一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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30・再びX+10年7月9日

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 重い体を起こして、菜乃花は洗面台の前に立った。
 鏡に映った自分の目元は赤く腫れ上がり、ずっと泣いていたことがひと目でわかる。

(樹里ちゃんにも弥生ちゃんにも迷惑かけちゃったな……)

 菜乃花は溜息をついて肩を落とした。
 昨日、同人誌即売会へ向かう車の中で冴島についてのニュースを聞いた菜乃花は、車内でずっと泣き続けた。涙を止められなかったのだ。
 会場に着いたとき、弥生と樹里は菜乃花を案じて、先に帰るよう言ってくれた。
 実際のところ、真っ赤な目でスペースにいても邪魔になるだけだ。
 菜乃花はふたりの言葉に甘えて、昨日はアパートで一日泣き通した。
 いい加減枯れ果てただろうと思っても、次の瞬間には涙があふれてくる。
 今も油断をすればこみ上げてきそうだった。
 あまり眠れなくて体がだるいけれど、会社を休むつもりはなかった。
 繁忙期なのだ。
 菜乃花は連絡先を交換した過去からつながる『現在』も、初キスをした過去からつながる『現在』と同じ会社に勤めている。

(それに……)

 会社を休んで今日も泣いていたら、もう二度と起き上がれない気がした。
 少し乱暴に洗顔して、タオルで擦る。
 泣き腫らした目元は厚めのファンデーションで誤魔化すつもりだ。

「……」

 その前に、もう一度だけあのリップグロスを塗ってみようと思い、菜乃花は辺りを見回した。
 前の『現在』では洗面台に置いて出て行ったはずだ。
 だが、視界にはない。
 テーブルに置いたままだったのだろうかと、菜乃花は居間兼寝室へ入った。
 布団を敷く気力もなかったので、昨夜はソファーで寝た。
 夏でなければ風邪をひいていたかもしれない。
 ハマグリの形をした淡いピンク色のプラスチックケースは、ここにもなかった。
 一瞬で体温が下がった気がした。
 あんな奇跡はもう起こらないとしても、あのリップグロスは大切な思い出だ。
 祖母の形見でもある。

(どこに……あ)

 菜乃花は昨日服も着替えなかった。
 ポケットにあるリップグロスに気づき、同時にべつのことにも思い当たる。
 一昨日の夜、菜乃花は柑橘系の香りに包まれても十年前に戻れなかった。
 それはどうしてだったのだろう。
 十年前のあの日、リップグロスはまだなかったからではないか。

(今朝……十年前の今朝、おばあちゃんからもらったのよ。洗面所に入って、だけどドキドキしてなかなか蓋も開けられなくて……)

 今なら、今ならもう一度奇跡が起こるかもしれない。
 鏡に映る菜乃花は、高校のときと同じ髪型をしている。
 肩のところで切り揃えて、軽く遊ばせた髪。
 今は老けているし目は赤いし、ほとんど眠れなかったから隈もできているけれど、たぶん心は変わっていない。過去が変わっても、十八歳でも二十八歳でも、菜乃花は冴島が好きだった。
 カレー味のパウンドケーキを夢中で食べていた姿を思い出す。
 菜乃花は携帯を手に取った。
 冴島からの最初で最後のメールを確認した後で、昨夜弥生がくれたメールを開く。
 樹里も心配してメールをくれていたが、弥生のメールに書いてあったのは心配だけではなかった。菜乃花は文章を目で追った。

 ──自分の言動で相手の運命が変わるなんて、自意識過剰じゃないかしら。
 相手には相手の人生があって、精いっぱいに生きている。
 だからこそ、好きになったんだと思うの。
 私のように利用目的で近づいたのなら明らかに悪いけれど、ナノナノやジュジュはそうではないでしょう?
 冴島くんの死を悲しむのは仕方がないわ。
 でも彼を好きになった自分まで、否定するのはどうかと思うわ。

 もし、菜乃花が過去に戻れたとしても、前と同じでなにもできないだろう。
 冴島になにがあったのか、菜乃花は知らないのだから。
 樹里や類のことを案じる気持ちもある。
 だけど結局は、それも自己満足に過ぎない。
 樹里や類も、それぞれの人生を精いっぱいに生きているのだから。
 問題はたったひとつ。
 菜乃花がどうしたいかだ。
 淡いピンク色の蓋を取って、リップグロスを指に取る。
 目を閉じて、菜乃花は柑橘系の香りに包まれた。
 たとえ無意味な繰り返しだったとしても、菜乃花は冴島に会いたかった。
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