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第五話 ボリスの回想
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婚約者のポリーナが待っているのだろう。
ヴィークは汗だくにならざるを得ない過酷な特別訓練の後に用意されている、水桶の中身を頭から被って去っていった。
きっとポリーナは文句を言いながら、それでも嬉しそうに微笑んでヴィークの頭を拭いてやるのだ。
ボリスも以前はリュドミーラに拭いてもらっていた。
子どものようで恥ずかしかったけれど、それはとても大切で温かい時間だった。
ギリオチーナはボリスの特別訓練が終わるのを待っていたりはしない。
“白薔薇”レナートと一緒にいるのだ。王女の護衛である彼は特別訓練を免除されていた。
護衛という役目柄、王女の側を離れられないからだと言われている。
それに、男爵家の庶子である彼はほかの騎士を従えて行動する予定もない。
リュドミーラならボリスが頼めば待っていてくれたかもしれないが、少し前にボリス自身が待たないでくれと伝えていた。
ギリオチーナに誤解されるようなことはされたくなかったのだ。
あのころのボリスは完全に、自分の婚約者がリュドミーラであることを忘れていた。持参金と支援金で自分を縛る鎖のように感じていたのだ。
ボリスとリュドミーラの婚約は、クズネツォフ侯爵家の未来を案じるミハイロフ侯爵家とヴィークの婚約者であるポリーナの実家マイケロフ公爵家の協力があって結ばれた。
リュドミーラが望んだ婚約ではない。
だけど……と、ボリスは彼女の微笑みを思い浮かべた。
──心の中に黄金の薔薇が咲いていても、いつか私を愛してくださるのならかまいません。
婚約の顔合わせで、ボリスはリュドミーラに自分の本心を吐露した。
吐露した上で婚約して欲しいと願ったとき、彼女はそう答えてくれた。
我ながら領民を人質にするような汚い真似だったと自覚している。
リュドミーラはどれほど傷ついたことだろう。
初めて出会った婚約者にお前以外を愛している、だが金が欲しいので結婚してくれ、と言われたのだ。
だけど彼女は微笑んで、そう答えてくれた。だからボリスは彼女の前に跪き、大切にして愛する努力をすると改めて誓ったのだった。
(なのに……)
ギリオチーナは美しい。
色の薄い金髪は光を浴びて淡く煌めき、風に揺らめく。
ほっそりした体躯は儚げで、以前の両親が王家との関係を重視していたこともあって、ボリスは幼いころから王女を守ることを第一に考えていた。婚約者候補だったこともあり、どんなに“白薔薇”レナートを寵愛していても最後に選ばれるのは自分だと信じていた。生れ落ちると同時に母を亡くした王女を哀れに思っていた。
婚約者として選ばれなかった、しかもギリオチーナ自身に拒まれたのだと知ったとき、ボリスは絶望した。
しかし絶望しながらも祖父の薫陶とヴィークとの語り合いを思い出し、クズネツォフ侯爵家のひとり息子である自分がこのまま王女への愛に殉じるわけにはいかないと奮起した。
王女が降嫁した場合にクズネツォフ侯爵家にかかる負担を計算してみて、過ぎた縁だったのだと自分に言い聞かせた。婚儀だけではない。王女は生涯生まれに即した格式を求め続けることだろう。
水桶の中身を頭から被っても、今のボリスの髪を拭いてくれる人間はいない。
肌にへばりつく濡れた金髪を指でつまみ、ボリスはリュドミーラのことを思った。
彼女の髪は黒に近い焦げ茶色だった。この国ではあまり好まれない髪色だが、どんなに人が多くても彼女を見つけられるので、ボリスは密かに気に入っていた。
(本当に婚約解消? まさか……)
まさかそんなことがあるはずがない、などと思える根拠はどこにもなかった。
この国の未来を思えば国境近くのクズネツォフ侯爵家は潰れてはいけない。
しかしエゴロフ伯爵家にクズネツォフ侯爵家の尻を拭く義理はなかった。伯爵令嬢を大切にすることもできなかった今のクズネツォフ侯爵家は、エゴロフ伯爵家にとっては不良債権でしかないのだ。それどころか、王女の婚約者が隣国の大公子息であることを考えれば──
王都の侯爵邸へ戻って真実を告げられるのが怖くて、ボリスは校内をうろつき続けた。
ヴィーク達はもうとっくに帰宅している。
ほかの生徒もまばらだった。リュドミーラの姿も見えない。
彼女はきっとヴィークやポリーナと一緒に帰宅したのだろう。
ギリオチーナがすり寄って来る前は、王女に本当はボリスのことが好きだったと言われる前までは、ボリスも三人と一緒に行動していた。
学園に近い喫茶店でお茶を飲みながら、隣り合った領地の未来について話し合った。今にして思えば、それは光り輝くような素晴らしい時間だった。
(リュドミーラが婚約解消を言い出したとしても、それが成るまでは時間がかかる。その間に彼女と会えば……)
ヴィークは汗だくにならざるを得ない過酷な特別訓練の後に用意されている、水桶の中身を頭から被って去っていった。
きっとポリーナは文句を言いながら、それでも嬉しそうに微笑んでヴィークの頭を拭いてやるのだ。
ボリスも以前はリュドミーラに拭いてもらっていた。
子どものようで恥ずかしかったけれど、それはとても大切で温かい時間だった。
ギリオチーナはボリスの特別訓練が終わるのを待っていたりはしない。
“白薔薇”レナートと一緒にいるのだ。王女の護衛である彼は特別訓練を免除されていた。
護衛という役目柄、王女の側を離れられないからだと言われている。
それに、男爵家の庶子である彼はほかの騎士を従えて行動する予定もない。
リュドミーラならボリスが頼めば待っていてくれたかもしれないが、少し前にボリス自身が待たないでくれと伝えていた。
ギリオチーナに誤解されるようなことはされたくなかったのだ。
あのころのボリスは完全に、自分の婚約者がリュドミーラであることを忘れていた。持参金と支援金で自分を縛る鎖のように感じていたのだ。
ボリスとリュドミーラの婚約は、クズネツォフ侯爵家の未来を案じるミハイロフ侯爵家とヴィークの婚約者であるポリーナの実家マイケロフ公爵家の協力があって結ばれた。
リュドミーラが望んだ婚約ではない。
だけど……と、ボリスは彼女の微笑みを思い浮かべた。
──心の中に黄金の薔薇が咲いていても、いつか私を愛してくださるのならかまいません。
婚約の顔合わせで、ボリスはリュドミーラに自分の本心を吐露した。
吐露した上で婚約して欲しいと願ったとき、彼女はそう答えてくれた。
我ながら領民を人質にするような汚い真似だったと自覚している。
リュドミーラはどれほど傷ついたことだろう。
初めて出会った婚約者にお前以外を愛している、だが金が欲しいので結婚してくれ、と言われたのだ。
だけど彼女は微笑んで、そう答えてくれた。だからボリスは彼女の前に跪き、大切にして愛する努力をすると改めて誓ったのだった。
(なのに……)
ギリオチーナは美しい。
色の薄い金髪は光を浴びて淡く煌めき、風に揺らめく。
ほっそりした体躯は儚げで、以前の両親が王家との関係を重視していたこともあって、ボリスは幼いころから王女を守ることを第一に考えていた。婚約者候補だったこともあり、どんなに“白薔薇”レナートを寵愛していても最後に選ばれるのは自分だと信じていた。生れ落ちると同時に母を亡くした王女を哀れに思っていた。
婚約者として選ばれなかった、しかもギリオチーナ自身に拒まれたのだと知ったとき、ボリスは絶望した。
しかし絶望しながらも祖父の薫陶とヴィークとの語り合いを思い出し、クズネツォフ侯爵家のひとり息子である自分がこのまま王女への愛に殉じるわけにはいかないと奮起した。
王女が降嫁した場合にクズネツォフ侯爵家にかかる負担を計算してみて、過ぎた縁だったのだと自分に言い聞かせた。婚儀だけではない。王女は生涯生まれに即した格式を求め続けることだろう。
水桶の中身を頭から被っても、今のボリスの髪を拭いてくれる人間はいない。
肌にへばりつく濡れた金髪を指でつまみ、ボリスはリュドミーラのことを思った。
彼女の髪は黒に近い焦げ茶色だった。この国ではあまり好まれない髪色だが、どんなに人が多くても彼女を見つけられるので、ボリスは密かに気に入っていた。
(本当に婚約解消? まさか……)
まさかそんなことがあるはずがない、などと思える根拠はどこにもなかった。
この国の未来を思えば国境近くのクズネツォフ侯爵家は潰れてはいけない。
しかしエゴロフ伯爵家にクズネツォフ侯爵家の尻を拭く義理はなかった。伯爵令嬢を大切にすることもできなかった今のクズネツォフ侯爵家は、エゴロフ伯爵家にとっては不良債権でしかないのだ。それどころか、王女の婚約者が隣国の大公子息であることを考えれば──
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彼女はきっとヴィークやポリーナと一緒に帰宅したのだろう。
ギリオチーナがすり寄って来る前は、王女に本当はボリスのことが好きだったと言われる前までは、ボリスも三人と一緒に行動していた。
学園に近い喫茶店でお茶を飲みながら、隣り合った領地の未来について話し合った。今にして思えば、それは光り輝くような素晴らしい時間だった。
(リュドミーラが婚約解消を言い出したとしても、それが成るまでは時間がかかる。その間に彼女と会えば……)
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