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第31話 敵襲 壱

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 底冷えする二月が過ぎ、春が訪れた三月一日から四日まで、大奥では『雛祭ひなまつり』が行われた。高遠たち御年寄と、御中臈たちの部屋に雛壇が飾られ、部屋の出入り口を開放し、奥女中たちが鑑賞して楽しむものだ。

 女中たちへの労いを込めて、酒と料理が振る舞われるのだが、今回はお銚子一本と饅頭でしのぐことになった。不満は出たが、雛祭がなくなったわけではないので、なんとか収まっている。
 それでも、何段にも飾られた華やかな人形は目を楽しませるようで、奥女中たちはキャッキャと、あちこちの部屋に出向いていた。

 ――今回もなんとかなったな。

 高遠は自室の雛壇を見つめながら、ホッとしていた。
 出版も再来月に迫り、鶴屋から問題なく進んでいるという文も届いた。もうひとふんばりだと、四日の朝を迎えた。
 朝の総触れを終え、出仕しようとしていた時だった。

「た、高遠さま! 大変でございます!」

 奥女中がこけつまろびつ、部屋に転がり込んできた。

「なんじゃ、どうした」
「そ、それが、御中臈おちゅうろうの……! お須磨の方さまのお部屋が、何者かに荒らされたとのことにございます!」
「なっ……なんじゃと!?」

 高遠は真っ青な女中に、食い入るように問いかけた。

「それで、お須磨の方さまはご無事なのか!」
「はい。お怪我はないそうですが、お倒れになってしまい、今は別室でお匙が様子を見ているそうで――」
「わかった。すぐに案内あないせよ」

 女中は慌てて立ち上がり、先を歩いた。

 ――この大奥で物取りだと? そんな馬鹿なことが――!

 逸る心を抑えつつ、須磨の無事を確かめるべく、急ぎ女中の後を付いていった。薙刀を手にした見張り役が部屋へ通す。

「……高遠、さま……」

 ぐったりとした様子で、布団に横になっている須磨が掠れた声で名前を呼んだ。
 真っ青な顔に弱々しい声。
 とんでもないことが起こったのだと臓腑が重くなり、身体は強ばった。

 ――しっかりしろ。まずは、お須磨の方さまを安心させねば。

「お須磨の方さま。大事ありませぬか?」
「……はい。でも……まだ胸が痛くて……」

 奥医師を見やる。

「落ち着くお薬を飲ませましたゆえ、じきに治まりましょう」

 そう言って、奥医師はチラと目配せした。
 須磨に聞かせたくないことがあるのだ。高遠は須磨の手を握り、

「大丈夫にございますぞ。この部屋は厳重に守られておりまする。ご案じめさるな」と力強く言った。

「……はい」
「なにかあれば、この高遠がすぐに駆けつけまする」

 須磨はコクリと頷いて目を閉じた。
 高遠たちは部屋を出て、少し離れた場所で周囲に人気がないのを確認してから押さえた声で会話をした。

「お須磨の方さまは、本当に大事ないのだな?」
「はい。しかし、当分は自室以外の静かな場所でご静養が必要でしょう。――なにせお命を狙うという脅迫文が残されていたのですから。賊が捕まるまで不安は消えぬでしょう」

「脅迫文じゃと……!?」
「はい。『今後、絵を描くならば身の安全は保証しない』。そう書いた紙が荒らされた部屋に残されていたそうです」
「その脅迫文は」
「今は塩沢さまのもとに預けられております」

 ――なんということだ……! では、賊は、お須磨の方さまが絵師と知って狼藉を働いたのか――……?

「……わかった。お須磨の方さまをくれぐれも頼む」

 高遠はそう言い残して、荒らされたという部屋を確認するため、須磨の部屋に向かった。
 なかは酷いありさまだった。
 描いていた絵はことごとく破られ、その上に、折られた絵筆が転がり、絵の具と墨がぶちまけられ畳に不気味な模様を描いていた。確実に須磨を狙ったものだと確信できるものだった。
 しかし、高遠が許しがたいと思ったのは作品を破くという行為だ。
 須磨の積み上げてきた絵描きとしての時間が、技術がどこの誰ともわからぬ輩に踏みにじられたのだ。まだ金を盗まるれ方がマシだ。須磨の絵はそんなはした金で済ませられるものではない。
 もし、絵師として生きることができたならその腕一本で裕福な暮らしができる金子を得たはずの証がすべて無にされた。ひっくり返された文机を見て、黙々と机に向かう須磨の後ろ姿が思い起こされた。

 ――許せぬ。

 感情的になってはならないと言い聞かせるが、御しがたい怒りは体中を巡り、知らず体が小刻みに震えた。ギリと奥歯が音を立てる。深く息を吐いて呼吸を整える。己の動揺を下の者に見せてはならない。

 ――落ち着け。おちつくのだ。今はお須磨の方さまのこれからを考えるのだ。これが嫌がらせか警告の類いならばまだいい。本当にお命を狙う可能性も捨てきれぬ。なんとしてでも守りとおさねばならない。

 そして、どこから須磨が絵師であると露見したのかも調べる必要がある。知っているのは高遠と塩沢だけのはずだ。右筆ゆうひつの藤巻にも出版契約の代表者が高遠であるとしか伝えていないのだ。須磨が絵師であると知り、狼藉を働いたのであれば賊は大奥内にいる可能性が高い――ということだ。

 部屋の惨状を見た高遠は腹の内で巻き上がる怒りと、賊の見えない思惑に背中に冷たいものを感じながら、急いで大奥総取締役、塩沢のもとへ向かった。
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