一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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34・三度目のX年7月10日

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 菜乃花はひとり、帰路を辿っていた。
 放課後だけど辺りは明るい。
 初夏の太陽が空に輝いている。
 朝も通った道だ。町並みの向こうにショッピングセンターはない。
 同じ学校の生徒たちの姿もなかった。
 部活をしている生徒はもっと遅く、帰宅部の生徒はもっと早くに帰っている時間だ。
 今日は木曜日。昨日は水曜日で、佐々木にWデートの誘いを受けた日。
 いつも一緒に帰る弥生は、昨日に続いて今日も麻宮の原稿を手伝いに行っている。

(後は土曜日を待つばかりか……)

 冴島のことはもう誘っていた。
 Wデートをしてもキスするわけではないとわかっているので、落ち着いて誘えたのだ。
 ふたりは恋人同士ではないから、石段で躓きかけたところを助けてもらうというハプニングでもなければキスなどしない。そしてわかっている以上、石段で躓いたりはしない。

(まあ、べつにキスしたいわけじゃない……けど)

 口を尖らせている自分に気づき、菜乃花は慌てて唇を戻した。

(ううん、ウソだ。本当は……)

 菜乃花は頭を左右に振った。
 キスしたくないわけではないけれど、キスすれば満足なわけでもない。

(来週の火曜日、なにがあったの? なにが起こるの?)

 月曜日の昼、学校で会った冴島はいつもと変わらないように見えた。
 翌日、映画館の裏で佐々木のバイト先の先輩に目撃された冴島は、学校をサボってなにをしていたのだろう。どんなに記憶を辿っても、思い出せるのは菜乃花が知っていることだけだ。
 あのときの冴島の状態まではわからない。
 前日の夜、菜乃花が『おやすみ』のメールを送ったとき、彼はどうしていたのだろうか。

(わたしがもっと頼りになる人間だったら、『おやすみ』って返してくれるだけじゃなくて、困ったことを相談してくれてたのかな。……相談してくれても、力になれるかどうかわからないけど)

 それでも、なにも知らないまま手をこまねいているよりはいい。
 いや、すべては自己満足に過ぎないのだろうか。

(わたしにできることなんて、なにも……)

「……佐藤部長!」

 背後で声がして、菜乃花は振り向いた。

「……類くん?」

 下校の前に顔を出したとき、部室で原稿を描いていた類が後ろから駆けてくる。
 あまり運動の得意でない彼の場合、走るより長い脚で普通に歩いたほうが速い気がした。

「あの、部長。あの……」
「どうしたの?」

 菜乃花が近づくと、類は足を止めて息を整えた。
 長い前髪を上げて後ろの髪と一緒にまとめている。部室で漫画を描くときのスタイルだ。
 整った美貌が汗だくになっている。
 類の家はもう通り過ぎているのにどうしたんだろう、と思いながら、菜乃花は彼の言葉を待った。

「き、今日も昨日も早く帰ったのって、昨日の朝僕と一緒に……じゃなくて、えっと、ぶぶ、部長って、あの冴島とかいうヤツが好きなんですか?」
「ふえっ?」

 まさかそんなことを聞かれるとは夢にも思っていなかったので、菜乃花はうろたえた。
 夏休み明けの文化祭で発行する部誌のテーマや、夏休み中の部活で彼の原稿を手伝えるかどうかなどを聞かれると思っていたのだ。もっとも、どちらもわざわざ追いかけてきてまで確認するようなことではないのだが。

「わ、わたし、あの……うん」

 菜乃花は頷いた。
 唇から、自然に言葉が流れ出る。

「うん、そうだよ。わたし、冴島くんが好きなの」

 なにもわからないまま十年の時を経ても、なにもできないまま同じ時を繰り返しても、彼を好きだという気持ちは変わらない。
 二十八歳の菜乃花も十八歳の菜乃花も同じ気持ちだ。
 口に出すと、なんだかとても心地良かった。
 自然と笑顔になっていく。

「えへへ、弥生ちゃんにも言ってなかったのになあ」
「……そんなの、小林先輩にはバレバレですよ」
「だろうね。うん、そんな気はしてた。でも……急にどうしたの? あ、もしかして恋愛漫画を描いて、女の子を研究するの?」

 類は片手を頭の後ろに回し、まとめていたゴムを外して前髪を戻した。
 ぽつりと話し出す。

「……中学のころ」
「うん?」
「つき合ってた女の子が、前髪切って顔を出せってうるさくって。それ以来僕、女の子苦手なんです。でも、部長と先輩はそんなこと言わないでいてくれるから……」
「まあ、視力が悪くなるようなら注意するけど」
「そうですね。我が家の両親も、成績さえ落とさなければ文句は言いません」

 最初の十年後の彼は、メガネをかけていなかった。
 漫画を描くとき前髪を上げるのは、髪の先で原稿を擦らないようにだ。
 身体に影響がなければ外見は自由だと、菜乃花は思う。

「……佐藤部長、僕は……いえ、突然こんなところで呼びとめてすいませんでした」
「ううん。あの……漫画、なにかできることがあったら言ってね。部長として頑張って協力するから」
「ありがとうございます。……じゃあ」
「帰るの? 気をつけてね」
「はい。部長も気をつけてください」

 少しだけ類の背中を見送って、菜乃花は再び帰路についた。

(いきなり創作意欲が湧いて追いかけてきたのかな?)

 菜乃花は読むほうばかりだけれど、漫研の部長として描くほうの気持ちも少しはわかる。
 類の絵なら少女漫画でも合いそうだと思いながら、菜乃花はある決意をした。
 声に出して言葉にすることで、強くなる思いもある。
 決意できたのは類に質問されたおかげだった。
 菜乃花は、十年後にも冴島と一緒にいたいと望んでいる自分に気づいたのだ。
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