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46・三度目のX年7月14日
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月曜日の学食で、菜乃花は昼食を食べていた。
この高校に入学して三年目だが、学食を利用したのは片手で数えるほどだ。
今日は弁当を忘れてしまったのである。
日替わり定食の唐揚げは美味しいけれど、菜乃花の箸はなかなか進まない。
こっそり視線を上げると、前の席に座った人物が照れくさそうな笑みを浮かべた。
「なんだよ。……まだ、昨日のこと気にしてるのか?」
旭だ。
彼の言う通り、菜乃花はまだ昨日のキスのことを気にしていた。
イヤだったわけではない。どうしても頭から離れないだけだ。
実のところ、弁当を忘れたのもキスを思い出してぼーっとしていたからだった。
菜乃花に尋ねて、旭は目の下を赤くして俯く。
彼だって気にしているのだ。
旭が食べているのは学食のメニューではなく、いつも裏庭のベンチで食べているパンだった。彼は手作りのサンドイッチをラップに包んで、お菓子と一緒にナイロン袋に入れて持って来ている。
(フレンチトーストのサンドイッチなんて、初めて食べた。美味しかったなあ)
ほんのり甘いフレンチトーストが、塩気の強いベーコンの旨みを倍増していた。
自分の唐揚げと交換した旭の昼食の味を思い出しながら、菜乃花は彼が次の言葉を話すのを待った。
「……昨日、周りにだれもいなかったよな?」
「う、うん。あの時間は、あまり人が通らないから。平日の朝と昼過ぎは、近くの小学校の子が登下校してて、道がいっぱいになってるんだけどね」
「ふーん、そうなんだ」
「買い出しから帰るの遅くなって、怒られなかった?」
「大丈夫。どうせ店は暇だったから」
夏休みも近い七月、新入生のお試しも減って、学食には人が少ない。
空いた席も多かった。
ふたりのいるテーブルも左右の席が空いている。
灼熱の裏庭で昼食を摂るのは旭くらいだが、この高校には噴水のある中庭もあった。木々が植えられた中庭は涼しく、昼休みの人気スポットだ。
文化部も運動部もそれなりに盛んな学校のため、先週までの菜乃花のように部活棟で過ごす生徒も多い。
「……菜乃花」
「……うん」
「これから、ずっと一緒にここで食うか? ここで弁当食べても、たぶん大丈夫だぞ。裏庭は暑いからな」
「う、うん。でも……八木くん、明日は来るんじゃないかな?」
「そっか。まあアイツはどうでもいいけど、菜乃花は番長として漫研のヤツらに睨みを効かせる必要もあるもんな。毎日は無理か」
「番長じゃないです」
頬を膨らませた後で、菜乃花は首を傾げた。
ふたりで学食へ来たのは、八木が早退したからでもある。
顔を見る口実として隣のクラスへ報告に行ったら、割り込んできた弥生にせっかくつき合い始めたんだから、今日くらいふたりで昼食摂ったら? と勧められたのだ。
(明日は八木くん来るんだったっけ?)
思い出せない。
今の菜乃花はそれよりも──
「あの、旭くん。それより、さっき言った……」
「ん? ああ、わかってるって。交通ルールは破らないし、学校サボって繁華街うろついたりもしないから安心しろ。てか、そんなことしたことねぇし。菜乃花は俺のこと、不良だと思ってんのか?」
苦笑する旭に、菜乃花は胸を撫で下ろした。
未来がどうこういう話はしていない。今回は繁華街の裏通りで絡まれたことがあると聞いていたので、自分が心配性なのだと言って気をつけるよう頼んだのだ。
「後、なにか困ったことがあったら相談してね。……あの、わたし、か、彼女だからね?」
「わかってる」
「……八木くん、早く元気になるといいね。心配でしょう?」
「んー」
「あ、なにか連絡が来てた?」
「……菜乃花は俺の彼女だし」
「う、うん?」
「優也は、ほら、アレだから」
「うん……」
「身内の話ってことで教えるけど」
旭が振る片手に招かれて、菜乃花は学食のテーブルに身を乗り出した。
声を潜めて、彼が続きを話す。
「……優也のヤツ、たぶん病気じゃねぇ」
「そうなの?」
八木は昨日の夜、金曜日にできたばかりの恋人とドライブデートへ行ったのだという。
この高校を卒業して運転免許を取得したばかりの彼女に誘われたらしい。
「嬉しげにメールして来て、泊まりになったら誤魔化してくれとか言ってきやがった」
「ふえっ? そ、それって……」
八木の体調不良は、単なる寝不足だったのだろうか。
「あー、ちゃんと戻ってきたから大丈夫。高校生にあるまじき行為はしてねぇと思うぜ。ま、泊まりになるとか言ってきたら、八木のおばさんたちに密告するつもりだったがな。それが兄の務めだろ? 彼女のほうも初デートで、そんなこと考えてなかったと思うし」
昼間の試合に勝って浮かれていたから、調子に乗って迫ってケンカになったのではないかと、旭が笑う。
(前はこんなこと聞かなかったな。やっぱりおつき合いしてないと、教えてもらえないことあるよね)
いろいろ事情があるのだろうし、今の八木との関係は良好なようだが、それでも旭の家庭が複雑なことに変わりはない。
昼休みの数分間一緒に過ごすだけの元クラスメイトには、話せないことも多いだろう。
秘密の話はそこまでだったのか、旭は菜乃花から体を離した。
学食の椅子に背を預けて距離を取り、真っ赤な顔を広げた手で隠して話を変える。
「そんで落ち込んでるだけなんだと思うぜ。……菜乃花」
「なぁに?」
「昨日のこと、怒ってないか?」
「お、怒ってないよ?」
「……でも今日は、あんまり赤くないほうのリップじゃん」
「だって学校だから」
「そっか……そうだな。あの赤いほうのリップで学校来られたら、ライバル増えそうで困る」
「そんなこと……」
ないよ、という言葉を菜乃花は飲み込んだ。
彼氏の欲目だとは思うものの、そう思ってくれていることが嬉しい。
(……このまま無事に明日が終わったら、二十八歳の意識はどうなるのかな?)
ふと疑問が心に湧き起こる。
前のように、十年後の二十八歳の体に戻ってしまうのだろうか。
あのとき、見知らぬ十年間のすべての記憶は脳に刻まれていたけれど、それは本で読んだ知識のように現実味のないものだった。
(旭くんと過ごす日々をもっと味わっていたいけど……)
それは十八歳の意識と体の権利だと、二十八歳の意識は結論を出した。
旭が行方不明にならなければ、それで満足だ。
告白したときとキスしたときに意識を共有していられただけでも幸運なのだと思う。
明日、十年後に意識が戻ったとしても、そのふたつの記憶だけはいつまでも鮮明に心に残ることだろう。二十八歳の菜乃花にも、十八歳の菜乃花にも──
この高校に入学して三年目だが、学食を利用したのは片手で数えるほどだ。
今日は弁当を忘れてしまったのである。
日替わり定食の唐揚げは美味しいけれど、菜乃花の箸はなかなか進まない。
こっそり視線を上げると、前の席に座った人物が照れくさそうな笑みを浮かべた。
「なんだよ。……まだ、昨日のこと気にしてるのか?」
旭だ。
彼の言う通り、菜乃花はまだ昨日のキスのことを気にしていた。
イヤだったわけではない。どうしても頭から離れないだけだ。
実のところ、弁当を忘れたのもキスを思い出してぼーっとしていたからだった。
菜乃花に尋ねて、旭は目の下を赤くして俯く。
彼だって気にしているのだ。
旭が食べているのは学食のメニューではなく、いつも裏庭のベンチで食べているパンだった。彼は手作りのサンドイッチをラップに包んで、お菓子と一緒にナイロン袋に入れて持って来ている。
(フレンチトーストのサンドイッチなんて、初めて食べた。美味しかったなあ)
ほんのり甘いフレンチトーストが、塩気の強いベーコンの旨みを倍増していた。
自分の唐揚げと交換した旭の昼食の味を思い出しながら、菜乃花は彼が次の言葉を話すのを待った。
「……昨日、周りにだれもいなかったよな?」
「う、うん。あの時間は、あまり人が通らないから。平日の朝と昼過ぎは、近くの小学校の子が登下校してて、道がいっぱいになってるんだけどね」
「ふーん、そうなんだ」
「買い出しから帰るの遅くなって、怒られなかった?」
「大丈夫。どうせ店は暇だったから」
夏休みも近い七月、新入生のお試しも減って、学食には人が少ない。
空いた席も多かった。
ふたりのいるテーブルも左右の席が空いている。
灼熱の裏庭で昼食を摂るのは旭くらいだが、この高校には噴水のある中庭もあった。木々が植えられた中庭は涼しく、昼休みの人気スポットだ。
文化部も運動部もそれなりに盛んな学校のため、先週までの菜乃花のように部活棟で過ごす生徒も多い。
「……菜乃花」
「……うん」
「これから、ずっと一緒にここで食うか? ここで弁当食べても、たぶん大丈夫だぞ。裏庭は暑いからな」
「う、うん。でも……八木くん、明日は来るんじゃないかな?」
「そっか。まあアイツはどうでもいいけど、菜乃花は番長として漫研のヤツらに睨みを効かせる必要もあるもんな。毎日は無理か」
「番長じゃないです」
頬を膨らませた後で、菜乃花は首を傾げた。
ふたりで学食へ来たのは、八木が早退したからでもある。
顔を見る口実として隣のクラスへ報告に行ったら、割り込んできた弥生にせっかくつき合い始めたんだから、今日くらいふたりで昼食摂ったら? と勧められたのだ。
(明日は八木くん来るんだったっけ?)
思い出せない。
今の菜乃花はそれよりも──
「あの、旭くん。それより、さっき言った……」
「ん? ああ、わかってるって。交通ルールは破らないし、学校サボって繁華街うろついたりもしないから安心しろ。てか、そんなことしたことねぇし。菜乃花は俺のこと、不良だと思ってんのか?」
苦笑する旭に、菜乃花は胸を撫で下ろした。
未来がどうこういう話はしていない。今回は繁華街の裏通りで絡まれたことがあると聞いていたので、自分が心配性なのだと言って気をつけるよう頼んだのだ。
「後、なにか困ったことがあったら相談してね。……あの、わたし、か、彼女だからね?」
「わかってる」
「……八木くん、早く元気になるといいね。心配でしょう?」
「んー」
「あ、なにか連絡が来てた?」
「……菜乃花は俺の彼女だし」
「う、うん?」
「優也は、ほら、アレだから」
「うん……」
「身内の話ってことで教えるけど」
旭が振る片手に招かれて、菜乃花は学食のテーブルに身を乗り出した。
声を潜めて、彼が続きを話す。
「……優也のヤツ、たぶん病気じゃねぇ」
「そうなの?」
八木は昨日の夜、金曜日にできたばかりの恋人とドライブデートへ行ったのだという。
この高校を卒業して運転免許を取得したばかりの彼女に誘われたらしい。
「嬉しげにメールして来て、泊まりになったら誤魔化してくれとか言ってきやがった」
「ふえっ? そ、それって……」
八木の体調不良は、単なる寝不足だったのだろうか。
「あー、ちゃんと戻ってきたから大丈夫。高校生にあるまじき行為はしてねぇと思うぜ。ま、泊まりになるとか言ってきたら、八木のおばさんたちに密告するつもりだったがな。それが兄の務めだろ? 彼女のほうも初デートで、そんなこと考えてなかったと思うし」
昼間の試合に勝って浮かれていたから、調子に乗って迫ってケンカになったのではないかと、旭が笑う。
(前はこんなこと聞かなかったな。やっぱりおつき合いしてないと、教えてもらえないことあるよね)
いろいろ事情があるのだろうし、今の八木との関係は良好なようだが、それでも旭の家庭が複雑なことに変わりはない。
昼休みの数分間一緒に過ごすだけの元クラスメイトには、話せないことも多いだろう。
秘密の話はそこまでだったのか、旭は菜乃花から体を離した。
学食の椅子に背を預けて距離を取り、真っ赤な顔を広げた手で隠して話を変える。
「そんで落ち込んでるだけなんだと思うぜ。……菜乃花」
「なぁに?」
「昨日のこと、怒ってないか?」
「お、怒ってないよ?」
「……でも今日は、あんまり赤くないほうのリップじゃん」
「だって学校だから」
「そっか……そうだな。あの赤いほうのリップで学校来られたら、ライバル増えそうで困る」
「そんなこと……」
ないよ、という言葉を菜乃花は飲み込んだ。
彼氏の欲目だとは思うものの、そう思ってくれていることが嬉しい。
(……このまま無事に明日が終わったら、二十八歳の意識はどうなるのかな?)
ふと疑問が心に湧き起こる。
前のように、十年後の二十八歳の体に戻ってしまうのだろうか。
あのとき、見知らぬ十年間のすべての記憶は脳に刻まれていたけれど、それは本で読んだ知識のように現実味のないものだった。
(旭くんと過ごす日々をもっと味わっていたいけど……)
それは十八歳の意識と体の権利だと、二十八歳の意識は結論を出した。
旭が行方不明にならなければ、それで満足だ。
告白したときとキスしたときに意識を共有していられただけでも幸運なのだと思う。
明日、十年後に意識が戻ったとしても、そのふたつの記憶だけはいつまでも鮮明に心に残ることだろう。二十八歳の菜乃花にも、十八歳の菜乃花にも──
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