捨てられた妻は悪魔と旅立ちます。

豆狸

文字の大きさ
1 / 15

第一話 初恋の木

しおりを挟む
「……鳥の声がした。見に行ってもいい?」

 そう言って、デズモンド様はお茶会の席を離れました。
 少しだけ間を置いて、お母様とリンダ小母様に許可を取った私も後を追います。
 これでふたりは子ども達に遠慮することなく、浮気者の夫の愚痴を語り尽くせるでしょう。

 王都にあるペッカートル侯爵邸の中庭から裏庭へ、園芸道具を入れた小屋で隠された空間に小さな木があります。
 春の初めには花の蜜、春の終わりには生った小さな実で空行く鳥を呼び寄せる木です。
 デズモンド様はその木の幹に背中を預けて、ぼんやりと地面を見つめていらっしゃいました。足音に気づいたのか、午後の木漏れ日に照らされた金の髪を揺らして顔を上げます。

「ハンナ」
「デズモンド様、隣にいても良いですか?」
「うん。ハンナなら良いよ」

 私達は並んで木の幹に背中を預けました。
 まだ八歳の子どもがふたりなので、小さな木の幹でもはみ出すことはありません。
 しばらく無言でいると、私達が来たことで一度は飛び立った鳥が木の枝に戻ってきて囀り始めました。

 私達は婚約者です。
 親友同士のお母様とリンダ小母様がお決めになったのです。
 お母様はアウィス伯爵家の正妻です。私はお母様のたったひとりの子どもです。本来なら伯爵家の跡取りである嫡子の私がペッカートル侯爵家の跡取りであるデズモンド様の婚約者なのは、父が庶子である異母弟のほうに家を継がせたいと思っているからです。

 父はお母様との結婚前から愛人がいて、先代の伯爵夫妻──私の祖父母が亡くなってからは下町に囲っている彼女のところへ入り浸っています。
 デズモンド様の父親でリンダ小母様の夫である現ペッカートル侯爵にも愛人がいます。
 侯爵の場合はひとりではありません。温和な性格で優しくて、だれにでも良い顔をする侯爵には、この家のメイドであるフラウダという女を始めとする多くの愛人がいるのです。

 お母様が庶子を優先する父の考えを悟りながらも私とデズモンド様の婚約を進めたのは、侯爵の浮気に苦しむリンダ小母様を見て育ったデズモンド様なら誠実な男性になるだろうと思ってのことでした。
 どんなに本人達が真実の愛だと浮かれていても、父や侯爵の行動は国教である光の女神教が禁じている不貞の罪にほかなりません。
 よくあることと見逃されていても罪は罪で、それによって苦しむものがいるのです。私もデズモンド様もそれを知っていました。

 枝で歌う鳥を驚かせないように、小さな声でデズモンド様が呟きました。

「……鳥だって、自分の妻と子を大事にするのにね」

 私も鳥を驚かせないように無言で頷いて、でもそれだけでは足りないと思ったので、そっと手を伸ばしてデズモンド様の手に触れました。
 彼の手が私の手を握り締めます。
 お金が欲しいときだけ戻ってきて、お前と結婚したせいで不幸になったとお母様を罵る父と違い、ペッカートル侯爵は一緒にいるときはリンダ小母様を大切に扱います。だから心が囚われたままなのだと、デズモンド様を追って席を離れた私の背後で、リンダ小母様が絞り出すような声でおっしゃっていました。

 お母様はもう見切りをつけて、私とアウィス伯爵領の民のためだけに生きているのだと前に言っていました。
 あのとき私はお昼寝中だったので、たぶん独り言だったのでしょう。
 子どもの前で母親が、お前の父親を愛していない、などと言えるはずがありません。たとえどんなに酷い男でも、子どもにとってはたったひとりの父親なのですから。そして見切りをつけていても、あまりに酷い言動に愚痴は絶えないようです。

 私はデズモンド様の手を握り返しました。
 さっきから枝にいた鳥の歌声に、新しい声が混じりました。恋が成就したのかもしれません。
 八歳の私は鳥の幸せを祈り、いつかデズモンド様と結ばれる日を夢見ていました。彼ならきっと、父や侯爵のようにを裏切ったりしないと信じて──
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

初恋を奪われたなら

豆狸
恋愛
「帝国との関係を重視する父上と母上でも、さすがに三度目となっては庇うまい。死神令嬢を未来の王妃にするわけにはいかない。私は、君との婚約を破棄するッ!」

この愛は変わらない

豆狸
恋愛
私はエウジェニオ王太子殿下を愛しています。 この気持ちは永遠に変わりません。 十六歳で入学した学園の十八歳の卒業パーティで婚約を破棄されて、二年経って再構築を望まれた今も変わりません。変わらないはずです。 なろう様でも公開中です。

そして、彼女は微笑んだ。

豆狸
恋愛
だけど、ええ、だけど! もう一度彼に会えると思うだけで、私の唇は緩むのです。 心臓が早鐘を打つのです。この身を駆け巡る血潮が燃え上がるのです。

婚約を破棄したら

豆狸
恋愛
「ロセッティ伯爵令嬢アリーチェ、僕は君との婚約を破棄する」 婚約者のエルネスト様、モレッティ公爵令息に言われた途端、前世の記憶が蘇りました。 両目から涙が溢れて止まりません。 なろう様でも公開中です。

貴方の運命になれなくて

豆狸
恋愛
運命の相手を見つめ続ける王太子ヨアニスの姿に、彼の婚約者であるスクリヴァ公爵令嬢リディアは身を引くことを決めた。 ところが婚約を解消した後で、ヨアニスの運命の相手プセマが毒に倒れ── 「……君がそんなに私を愛していたとは知らなかったよ」 「え?」 「プセマは毒で死んだよ。ああ、驚いたような顔をしなくてもいい。君は知っていたんだろう? プセマに毒を飲ませたのは君なんだから!」

婚約破棄はラストダンスの前に

豆狸
恋愛
「俺と」「私と」「僕と」「余と」「「「「結婚してください!」」」」「……お断りいたします」 なろう様でも公開中です。

この嘘が暴かれませんように

豆狸
恋愛
身勝手な夫に一方的な離縁を申し付けられた伯爵令嬢は、復讐を胸にそれを受け入れた。 なろう様でも公開中です。

ついで姫の本気

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
国の間で二組の婚約が結ばれた。 一方は王太子と王女の婚約。 もう一方は王太子の親友の高位貴族と王女と仲の良い下位貴族の娘のもので……。 綺麗な話を書いていた反動でできたお話なので救いなし。 ハッピーな終わり方ではありません(多分)。 ※4/7 完結しました。 ざまぁのみの暗い話の予定でしたが、読者様に励まされ闇精神が復活。 救いのあるラストになっております。 短いです。全三話くらいの予定です。 ↑3/31 見通しが甘くてすみません。ちょっとだけのびます。 4/6 9話目 わかりにくいと思われる部分に少し文を加えました。

処理中です...