、十年間の隔たりを越えてふたつの意識が交じり合ったのか。
「もうっ!」
脱衣所の扉が乱暴に開いて、飛び込んできた照人を見て菜乃花は吹き出した。
「な、なんだよ?」
「ううん……」
無理矢理横に入ってきた照人の頭を撫でると、彼は真っ赤になって頬を膨らませた。
幼なじみの女の子より背が低いのを気にしているのだ。
(大丈夫よ、そんなに気にしなくても)
夏休みが終わるころには、菜乃花はもう弟の頭を撫でられなくなる。
彼の身長が一気に伸びることを、菜乃花は知っていた。
爽やかな柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
リップグロスの香りが、遠い思い出を鮮やかに変えていく。
さっきまで頬に当たっていた夏の日差しの強さも気にならなくなっていった。
代わりになぜか、近所の家で回る洗濯機の音が、妙に近くで聞こえてくる。
(……おばあちゃんに作ってもらったのは、高校三年生のときだっけ)
このリップグロスは、菜乃花の趣味に合わせて彼女が手作りしてくれたものだ。高校生になってもオシャレに興味のなかった菜乃花の変化に、こういったもの──リップグロスや石鹸、さまざまな小物──を作るのが趣味だった祖母は、とても喜んでくれた。
(それまでは薬用のリップしか使ったことなくて……)
同級生にはメイクを始めている子も多かったけれど、菜乃花は色つきのリップを使うことさえためらっていた。
それが突然オシャレに興味を持ち始めたのは、きっと彼への──
昨日見たニュースの記憶が蘇り、菜乃花は唇を噛んだ。
結末が同じだとしても、あのころちゃんと告白していれば、この気持ちを消化できていたのだろうか。
(考えても、どうしようもないけれど)
頭を振って、菜乃花は瞳を開けた。
「……え?」
目の前の洗面台が、いつものものと形が違う。
しかし、まったく見覚えがないわけではなかった。
三か月前の祖母の葬式から戻っていない、実家の洗面台と同じものだ。
だが、そんなはずはない。
菜乃花はひとり暮らししているアパートの洗面台の前に立っていたのだから。
1DKの狭い部屋、脱衣所というほどでもない風呂場前の空間に置かれた洗面台に、窓からの日差しが降り注いでいた。
でも今いる場所には窓がなく、広い脱衣所自体の照明が灯されている。
大きな音を立てながら、洗面台の横で洗濯機が廻っていた。
そして、なにより──
菜乃花は一歩踏み出して、鏡の中を覗き込む。
「これが、わたし……?」
ちゃんと見知っている顔だ。
基本的な作りは、まるで変わっていない。髪型だってそのままだ。
だけどそこに映っているのは、二十八歳の佐藤菜乃花ではなく、十八歳の佐藤菜乃花だった。
「姉ちゃんっ! まだ?」
脱衣所の扉が乱暴に叩かれて、弟の声がする。
今年から中学生になった弟の照人は、姉の菜乃花よりもずっと早くオシャレに目覚めていた。毎朝洗面台を独占するのは、昨日までは照人のほうだった。
「……ん?」
菜乃花は首を傾げた。
自分は『どっち』なのだろう。
瞳を開けるまでは二十八歳のつもりだったのに、今は自信がない。
十八歳の意識が鮮明過ぎるし、これからの十年間の記憶は、確かめようとすると砂のように崩れ落ちていく。
(二十八歳の記憶がある十八歳? 十八歳の体の中に入っている二十八歳?)
あるいは、十年間の隔たりを越えてふたつの意識が交じり合ったのか。
「もうっ!」
脱衣所の扉が乱暴に開いて、飛び込んできた照人を見て菜乃花は吹き出した。
「な、なんだよ?」
「ううん……」
無理矢理横に入ってきた照人の頭を撫でると、彼は真っ赤になって頬を膨らませた。
幼なじみの女の子より背が低いのを気にしているのだ。
(大丈夫よ、そんなに気にしなくても)
夏休みが終わるころには、菜乃花はもう弟の頭を撫でられなくなる。
彼の身長が一気に伸びることを、菜乃花は知っていた。
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