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31・三度目のX年7月9日①
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洗面台を弟の照人に譲って、菜乃花は居間へ飛び込んだ。
祖母がテレビの前に座り、朝のニュースを眺めている。
「おばあちゃん、ありがとう!」
「菜乃ちゃん、どうしたの? リップグロス気に入ったの?」
「うん! じゃあわたし、学校へ行ってくるね!」
十八歳の菜乃花の体の中には、二十八歳の菜乃花の意識と記憶があった。
過去に戻れた興奮で、今は二十八歳の意識のほうが主体になっている。
けれど十八歳の意識も基本的には同じだった。
(冴島くんに会いたい! 元気で生きている彼の顔が見たい)
荷物を手にして家を飛び出した菜乃花だが、学校まで走る気はない。
この前よりも早めに出たし、二十八歳の菜乃花も十八歳の菜乃花も走るのは好きではないのだ。初夏の風に吹かれて、菜乃花は高校への道を歩き出した。
なにも知らなかった最初、十年前から戻ったこの前、そして今回──今日を過ごすのはもう三度目なのだと気づき、なんだか切ない気持ちになりながら。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(……あ……)
学校へ向かっていた菜乃花は、呟きかけて言葉を飲み込んだ。
どうしよう。
目前には類、後輩の井上類がいた。
長身な彼の大きな背中が見える。
漫研の部室では背中を丸めて原稿を描いているので、あまり大柄な印象がなかった。立って動いているところを見ると、いつも驚いてしまう。
冴島と連絡先を交換した歴史の『未来』での彼が漫画家としてプロデビューしていなかったことで、菜乃花は罪悪感を持っていた。
(前のときにわたしが、漫画家になるなんて言ったからかもしれない)
冴島と初キス(偶然)した歴史の『未来』での彼は売れていなかったものの、締め切りに追われつつも楽しそうに漫画を描いていた。
迂闊な言動が類の未来を変えてしまうかもしれないと思うと、声をかけるのが怖い。
(でも……)
登校途中に部活の後輩と会って、挨拶もせずに通り過ぎるというのはどうかと思う。
弥生のメールに書かれていたように、自分の言動がすべてを決定していると考えるのも自意識過剰な気もするし。
(協力できるときはして、それ以外のときは、わたしはわたしのすべきことをすればいいんだよね、きっと)
菜乃花のすべきこと、したいこと、それはやっぱり冴島の未来を変えることだ。
どうすればいいのかは、まだわからない。
菜乃花はまだ、彼がいなくなった理由すら知らないのだから。
(それはそれとして、類くんにはちゃんと挨拶しよう。漫研の部長として!)
決意して片手を上げかけたものの、声をかけるには距離があった。
類が長い脚で進む速度は、菜乃花が走るより速いかもしれない。
「あの……類く……」
菜乃花の呼びかけに、類は気づかない。
代わりに周りを歩く同じ学校の生徒たちが、怪訝そうに振り向いた。
(……挨拶できなかったら、それはそれでいいかな)
菜乃花は俯いて、上げかけた片手を降ろした。
そのまま歩く速度を上げる。
類に追いつこうと思ったのではなく、周囲の視線から逃れたかったのだ。
もうだれも見ていないのだけれど、どうにも気恥ずかしかった。
──が、
「きゃ」
なぜか道の真ん中で立ち止まっていた類にぶつかって、菜乃花は結局彼に挨拶することになってしまった。
「あ、すいませ……おはようございます、部長」
「おはよう、類くん」
「朝会うのって、初めてじゃないですか?」
「そうだね。類くんは、いつもこの時間?」
「いつもはもっと早いです。授業の前に部室で原稿を描いているので」
未来で弥生が言っていた通り、家が厳しいからなのだろうか。
類もこの辺りに家がある、徒歩通学者だ。
今は漫画を描いていないので、降ろした長過ぎる前髪が整った顔を隠している。
顔の半分が隠れるほど長いほうが毛先が目に入らないし、額を出して髪を後ろでまとめるときなどに便利らしい。
「今日はちょっと寝坊してしまって……バイバイ」
「え?」
類は、近くの路地に走り込む猫に手を振っていた。
「なんで立ち止まってるのかと思ったら、猫を撫でてたの?」
「いえ。よそ様の猫を勝手に撫でるのは失礼なので、遠くから鑑賞していただけです。……部長。良かったら、学校まで一緒に行きますか?」
「そうだね」
菜乃花は類と並んで歩き出した。
同じ場所へ向かうのに、ここで別れるのもおかしな話だ。
気を遣って歩く速度を調整してくれたのか、足の長い彼に置いて行かれることはなかった。
祖母がテレビの前に座り、朝のニュースを眺めている。
「おばあちゃん、ありがとう!」
「菜乃ちゃん、どうしたの? リップグロス気に入ったの?」
「うん! じゃあわたし、学校へ行ってくるね!」
十八歳の菜乃花の体の中には、二十八歳の菜乃花の意識と記憶があった。
過去に戻れた興奮で、今は二十八歳の意識のほうが主体になっている。
けれど十八歳の意識も基本的には同じだった。
(冴島くんに会いたい! 元気で生きている彼の顔が見たい)
荷物を手にして家を飛び出した菜乃花だが、学校まで走る気はない。
この前よりも早めに出たし、二十八歳の菜乃花も十八歳の菜乃花も走るのは好きではないのだ。初夏の風に吹かれて、菜乃花は高校への道を歩き出した。
なにも知らなかった最初、十年前から戻ったこの前、そして今回──今日を過ごすのはもう三度目なのだと気づき、なんだか切ない気持ちになりながら。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(……あ……)
学校へ向かっていた菜乃花は、呟きかけて言葉を飲み込んだ。
どうしよう。
目前には類、後輩の井上類がいた。
長身な彼の大きな背中が見える。
漫研の部室では背中を丸めて原稿を描いているので、あまり大柄な印象がなかった。立って動いているところを見ると、いつも驚いてしまう。
冴島と連絡先を交換した歴史の『未来』での彼が漫画家としてプロデビューしていなかったことで、菜乃花は罪悪感を持っていた。
(前のときにわたしが、漫画家になるなんて言ったからかもしれない)
冴島と初キス(偶然)した歴史の『未来』での彼は売れていなかったものの、締め切りに追われつつも楽しそうに漫画を描いていた。
迂闊な言動が類の未来を変えてしまうかもしれないと思うと、声をかけるのが怖い。
(でも……)
登校途中に部活の後輩と会って、挨拶もせずに通り過ぎるというのはどうかと思う。
弥生のメールに書かれていたように、自分の言動がすべてを決定していると考えるのも自意識過剰な気もするし。
(協力できるときはして、それ以外のときは、わたしはわたしのすべきことをすればいいんだよね、きっと)
菜乃花のすべきこと、したいこと、それはやっぱり冴島の未来を変えることだ。
どうすればいいのかは、まだわからない。
菜乃花はまだ、彼がいなくなった理由すら知らないのだから。
(それはそれとして、類くんにはちゃんと挨拶しよう。漫研の部長として!)
決意して片手を上げかけたものの、声をかけるには距離があった。
類が長い脚で進む速度は、菜乃花が走るより速いかもしれない。
「あの……類く……」
菜乃花の呼びかけに、類は気づかない。
代わりに周りを歩く同じ学校の生徒たちが、怪訝そうに振り向いた。
(……挨拶できなかったら、それはそれでいいかな)
菜乃花は俯いて、上げかけた片手を降ろした。
そのまま歩く速度を上げる。
類に追いつこうと思ったのではなく、周囲の視線から逃れたかったのだ。
もうだれも見ていないのだけれど、どうにも気恥ずかしかった。
──が、
「きゃ」
なぜか道の真ん中で立ち止まっていた類にぶつかって、菜乃花は結局彼に挨拶することになってしまった。
「あ、すいませ……おはようございます、部長」
「おはよう、類くん」
「朝会うのって、初めてじゃないですか?」
「そうだね。類くんは、いつもこの時間?」
「いつもはもっと早いです。授業の前に部室で原稿を描いているので」
未来で弥生が言っていた通り、家が厳しいからなのだろうか。
類もこの辺りに家がある、徒歩通学者だ。
今は漫画を描いていないので、降ろした長過ぎる前髪が整った顔を隠している。
顔の半分が隠れるほど長いほうが毛先が目に入らないし、額を出して髪を後ろでまとめるときなどに便利らしい。
「今日はちょっと寝坊してしまって……バイバイ」
「え?」
類は、近くの路地に走り込む猫に手を振っていた。
「なんで立ち止まってるのかと思ったら、猫を撫でてたの?」
「いえ。よそ様の猫を勝手に撫でるのは失礼なので、遠くから鑑賞していただけです。……部長。良かったら、学校まで一緒に行きますか?」
「そうだね」
菜乃花は類と並んで歩き出した。
同じ場所へ向かうのに、ここで別れるのもおかしな話だ。
気を遣って歩く速度を調整してくれたのか、足の長い彼に置いて行かれることはなかった。
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