一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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1・X+10年7月7日①

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 繁忙期で今週は残業三昧。
 会社を出たのは、夏の遅い日暮れもとっくの昔に終わったころだった。
 電車に乗って、降りた駅から商店街を抜けて、ひとり暮らしのアパートの扉を開けて、佐藤菜乃花は玄関に座り込んだ。
 部屋まで上がる気力がない。
 二十八歳の今でこれなら、三十歳を過ぎたときはどうなってしまうのやら。
 扉を閉めて鞄を開き、近くの駅前にあるコンビニで買ったお菓子を取り出す。
 靴を脱ぐ元気もないくせに、コンビニで寄り道する元気はあった。
 というか、クーラーのない自室よりも冷房の効いたコンビニのほうが過ごしやすい。

「……あ」

 お菓子の袋を開けて溜息をつく。
 日が沈んで真っ暗な夜になっても夏は暑い。毎晩が熱帯夜だ。
 おかげで、すっかりチョコが溶けてしまっている。
 溶けたチョコで袋の内側に張りついているお菓子を、菜乃花は完全に出すのではなく、下から押し上げて食べることにした。
 マシュマロをビスケットで挟んだものをチョコレートでコーティングした、菜乃花が大好きなお菓子。でも──

(チョコもマシュマロと一緒にビスケットの中にあればいいのに)

 そうすると、外国のキャンプ場で発案されたという『スモア』というお菓子になる。
 さほど有名ではなかった十年ほど前から、菜乃花はスモアが好きだった。
 口の中のお菓子を飲み込んで、呟く。

「冴島くん……」

 スモアの美味しさを教えてくれたのは、高校二年のときに同じクラスだった冴島旭という少年だ。三年生でクラスが別れ、夏休み前に彼は消えた。
 彼の母はすでに亡くなっていて、ふたり暮らしだった父とともに行方不明になったのだと、風の噂で聞いている。
 なにがあったのか、菜乃花は知らない。
 詳しくだれかに聞けるほどの関係ではなかったのだ。
 空っぽになったお菓子の袋を握り締めて、菜乃花は靴を脱いで部屋に上がった。
 冴島旭は菜乃花にとって初恋の相手であり、初キスの相手でもある。
 初キスといっても、Wデートの最中に緊張で転びかけた菜乃花を彼が支えてくれたとき、偶然唇がぶつかっただけなのだけれど。
 菜乃花は、そっと自分の唇に触れた。
 あれから十年が過ぎている。
 彼の唇の感触は蘇ってはこなかった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 今週は仕事が忙しくて、家のことが少しもできていない。
 軽くシャワーを浴びた菜乃花は、居間兼寝室のソファーに腰かけた。
 このアパートは風呂トイレ付の1DKだ。
 寝るときは壁際に追いやられるテーブルの上に、今週の郵便物が積まれている。
 これを一刻も早く片付けて、扇風機をつけたかった。

「DM、DM、DM……あ、お母さん」

 三か月前、祖母の葬式で帰って以来、実家には戻っていない。
 母から来たのは大きめの茶封筒で、なんだか少し膨らんでいる。
 菜乃花は首を傾げた。
 遺産とか相続とか、そういったことの手続きはもう済ませたはずだ。

(おばあちゃんの部屋片づけてて、なにか見つけたのかな)

 亡くなった祖母は器用だった。
 いろいろなものを作るのが趣味で、ここ数年はネットで販売もしていた。
 そちら関係の処理は実家の弟が済ませたと聞いている。
 菜乃花は封を開けて、入っていたビニール袋を取り出した。
 ハマグリの形をしたプラスチックのケースには見覚えがある。

「リップ……」

 高校のころ、祖母が作ってくれた手作りのリップグロスだ。
 あのとき空になるまで使って、それから使っていない。
 最近、新しく作ってくれたのだろうか。

(いつ作ったのかな。保存の目安って五か月くらいだったっけ)

 思いながら淡いピンク色の蓋を開ければ、爽やかな柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
 ほんのり赤く色づいたリップグロスは、当時の自分にとって精いっぱいの背伸びだった。

(ああ、そうだ……)

 菜乃花の心に鮮やかに、過去の記憶が蘇った。
 冴島旭とキス……のようなものをした日、菜乃花はこのリップをつけていた。
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