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第一話 初恋の木
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「……鳥の声がした。見に行ってもいい?」
そう言って、デズモンド様はお茶会の席を離れました。
少しだけ間を置いて、お母様とリンダ小母様に許可を取った私も後を追います。
これでふたりは子ども達に遠慮することなく、浮気者の夫の愚痴を語り尽くせるでしょう。
王都にあるペッカートル侯爵邸の中庭から裏庭へ、園芸道具を入れた小屋で隠された空間に小さな木があります。
春の初めには花の蜜、春の終わりには生った小さな実で空行く鳥を呼び寄せる木です。
デズモンド様はその木の幹に背中を預けて、ぼんやりと地面を見つめていらっしゃいました。足音に気づいたのか、午後の木漏れ日に照らされた金の髪を揺らして顔を上げます。
「ハンナ」
「デズモンド様、隣にいても良いですか?」
「うん。ハンナなら良いよ」
私達は並んで木の幹に背中を預けました。
まだ八歳の子どもがふたりなので、小さな木の幹でもはみ出すことはありません。
しばらく無言でいると、私達が来たことで一度は飛び立った鳥が木の枝に戻ってきて囀り始めました。
私達は婚約者です。
親友同士のお母様とリンダ小母様がお決めになったのです。
お母様はアウィス伯爵家の正妻です。私はお母様のたったひとりの子どもです。本来なら伯爵家の跡取りである嫡子の私がペッカートル侯爵家の跡取りであるデズモンド様の婚約者なのは、父が庶子である異母弟のほうに家を継がせたいと思っているからです。
父はお母様との結婚前から愛人がいて、先代の伯爵夫妻──私の祖父母が亡くなってからは下町に囲っている彼女のところへ入り浸っています。
デズモンド様の父親でリンダ小母様の夫である現ペッカートル侯爵にも愛人がいます。
侯爵の場合はひとりではありません。温和な性格で優しくて、だれにでも良い顔をする侯爵には、この家のメイドであるフラウダという女を始めとする多くの愛人がいるのです。
お母様が庶子を優先する父の考えを悟りながらも私とデズモンド様の婚約を進めたのは、侯爵の浮気に苦しむリンダ小母様を見て育ったデズモンド様なら誠実な男性になるだろうと思ってのことでした。
どんなに本人達が真実の愛だと浮かれていても、父や侯爵の行動は国教である光の女神教が禁じている不貞の罪にほかなりません。
よくあることと見逃されていても罪は罪で、それによって苦しむものがいるのです。私もデズモンド様もそれを知っていました。
枝で歌う鳥を驚かせないように、小さな声でデズモンド様が呟きました。
「……鳥だって、自分の妻と子を大事にするのにね」
私も鳥を驚かせないように無言で頷いて、でもそれだけでは足りないと思ったので、そっと手を伸ばしてデズモンド様の手に触れました。
彼の手が私の手を握り締めます。
お金が欲しいときだけ戻ってきて、お前と結婚したせいで不幸になったとお母様を罵る父と違い、ペッカートル侯爵は一緒にいるときはリンダ小母様を大切に扱います。だから心が囚われたままなのだと、デズモンド様を追って席を離れた私の背後で、リンダ小母様が絞り出すような声でおっしゃっていました。
お母様はもう見切りをつけて、私とアウィス伯爵領の民のためだけに生きているのだと前に言っていました。
あのとき私はお昼寝中だったので、たぶん独り言だったのでしょう。
子どもの前で母親が、お前の父親を愛していない、などと言えるはずがありません。たとえどんなに酷い男でも、子どもにとってはたったひとりの父親なのですから。そして見切りをつけていても、あまりに酷い言動に愚痴は絶えないようです。
私はデズモンド様の手を握り返しました。
さっきから枝にいた鳥の歌声に、新しい声が混じりました。恋が成就したのかもしれません。
八歳の私は鳥の幸せを祈り、いつかデズモンド様と結ばれる日を夢見ていました。彼ならきっと、父や侯爵のように妻を裏切ったりしないと信じて──
そう言って、デズモンド様はお茶会の席を離れました。
少しだけ間を置いて、お母様とリンダ小母様に許可を取った私も後を追います。
これでふたりは子ども達に遠慮することなく、浮気者の夫の愚痴を語り尽くせるでしょう。
王都にあるペッカートル侯爵邸の中庭から裏庭へ、園芸道具を入れた小屋で隠された空間に小さな木があります。
春の初めには花の蜜、春の終わりには生った小さな実で空行く鳥を呼び寄せる木です。
デズモンド様はその木の幹に背中を預けて、ぼんやりと地面を見つめていらっしゃいました。足音に気づいたのか、午後の木漏れ日に照らされた金の髪を揺らして顔を上げます。
「ハンナ」
「デズモンド様、隣にいても良いですか?」
「うん。ハンナなら良いよ」
私達は並んで木の幹に背中を預けました。
まだ八歳の子どもがふたりなので、小さな木の幹でもはみ出すことはありません。
しばらく無言でいると、私達が来たことで一度は飛び立った鳥が木の枝に戻ってきて囀り始めました。
私達は婚約者です。
親友同士のお母様とリンダ小母様がお決めになったのです。
お母様はアウィス伯爵家の正妻です。私はお母様のたったひとりの子どもです。本来なら伯爵家の跡取りである嫡子の私がペッカートル侯爵家の跡取りであるデズモンド様の婚約者なのは、父が庶子である異母弟のほうに家を継がせたいと思っているからです。
父はお母様との結婚前から愛人がいて、先代の伯爵夫妻──私の祖父母が亡くなってからは下町に囲っている彼女のところへ入り浸っています。
デズモンド様の父親でリンダ小母様の夫である現ペッカートル侯爵にも愛人がいます。
侯爵の場合はひとりではありません。温和な性格で優しくて、だれにでも良い顔をする侯爵には、この家のメイドであるフラウダという女を始めとする多くの愛人がいるのです。
お母様が庶子を優先する父の考えを悟りながらも私とデズモンド様の婚約を進めたのは、侯爵の浮気に苦しむリンダ小母様を見て育ったデズモンド様なら誠実な男性になるだろうと思ってのことでした。
どんなに本人達が真実の愛だと浮かれていても、父や侯爵の行動は国教である光の女神教が禁じている不貞の罪にほかなりません。
よくあることと見逃されていても罪は罪で、それによって苦しむものがいるのです。私もデズモンド様もそれを知っていました。
枝で歌う鳥を驚かせないように、小さな声でデズモンド様が呟きました。
「……鳥だって、自分の妻と子を大事にするのにね」
私も鳥を驚かせないように無言で頷いて、でもそれだけでは足りないと思ったので、そっと手を伸ばしてデズモンド様の手に触れました。
彼の手が私の手を握り締めます。
お金が欲しいときだけ戻ってきて、お前と結婚したせいで不幸になったとお母様を罵る父と違い、ペッカートル侯爵は一緒にいるときはリンダ小母様を大切に扱います。だから心が囚われたままなのだと、デズモンド様を追って席を離れた私の背後で、リンダ小母様が絞り出すような声でおっしゃっていました。
お母様はもう見切りをつけて、私とアウィス伯爵領の民のためだけに生きているのだと前に言っていました。
あのとき私はお昼寝中だったので、たぶん独り言だったのでしょう。
子どもの前で母親が、お前の父親を愛していない、などと言えるはずがありません。たとえどんなに酷い男でも、子どもにとってはたったひとりの父親なのですから。そして見切りをつけていても、あまりに酷い言動に愚痴は絶えないようです。
私はデズモンド様の手を握り返しました。
さっきから枝にいた鳥の歌声に、新しい声が混じりました。恋が成就したのかもしれません。
八歳の私は鳥の幸せを祈り、いつかデズモンド様と結ばれる日を夢見ていました。彼ならきっと、父や侯爵のように妻を裏切ったりしないと信じて──
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