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V.I.Pにご用心
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Ⅳ
都内の一等地にそびえ立つ超高級ホテル、グランドセンチュリー・ハイアットの最上階にある貴賓室は、芳醇なアールグレイの香りに満ちていた。
雨は本降りになってきている。
由樹彦がガラス張りの窓から滲んだ夜景を見下ろしていると、秘書の京極冴子が開け放ったドアを軽くノックして入ってきた。
「駄目ですわ、つながりません」
事務的に言った彼女は、溜め息をついた。
「電源を切っていらっしゃるのかもしれませんわね。契約の際に、きちんと規約をご説明申し上げましたのに…」
「案外、あいつのことだから電波の届かない山奥のラブホテルにでもシケ込んでるんじゃないのか」
一人ソファで紅茶を啜っていた鏑木浩平が皮肉っぽい口調で茶化すように口を挟んだ。
時計は9時を回っている。由樹彦は、足元に広がる恍惚としたイルミネーションを冷ややかな眼差しで眺めていた。
浩平の車でホテルに戻ってから、かれこれ3時間近くになる。
由樹彦はもう一人の用心棒・有栖川祐介と連絡を取ろうと、何度も彼の携帯電話を呼び出し続けたが、受話器からはお決まりの音声サービスが流れてくるだけであった。
「子供じゃないんだ、放っておけ」
浩平が煙草に火をつけて、面倒臭そうに呟いた。
「…何を、考えておいでですの?」
冴子が遠慮がちに華奢な背中に声をかけた。すると、由樹彦はようやく室内のほうを振り返った。
「鏑木さん、一つお聞きしたいんですが」
「ああ? なんだ」
「あなたを襲った連中、どんな感じでした?」
「どんな…って」
浩平は煙草をくわえて顔をしかめた。由樹彦はその様子をじっと見ながら噛み砕くように言った。
「僕は見ていただけなので実際のところはよくわかりません。直接渡り合った鏑木さんのご意見を伺いたいんです」
「―――そうだな、強いて言うなら…」
言葉をためた浩平は、顎に手を当てながらこう続けた。
「物足りない、だな」
「というと?」
由樹彦の問いに浩平は肩をそびやかした。
「やつらの目的が、おれを痛めつけることにあったのかってことだ」
彼は、天井に向かってふうっと紫煙を吐き出した。
「確かに場数も踏んでるようだったし、そこそこ腕の立つ連中だったが、あの人数であの程度だとしたら拍子抜けだ。それに、あんなにあっさり引き下がったのも気に食わない。はっきり言って、試された気分だ。もっとも、おまえがおれたちを試したときは相手にもっと殺気があって、何倍もスリリングだったがな」
浩平が口を噤むと、由樹彦はすうっと目を細めた。
「同感です。あなたが標的なら、無傷で帰すのはあまりにもお粗末ですよね。襲撃を仕掛けたからには、せめて半殺しくらいにはするつもりでないと」
物騒なことを平気で口にする由樹彦の神経に、浩平は露骨にいやな顔をした。しかし、由樹彦のほうはまるでおかまいなしだった。
「でも、目的があなたを試すことにあったのだとしたら納得がいきます。それに…」
彼は、ふと爪を噛んで押し黙った。浩平はそばに立っている冴子と顔を見合わせ、訝しそうに首を傾げた。
たっぷり5秒沈黙したあと、由樹彦は口を開いた。
「…状況から考えて、あれは、あなた個人を試したというより、むしろボディーガードとしてのあなたの腕を確かめたのではないか、と」
「―――品定めされたってことか」
煙草を燻らせる浩平の声が渋く響いた。由樹彦は目顔で深く頷いた。
「ただ生憎、僕が雇ったボディーガードは一人じゃない」
それは今、ここにはいない有栖川祐介の身にも同じことが起き得ることを示唆しているようであった。
「もう一度かけてみます」
冴子がヒールを鳴らして室内の電話に歩み寄り、受話器を取った。
「……無駄だと思いますけどね」
由樹彦は、再び窓の外に目をやった。
その淡々とした言葉に呼応するかのように、持っていた受話器をゆっくりと置いた冴子が振り返って微かに首を振った。
「やはり、契約違反を承知で電源を切っているか、もしくは鏑木さんの言うとおり、電波の届かない場所にいるか、あるいは……すでに連絡を取れない状況にあるのか―――まあ、あくまで可能性の話ですが」
雫の光るガラス窓を見据えたまま、由樹彦は冷徹な口調で呟いた。
浩平は煙草を揉み消し、冷めた紅茶を飲み干すと、上着を持って立ち上がった。
「時間の無駄だな。確かめようがないなら、気にしていても始まらない」
「どちらへ?」
冴子の声に、戸口に足を向けた浩平は肩越しに振り向いた。
「…階下のバーにいる。ユースケの死体でも出たら知らせてくれ」
彼は軽く片手を挙げ、部屋を出ていった。
残された二人は顔を見合わせた。そのうち由樹彦は肩をすぼめ、感嘆を洩らした。
「大ざっぱな人だなぁ」
「ご心配ではないのでしょうか」
「さあ…? でも、一理ありますね。とりあえず明日一日待ってみましょう。意外と取り越し苦労かもしれませんし」
そんな彼に、冴子は慎重に言った。
「…何か、お二人のことで危惧される根拠がおありだったのでは?」
だが、由樹彦は相変わらずのポーカーフェイスで飄々と応えた。
「せっかく手に入れた番犬ですから、もっと役に立ってもらわないと困るんです。ただ、それだけですよ」
「……そうですか」
したたかにはぐらかされた冴子は、あきらめたように目を伏せ、静かに会釈した。
「では、私はこれで。明朝はいつもの時間でよろしかったですわね。試験もおありなのですから、今夜は早くお休みください」
「遅くまで付き合わせてしまってすみませんでした」
由樹彦はいつものようににっこりと笑った。
それは仮面のような笑顔だった。もとより彼がなんの根拠もなく、いたずらに杞憂などするはずがない。事態が急転するのは、それからわずか10時間後のことであった。
都内の一等地にそびえ立つ超高級ホテル、グランドセンチュリー・ハイアットの最上階にある貴賓室は、芳醇なアールグレイの香りに満ちていた。
雨は本降りになってきている。
由樹彦がガラス張りの窓から滲んだ夜景を見下ろしていると、秘書の京極冴子が開け放ったドアを軽くノックして入ってきた。
「駄目ですわ、つながりません」
事務的に言った彼女は、溜め息をついた。
「電源を切っていらっしゃるのかもしれませんわね。契約の際に、きちんと規約をご説明申し上げましたのに…」
「案外、あいつのことだから電波の届かない山奥のラブホテルにでもシケ込んでるんじゃないのか」
一人ソファで紅茶を啜っていた鏑木浩平が皮肉っぽい口調で茶化すように口を挟んだ。
時計は9時を回っている。由樹彦は、足元に広がる恍惚としたイルミネーションを冷ややかな眼差しで眺めていた。
浩平の車でホテルに戻ってから、かれこれ3時間近くになる。
由樹彦はもう一人の用心棒・有栖川祐介と連絡を取ろうと、何度も彼の携帯電話を呼び出し続けたが、受話器からはお決まりの音声サービスが流れてくるだけであった。
「子供じゃないんだ、放っておけ」
浩平が煙草に火をつけて、面倒臭そうに呟いた。
「…何を、考えておいでですの?」
冴子が遠慮がちに華奢な背中に声をかけた。すると、由樹彦はようやく室内のほうを振り返った。
「鏑木さん、一つお聞きしたいんですが」
「ああ? なんだ」
「あなたを襲った連中、どんな感じでした?」
「どんな…って」
浩平は煙草をくわえて顔をしかめた。由樹彦はその様子をじっと見ながら噛み砕くように言った。
「僕は見ていただけなので実際のところはよくわかりません。直接渡り合った鏑木さんのご意見を伺いたいんです」
「―――そうだな、強いて言うなら…」
言葉をためた浩平は、顎に手を当てながらこう続けた。
「物足りない、だな」
「というと?」
由樹彦の問いに浩平は肩をそびやかした。
「やつらの目的が、おれを痛めつけることにあったのかってことだ」
彼は、天井に向かってふうっと紫煙を吐き出した。
「確かに場数も踏んでるようだったし、そこそこ腕の立つ連中だったが、あの人数であの程度だとしたら拍子抜けだ。それに、あんなにあっさり引き下がったのも気に食わない。はっきり言って、試された気分だ。もっとも、おまえがおれたちを試したときは相手にもっと殺気があって、何倍もスリリングだったがな」
浩平が口を噤むと、由樹彦はすうっと目を細めた。
「同感です。あなたが標的なら、無傷で帰すのはあまりにもお粗末ですよね。襲撃を仕掛けたからには、せめて半殺しくらいにはするつもりでないと」
物騒なことを平気で口にする由樹彦の神経に、浩平は露骨にいやな顔をした。しかし、由樹彦のほうはまるでおかまいなしだった。
「でも、目的があなたを試すことにあったのだとしたら納得がいきます。それに…」
彼は、ふと爪を噛んで押し黙った。浩平はそばに立っている冴子と顔を見合わせ、訝しそうに首を傾げた。
たっぷり5秒沈黙したあと、由樹彦は口を開いた。
「…状況から考えて、あれは、あなた個人を試したというより、むしろボディーガードとしてのあなたの腕を確かめたのではないか、と」
「―――品定めされたってことか」
煙草を燻らせる浩平の声が渋く響いた。由樹彦は目顔で深く頷いた。
「ただ生憎、僕が雇ったボディーガードは一人じゃない」
それは今、ここにはいない有栖川祐介の身にも同じことが起き得ることを示唆しているようであった。
「もう一度かけてみます」
冴子がヒールを鳴らして室内の電話に歩み寄り、受話器を取った。
「……無駄だと思いますけどね」
由樹彦は、再び窓の外に目をやった。
その淡々とした言葉に呼応するかのように、持っていた受話器をゆっくりと置いた冴子が振り返って微かに首を振った。
「やはり、契約違反を承知で電源を切っているか、もしくは鏑木さんの言うとおり、電波の届かない場所にいるか、あるいは……すでに連絡を取れない状況にあるのか―――まあ、あくまで可能性の話ですが」
雫の光るガラス窓を見据えたまま、由樹彦は冷徹な口調で呟いた。
浩平は煙草を揉み消し、冷めた紅茶を飲み干すと、上着を持って立ち上がった。
「時間の無駄だな。確かめようがないなら、気にしていても始まらない」
「どちらへ?」
冴子の声に、戸口に足を向けた浩平は肩越しに振り向いた。
「…階下のバーにいる。ユースケの死体でも出たら知らせてくれ」
彼は軽く片手を挙げ、部屋を出ていった。
残された二人は顔を見合わせた。そのうち由樹彦は肩をすぼめ、感嘆を洩らした。
「大ざっぱな人だなぁ」
「ご心配ではないのでしょうか」
「さあ…? でも、一理ありますね。とりあえず明日一日待ってみましょう。意外と取り越し苦労かもしれませんし」
そんな彼に、冴子は慎重に言った。
「…何か、お二人のことで危惧される根拠がおありだったのでは?」
だが、由樹彦は相変わらずのポーカーフェイスで飄々と応えた。
「せっかく手に入れた番犬ですから、もっと役に立ってもらわないと困るんです。ただ、それだけですよ」
「……そうですか」
したたかにはぐらかされた冴子は、あきらめたように目を伏せ、静かに会釈した。
「では、私はこれで。明朝はいつもの時間でよろしかったですわね。試験もおありなのですから、今夜は早くお休みください」
「遅くまで付き合わせてしまってすみませんでした」
由樹彦はいつものようににっこりと笑った。
それは仮面のような笑顔だった。もとより彼がなんの根拠もなく、いたずらに杞憂などするはずがない。事態が急転するのは、それからわずか10時間後のことであった。
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