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第六話B 愛を手放す
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イザベリータが海を見下ろす高台にある神殿に入って、どれだけ経つだろう。
もう一年は確実に過ぎたのに、アンドレスには昨日のことのように思えた。
心を病んだ原因であるアンドレスに会うと病状が悪化すると言われて、彼には面会の許可すら下りていない。
(しかしデルガード侯爵は面会を許された)
それは侯爵が伝言を運んだだけだったのと、家族の愛と恋愛は違うと娘を説得したからだったのだが、アンドレスは自分に都合良く考えていた。
イザベリータは回復しているのだ、いつか自分とも会えるようになるのだと。
彼はまだ側妃を選んでいない。イザベリータの心が癒えて神殿から出てきたら、母である女王を説き伏せて彼女を妻にするつもりだった。彼のことを考えるとイザベリータが混乱するからと、手紙のやり取りさえ禁止されていることは考えないようにしている。
「王太子殿下」
「なんでしょう、ザハブ公爵」
今夜の王宮では、アルメンタ王国と内乱が収束したジャウハラ帝国との国交再開を祝う宴が開催されていた。
アンドレスは、新しい皇帝と同じ母を持ち内乱の際は兄を支えて活躍していた客人に笑顔を向ける。
黒い髪に褐色の肌、大柄で逞しい割に少しあどけない表情を見せる青年だ。兄の即位後に公爵位を与えられ、アルメンタ王国へ国交再開の打診に来る途中で嵐に遭った彼は、体が回復してから王宮を訪れ──
(そういえば、意識が戻るまではイザベリータのいる神殿で治療を受けていたのだったな)
ふとそんなことを思い出し、アンドレスは胸がざわつくのを感じた。
なにを話したかったのだろう。ザハブ公爵はアンドレスに呼びかけたものの、どう話し始めれば良いのかわからないようで、言葉を探して思い悩む顔をしている。
アンドレスも口を開けなかった。国交が再開したばかりの二国の限りなく最高位に近い場所にいるふたりだ。話すことなど山のようにあるはずなのに。
「ザハブ公爵」
「女王陛下」
「陛下」
ふたりの沈黙を破ったのは女王だった。
彼女は帝国の公爵に笑みを向ける。
「イザベリータのことを頼みますよ。平民になったとはいえ、あの子は私の親友の忘れ形見です。大切に扱ってくださるようお願いいたします」
「は、はい。もちろんです。彼女は俺の女神ですから」
「……」
アンドレスは息を飲んだ。
(平民? イザベリータが平民になった? どういうことだ。デルガード侯爵との仲は修復されたと聞いているぞ)
「彼女の父親のことも粗末にはなさらないでくださいね。爵位を返上したと言っても、彼は私の夫の親友だったのですから」
「わかっております」
ザハブ公爵は恭しく頭を下げた。
(デルガード侯爵が爵位を返上? 知らなかった! 道理で最近王宮で見ないはずだ。私には隠されていたのか?……なぜ)
アンドレスは母を見た。
母は楽し気にザハブ公爵と歓談を続けている。
会話の隙を見て、アンドレスは彼に呼びかけた。
「ザハブ公爵」
「はい、王太子殿下」
「イザベリータ……嬢、は、あなたの……妾になるのでしょうか? 平民の身では公爵夫人は難しいかと……」
「ご安心ください。妾にするつもりはありません。アルメンタ王国の侯爵令嬢であったことは、その……秘密にいたしますが、俺の正妻として大切に扱います。兄にも許可を取りました。皇帝となった兄と違って、俺は後宮を造る必要もありません。生涯彼女だけです」
「そう、ですか。それは良かった。……大切にしてあげてください。彼女は私の……いいえ、アルメンタ王国にとって大切な女性ですので」
ザハブ公爵は無言で頷いた。
皇帝の弟の正妻に隣国の王太子の元婚約者で、心を病んで神殿に入っていた侯爵令嬢が迎え入れられるはずがない。それならば、異国出身の平民としたほうがまだマシだ。
アンドレスは母が安堵の息を漏らしたのに気づいた。
(私が暴れてイザベリータの縁談を台無しにするとでも思っていたのだろうか。確かに私は今も彼女を愛している。自分が悪かったのだとわかっていても、諦めきれないで歪んだ愛を向けている。それでも……)
どんなに歪んだ、間違った愛だとしても、相手の幸せを望む気持ちはあった。
愛に正解はない。
だけど相手の幸せを望む気持ちすら失ってしまったら、それは愛ではないべつのなにかになり果ててしまう。
(母上が許し、侯爵が爵位を返上してでも成し遂げようとするのなら、この結婚はイザベリータも望んでいることに違いない)
彼女は俺の女神、そう言ったときのザハブ公爵の顔を思い出す。
幸せそうな顔だった。その琥珀色の瞳は、きっといつもイザベリータを映しているのだろう。イザベリータの紫色の瞳も、あの昼と夜の狭間に交じり合う空と海の色をした瞳も彼を映しているのだろう。
アンドレスの胸で嫉妬の炎が荒れ狂う。本当は目の前のザハブ公爵を殺してしまいたい。だがそんなことをしてもイザベリータを取り戻せないことはわかっている。
(彼女の笑顔を夢見ることくらいは許してもらえるだろうか)
アンドレスは愛を手放した。
イザベリータに見つめられていたときが一番幸せだったのだと、今さらながらに思いながら。
もう一年は確実に過ぎたのに、アンドレスには昨日のことのように思えた。
心を病んだ原因であるアンドレスに会うと病状が悪化すると言われて、彼には面会の許可すら下りていない。
(しかしデルガード侯爵は面会を許された)
それは侯爵が伝言を運んだだけだったのと、家族の愛と恋愛は違うと娘を説得したからだったのだが、アンドレスは自分に都合良く考えていた。
イザベリータは回復しているのだ、いつか自分とも会えるようになるのだと。
彼はまだ側妃を選んでいない。イザベリータの心が癒えて神殿から出てきたら、母である女王を説き伏せて彼女を妻にするつもりだった。彼のことを考えるとイザベリータが混乱するからと、手紙のやり取りさえ禁止されていることは考えないようにしている。
「王太子殿下」
「なんでしょう、ザハブ公爵」
今夜の王宮では、アルメンタ王国と内乱が収束したジャウハラ帝国との国交再開を祝う宴が開催されていた。
アンドレスは、新しい皇帝と同じ母を持ち内乱の際は兄を支えて活躍していた客人に笑顔を向ける。
黒い髪に褐色の肌、大柄で逞しい割に少しあどけない表情を見せる青年だ。兄の即位後に公爵位を与えられ、アルメンタ王国へ国交再開の打診に来る途中で嵐に遭った彼は、体が回復してから王宮を訪れ──
(そういえば、意識が戻るまではイザベリータのいる神殿で治療を受けていたのだったな)
ふとそんなことを思い出し、アンドレスは胸がざわつくのを感じた。
なにを話したかったのだろう。ザハブ公爵はアンドレスに呼びかけたものの、どう話し始めれば良いのかわからないようで、言葉を探して思い悩む顔をしている。
アンドレスも口を開けなかった。国交が再開したばかりの二国の限りなく最高位に近い場所にいるふたりだ。話すことなど山のようにあるはずなのに。
「ザハブ公爵」
「女王陛下」
「陛下」
ふたりの沈黙を破ったのは女王だった。
彼女は帝国の公爵に笑みを向ける。
「イザベリータのことを頼みますよ。平民になったとはいえ、あの子は私の親友の忘れ形見です。大切に扱ってくださるようお願いいたします」
「は、はい。もちろんです。彼女は俺の女神ですから」
「……」
アンドレスは息を飲んだ。
(平民? イザベリータが平民になった? どういうことだ。デルガード侯爵との仲は修復されたと聞いているぞ)
「彼女の父親のことも粗末にはなさらないでくださいね。爵位を返上したと言っても、彼は私の夫の親友だったのですから」
「わかっております」
ザハブ公爵は恭しく頭を下げた。
(デルガード侯爵が爵位を返上? 知らなかった! 道理で最近王宮で見ないはずだ。私には隠されていたのか?……なぜ)
アンドレスは母を見た。
母は楽し気にザハブ公爵と歓談を続けている。
会話の隙を見て、アンドレスは彼に呼びかけた。
「ザハブ公爵」
「はい、王太子殿下」
「イザベリータ……嬢、は、あなたの……妾になるのでしょうか? 平民の身では公爵夫人は難しいかと……」
「ご安心ください。妾にするつもりはありません。アルメンタ王国の侯爵令嬢であったことは、その……秘密にいたしますが、俺の正妻として大切に扱います。兄にも許可を取りました。皇帝となった兄と違って、俺は後宮を造る必要もありません。生涯彼女だけです」
「そう、ですか。それは良かった。……大切にしてあげてください。彼女は私の……いいえ、アルメンタ王国にとって大切な女性ですので」
ザハブ公爵は無言で頷いた。
皇帝の弟の正妻に隣国の王太子の元婚約者で、心を病んで神殿に入っていた侯爵令嬢が迎え入れられるはずがない。それならば、異国出身の平民としたほうがまだマシだ。
アンドレスは母が安堵の息を漏らしたのに気づいた。
(私が暴れてイザベリータの縁談を台無しにするとでも思っていたのだろうか。確かに私は今も彼女を愛している。自分が悪かったのだとわかっていても、諦めきれないで歪んだ愛を向けている。それでも……)
どんなに歪んだ、間違った愛だとしても、相手の幸せを望む気持ちはあった。
愛に正解はない。
だけど相手の幸せを望む気持ちすら失ってしまったら、それは愛ではないべつのなにかになり果ててしまう。
(母上が許し、侯爵が爵位を返上してでも成し遂げようとするのなら、この結婚はイザベリータも望んでいることに違いない)
彼女は俺の女神、そう言ったときのザハブ公爵の顔を思い出す。
幸せそうな顔だった。その琥珀色の瞳は、きっといつもイザベリータを映しているのだろう。イザベリータの紫色の瞳も、あの昼と夜の狭間に交じり合う空と海の色をした瞳も彼を映しているのだろう。
アンドレスの胸で嫉妬の炎が荒れ狂う。本当は目の前のザハブ公爵を殺してしまいたい。だがそんなことをしてもイザベリータを取り戻せないことはわかっている。
(彼女の笑顔を夢見ることくらいは許してもらえるだろうか)
アンドレスは愛を手放した。
イザベリータに見つめられていたときが一番幸せだったのだと、今さらながらに思いながら。
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