一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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29・再びX+10年7月8日②

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 菜乃花は目を丸くして、弥生を見つめた。

「よく覚えてたね」

 あれから、あの相談が話題に上がることはなかった。十年前も十年間も。
 冗談だと思われたか、忘れられたのだと思っていたのだが。
 弥生は微笑んだ。

「うふふ。私もさっきまで忘れていたの。でも……」

 彼女は自分の唇に人差し指を当てた。

「もしかしてナノナノ、今あのときのリップをつけているんじゃなくて? 私には香りまでわからないけれど、艶や色合いに記憶が刺激されたみたい」
「なんの話?」
「ナノナノが廚二病だったときの話。未来の記憶があるって言ってたの」
「へーえ。ナノっち意外」

 菜乃花は苦笑を漏らした。
 記憶があっても、なんの役にも立たなかった。
 未来を変えるのに必要なことなんて、なにひとつ知らなかったのだから。

「……そんな気がしてただけなの。それより頑張って書き終えよう?」

 菜乃花は話題を変えて、樹里のコピー本に向き合った。
 ここではない『現在』で彼女がデビューしていて、ドラマCD付きの特装版が発売されるほど人気だったなんて伝えても、どうしようもない。
 一番変えたかったことは変わっていないのに、どうしてこんなことが変化しているのだろう。人の幸せを勝手に決めることはできないけれど、今の樹里もプロデビューを目指している。デビューしている『現在』のほうが幸せだったのではないだろうか。

(もしかして、わたしがなにかしちゃったのかな?)

 類が在学中にプロデビューできなかったのも、自分のせいかもしれない。
 ふと浮かんだ考えが、ボールペンを持つ手を重くした。

「……弥生ちゃん」
「なぁに? また未来の記憶が浮かんできたの?」
「あの……類くんと今も連絡取ってたりする? 彼、ペンネームを変えてデビューしてたりしないかなあ?」

 弥生は首を横に振った。

「ごめんなさい。全然連絡を取り合っていないの。でも……漫画はもう、描いてないと思うわ。ルイルイのお家って厳しかったから、彼、学校でしか原稿を描けなかったのよ。高校在学中にデビューして認めさせるのが目標で、それがダメならきっぱり諦めるって言ってたの」
「そうか。……あのとき、わたしが気軽に漫画家になってるなんて言ったから、プレッシャーかけちゃったのかもね」
「んー。……私のせいだと思うわ。ただでさえ女の子が苦手だった彼に画力目当てで交際を申し込んで、振り回しちゃったから。卒業してからも彼が投稿してた雑誌は確認してたんだけど、いつも女の子のキャラクターに魅力がないって酷評されてた」

 長過ぎる前髪の下に美貌を隠していた類は、弥生が画力目当てだということ自体は喜んで受け入れていた。乞われるまま、BL漫画を描いたこともある。
 ふたりが別れた理由を菜乃花は知らない。

「いきなり懺悔コーナー?」
「あ、ジュジュ」
「忙しいときに、変な話してゴメンね」
「んーんー。だったらうちも混ぜてもらおうかと思って」
「樹里ちゃんが懺悔?」
「確かにルイルイは派手な女の子苦手だったけど、ジュジュの画力は認めてたわよ」
「あ、そうなの? でも井上っちのことじゃなくて……八木っちのこと」
「八木くん?」

 頷く樹里の瞳は、少し潤んでいるように見えた。

「八木っちが自殺したのって、うちが告白したせいかなって」
「え? 八木くん自殺したの?」
「菜乃花、知らなかったの? 八木くん、あのショッピングセンターができた直後くらいに自殺したのよ」

 菜乃花は知らなかった。
 十年間の記憶を辿っても探し出せなかった。
 弥生が樹里を見つめる。

「でもそれは考え過ぎじゃないかしら。だってジュジュは彼に恋して、告白して振られただけでしょう?」
「だから……うちが好きになったせいで、八木っちが不幸になったのかもしれないと思って」

 菜乃花には樹里の気持ちがわかった。

「……冴島くんがいなくなったのも」

 そしてもうすぐニュースで遺体の発見が報道されるのも、

「わたしが好きになっちゃったせいなのかなあ……」

 あの記憶こそ変わっていてほしいのだが。
 菜乃花と樹里を見つめて、弥生が溜息をつく。

「わかったわ。私たち三人は『好きな男を不幸にしてしまうトリオ』として、慎ましく生きていきましょう。……大丈夫。私たちにはBLがある!」

 ふたりほど熱狂的に好きにはなれないと思う、なんて思いつつも、菜乃花は弥生の発言に吹き出してしまった。樹里は熱く拳を握り締めている。
 ──しばらくして作業をやり遂げた三人は仮眠を取り、起きると弥生の車で会場へ向かった。
 その車中で、菜乃花は冴島の遺体について報じるニュースを聞いた。
 唇を噛んで泣くのを堪えようとしたけれど、リップグロスの香りがもう消え失せていることに気づいた瞬間涙があふれ出て、どうしても止められなかった。
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