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静謐なる君へー君よ、覚えているだろうかー

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 まだ寒さを残す四月三日、時計は午前八時四十三分をしめしている。
 平日の通勤ラッシュを終えた電車内にはスペースがあった。私はほっとして椅子に腰をおろした。九段下で下車し、半蔵門線に乗り換えて神保町駅を出た。
 できることなら内苑開門時間の六時に着きたかったが、それは欲深いというものだ。教えられたとおり緩やかな登り坂を歩いた。
 大鳥居前で一礼し、敷き詰められた化粧石のうえを確かめるように歩きながら拝殿へ向かう。桜たちは蕾のふくらみを増し、枝先は幼子の指先のように柔らかく開かれるのを待っている。神門を抜け、中門鳥居の前で一旦立ち止まり、目に映る景色を記憶した。これだけは生涯忘れてはならない景色だ。
 幸い天候はよく、青空のもと、おごそかに建つ拝殿は美しかった。団体客や個人が後ろからきて、拝殿へ向かい手を合わせていく。胸中に偲ぶ思いはなんだろうか。私はそんなことを考えながら、目に映る景色を眺め続けていた。きては去る人々のなか、視線は自然と彼へと注がれていった。
 その男はずいぶんと小柄だった。
 後ろ姿だけなら中学生にも見える体躯だ。目に留まったのは、本殿から吊られている黒で染められた菊の紋の前に、長く、長く佇んでいたからだ。
 私は杖をつきながら、ゆっくりでなければ歩けない。体感速度が人より遅いのだ。
 だから彼の淡き光のような瞬きが――静謐であり、同時に何かを捨て去らねばならぬ哀しみを纏った佇まいが目に入ったのかもしれなかった。

 私のような身体障害者と呼ばれる枠の中で生きていると人との旅行が苦痛になる。相手に負担を強いることを申し訳なく感じるからだ。
 電車に乗り遅れそうになっても走ることはできない。徒歩五分が十五分の時間になる。寄りたい場所を減らさせてしまう。それをわかってくれているのだと理解している。しかし頭でわかっていることと感情は正比例しない。人はそこまで器用にはなれず、決めたことのみ一途に貫けるほど頑丈に造られていない。
 形を変え続ける雲のように、気まぐれに吹く風のように常に揺れ動いている。
 笑う日もあれば自身の存在を疎ましく思う日もある。どれほど時間をかけて説得しようと何かしらの場面で打ちのめされる。そして立て直す。延々と繰り返されるゲーム。
 一体、何度自分を諦めようとしただろう。
 それが新幹線に乗り、こうして靖国神社に立っている。不思議な縁の繋がりで叶った現実だった。私はやっと歩き出し、彼と少し距離を空けて二礼二拍一礼し手を合わせた。再び目を開けたとき、まだ彼は佇んでいた。その横顔を見て彼が成人しているであろうことはわかった。そして自身の思い違いを知った。

 ――彼は佇んでいるのではない。ここから去り、帰る場所を持たないのだ。

 彼を包む淡き光は彼の命の瞬きであり、そして消えゆこうとしているものだった。
 なんという静かな哀しみだろうか。
 その姿は、ご祭神の遺書のようだった。大切に思う者へ綴られた行間に散らばる心を、その横顔に垣間見た思いがした。彼の歩んできた道を計り知ることなどできない。私の傲慢な思い込みかもしれないのだ。

「ねえ、君。したくないことさ。もうしなくていいよ」

 勝手に言葉が出ていた。
 彼は自分に話しかけられたことを飲み込めないといった顔で、私と周辺を交互に見た。

「おばさんが、君に話しかけてる」

 彼が気味悪気に去ればいいと思った。だがそれは裏切られた。
 自分の勘のよさに舌打ちしたい気持ちだ。いや、彼をここまで追い込んだすべてに舌打ちすべきだ。

「――ありすぎて、どれかわかんねぇ……」

 身に覚えのある言葉。
 彼は本当にわからないのだ。生きるための優先順位を見つけられないでいる。

「眠れなきゃ寝なくていい。食べたくなきゃ食べなくていい。風呂も入っても入らなくてもいいし、起きたくなきゃトイレ以外は起きなきゃいい。そこから始めればいいんじゃね?」

「それってクズじゃん」

「いっぺんクズらねーと、まともの有難さもわからん」

 彼はしげしげと私を見つめた。
 人間を見るというより、人間かどうかを確認するような目だった。

「見た目で人は判断できねえんだな」

「まーね」

 そう言って地面についた杖を持ち上げ、左右に振って見せる。

「詐欺かよ?」

「あー出た出た。完璧な不自由さがないと簡単に言ってくれんだよなぁ。こんでも身体障碍者三級。半分感覚はないし麻痺ってる。左こっから下は湯があったかいか、冷たいかもわからん」

 左脇から下を指し、続けて言う。

「右は人の三分の一しか筋力ないし、指は痙攣起こすし、嫌でも人生変更を迫られて生きてる。この杖もあった方がマシだから使ってるだけ」

 彼は黙った。この会話を続けるかどうか迷っているふうだった。
 そして誘惑に負けたのだろう。こう言った。

「……俺から見ればよ。一応、おばさんなりに身だしなみはきちんとしてるし、細くはねえが、デブってほどでもねえ。黙ってりゃいいのにって思うぞ」

「そうした方が、まだ目立たずに済むからしてんだけ。家じゃ、イモジャーしか着てねーし、ついでにパンツもはいてねー」

「そこは穿けよ!」

「便意に身体がついてこねーからトイレ間に合わなくて、クソでパンツが汚れんのつれーんだよ。イモジャーならすぐ脱げるからギリ間に合う。洗っても茶色が落ちないパンツ見るのきっついんだぞ」

「……確かにキツイ」

「生理のときは穿くけどな」

「生々しすぎる……」

「いい加減、あがってくんねーかなぁと思うけど、おかんなんて六十歳まであったっつーんだから、先は見えねえな」

「下半身はそこで止めてくれ」

「今日はスリムなオムツ穿いてるから忘れていい」

「助かる」

 そういった彼に、かすかな表情が浮かんだ。

「それにさ、さすがにここへはきちんとした格好でくるわ。――きたかったんだよ。もうこれないと思ってたから」

「……身体がそうなるまえにこれなかった?」

「これなかったなぁ」

「何で」

「まず興味がなかったが第一。結婚した相手がモラハラDV男で気力死んでたのが第二。別居中はパートで金稼いでたから時間も金もなかったが第三。離婚後ストーカーされて警察と弁護士の間で奔走、再度引っ越しで疲弊が第四。そんで」

「まだあるのか?」

「序章だわ。人の不幸に底はねーぞ。君ならわかんじゃね?」

 彼はしばらく黙り込んだが、あぁクッソと呟いて、「全部聞くよ。けど、あんた言葉使い酷くね?」と言った。

「素なんてこんなもんだわ。演技しろっつーならやるけど、君、『演じてる人の言葉』聞きたいの?」

「――反吐がでる」

「やろ?」

「どいつもこいつも口だけ。努力して偉いねとか言っても、何かあれば『やっぱり、あそこは家が』って手のひら返すのがテンプレ」

「なー。思いやれる自分に酔ってるだけなのにな。けど実際そんなモン。建前だけはそりゃあまぁ綺麗に建てる。おばさんも過去の話がどっかから流れてきて勝手に判断されるよ」

「腹立たねえ?」

「飽きた。飽き飽きしたから相手の勝手にさせとく。だってさ、いちいちうるっせぇ、そうじゃねーよっつーのもメンドクサイやん? マナー守ってんのに煙草吸うだけでぎょっとされんだぜ? 吸うっつーの」

「それはまぁ……止めたほうがいいんじゃねえの?」

「誰のためによ? 健康の~とかテンプレ言うなら軽蔑すんぞ」

 彼の目が見開かれる。
 私は拝殿から離れ、国旗がはためく場へ移動した。
 彼は私の歩調に合わせ、「バック、持ってやる」と小型のキャリーケースを手に取った。
 そして、ふたりで日の丸を見上げた。込み上げてくる感情を脇に置き、思考をクリアにする。

「……君はさ。本当に頑張ったんだと思う。多分、機能してない家庭で、でもグレない方を選んで勉強して、将来を考えて借金背負ってでも奨学金で大学に行ったのかなって。そんでもさ。いざ就職ってなったら推薦なんて出ないし、エントリーしたって履歴書だけで落とされる。面接までいっても綺麗ごとだけ聞かされて、今回はご縁がなかったって紙切れ一枚で終わり。両親が揃ってて不自由さも感じないまま生きてきたアホの就職が決まる。君のせいじゃないことばっかりなのにね」

「さすが伊達じゃねー」

「だろ? 借金は?」

「自己破産でチャラ。あとは生活保護とじーさんの年金で。あ、俺のが三百万ちょいある」

「新車の軽一台か。人生終わらすにはもったいなさすぎ。せめてロータス、ポルシェ、マセラティ。国産でも旧車辺りまでいかんと。トヨタ2000GTとかな」

「バブルワードを生聞きした。つか、まさか乘ってた?」

「ロータス・エラン、アルファロメオ・スパイダー、アメリカンジープ。純正パーツとかないヤツ」

「おばさん、ミッション運転できんの?」

「オートマ乗ってた時期のが短かった。あれ便利だよなあ。プリウスん乗ったときはびっくりしたわ。ボタンでエンジンかかるわ、音しないわで、逆に怖かった。なんで100ボルトで充電できてエンジンかかんだよって、防水コン差し込みながら不思議やったわ」

「ボースイコン……」

「おばさん、電気工事士やったからな。二種免許は従業員優先で取れんかったけど、住宅配線なら全対応。コーポのコンセント三連に変えたわ。ブレーカー落ちる確率は変わらんけど火事になる可能性は減る。オール電化になった辺りで引退したからほとんど忘れてるな。いまはジョイントしてあるVAを番号の場所に引くだけ? でも最後の仕事はマイホームやった。自分で配線して、スイッチも組んでコンセントも付けた。照明器具も。住宅メーカーの手配からデザイナーも職人さんも仲間価格で呼べたから上物はかなり安くできた。あ、土地を見つけたのもおばさんな」

「旦那は何してたんだよ……。出る幕ねえんだけど」

「大企業で働いてアホみたいに稼いでた。あと、おばさんのメシを食って寝てた。性欲はすごかった」

「最後、果てしなくいらない情報」

「そ? ちなみに、おばさん大型バイクの免許も持ってんぞ」

「聞いてやる。なに乗ってた」

「ドカティ・モンスター。ハーレー・883R。国産だと隼。小型はもう忘れたけど、二台廃車にした」

「もう、大抵のことで驚かねえ自信湧いてきた」

「まったくだ。普通の奥さんと話が合わねーはずだよなぁ。ソファーに寝っころがって昼ドラやワイドショー見て、ギャイギャイ言いながら尻かいて、屁こいて、あー旦那のメシ作るのメンドクサイとか、子供がさぁとか言いたかったな」

 すぎた時間に思いを馳せる。
 失くしてしまった時間。あったかもしれない可能性。もう取り戻せないものばかりだ。

「子供は……?」

 固い声音が問う。

「いない。――喉から手が出るほど欲しかったけど、旦那が『俺の人生に子供は必要ない』って言わりゃ作れねーじゃん。避妊リング入れてて中出ししてもダメだった。生でするために入れろってだけなんだけど。でも……」

 この言葉を避けることはしてはならない。彼に声をかけた瞬間、決まっていたことだ。

「最初の子を堕ろさなきゃ……君と同じ年頃だったかもしれない」

「なんで……堕した……」

「――おばさん二十三でね。旦那十九になったばかりだった。産めると思うほど楽観できなかった。安易にもほどがあるよな。それやっといてさ。欲しいって言ったときダメって言われりゃさ。二度目は口にできないでしょ。そんな資格どこ探したってない。――あったら駄目だと思った」

「俺のお袋も、そう、思ってくれれば……」

「ごめんね」

「おばさんは、お袋じゃねえし……」

「うん。でも、おばさんが悪い。ごめんなさい」

「ッ……ごめんで済むなら、警察はいらねえんだよ!」

 腹から叫ぶ怒声に周囲が振り返る。私はその顔に向かって苦笑した。
 それで終わることを知っている程度には大人だった。そして彼に向き合い言った。

「うん。そうだ。君の言うとおりだ」

 みるみるうちに、彼の顔は幼くなっていく。
 ぐしゃりと歪み、目にはいまにも零れ落ちそうな真珠が溢れる。

「男作って出てくくらいなら……産むな! 俺の顔を見たときなんだよ……! 汚物みてーなもの見る目で。奥から、おかーさんつって、ちっせえ子が出てくんだぜ? 俺、誰の胎から産まれたんだよ。信じらんねえ!」

「ごめんね」

「親父もどっか行ったきり帰ってこねえし! 呆けたじいさんしか残ってねーし! それも、もう死んだし!」

「葬儀やお墓――どうした?」

「一応成人してるから手続きはした……。名前書いて判子押して、あとは役所の人が集団墓地に埋葬してくれた。ほんと勝手ばっかやらかして、正気にもどっても……」

 呼吸が震えて風の音がする。

「何が……死んだら俺の魂はここにあるだ! まず骨どうすんだよって話だろ! 俺のことはどうでもいいのかよ! ふざけんな!」

 彼は叫ぶ。魂を震わせて叫ぶ。
 大粒の涙が光を反射し輝きながら落ちていく。だがここならば構わない。きっと拾い上げてくれるだろう。私などではなく、もっと相応しい人たちが受け止めてくれるはずだ。
 私は、彼の手をにぎった。半減した握力の、それでも力の限りにぎった。

「いつか……君の手をにぎってくれる人は現れる。おばさんなんかの手じゃなくて、真心と愛を込めてにぎってくれる人が現れる。おばさんの残りの人生賭けたっていい。全部おばさんが持っていくから。もう辛いことは起こらないから大丈夫」

 彼は幼子にもどり泣き続けた。
 そのあいだ私は空を見上げていた。青い空にはためく白地に赤の丸がじわりと滲んだ。
 けれど、それ以上は進ませないようにした。私は私を労わり、もう泣き終えたのだ。終わりの涙を流したのだ。
 だが彼は違う。『始まり』なのだ。彼の始まりに、私の涙など相応しくない。
 嗚咽は水底から浮かんでいく泡のように、ポコリポコリと聞こえた。

 どれほど時間が経過したのか。

「俺さ……。引きこもってたんだ」とぽつりと彼が言った。

「おばさんに言ったクズ、やってたんだ。就活がうまくいかなくて焦ってて……。そんなとき、じいちゃんが死んで糸が切れたみたいに何もしたくなくなった。去年の十月から家に閉じこもってて……大学は卒業したけど無職のまま。これからどうしていいのかわからない……」

 遠くへ語りかけるような声が続く。

「四十九日とか、仕事探さなきゃとか思うんだけどなんか動けない。向こう側とこっち側に壁でもあるんじゃねえかな? って思うくらい遠くて手が届かないんだ。友達と思ってたヤツらも離れてったし、俺、なんもねえなって」

 その言葉に確信した。やはり彼は消えゆこうとしていたのだ。小さな身体に苦しみだけを抱え、捨て去ろうとしている。

「ねえ。人って、どうやって死ぬと思う?」

 そう言った私の顔を彼は覗き見た。その目に綺麗ごとを言う気はなかった。

「死のうと思って死ねる人は一割程度で、残り九割は衝動的に死ぬんだよ。君さ、気づいてないかもしれないけど、死ぬことにさして恐怖もないでしょ」

 国旗を吊るす紐が風になびいてポールにあたり弾ける。

「――楽になりたい……って思っちゃダメかよ」

「思うのは勝手だよ。けど、それしたら本当に楽になれると思う? いままで君を支えてきた君自信をないがしろにしてさ」

「ッ……やったさ! やってきたよ! でもダメだった!」

「ろくに君を知らない輩が紙切れ一枚で判断したことで? それが君の全部? 違うでしょ。おばさんはわかる。ぜんぶじゃないけどわかる」

「何がわかんだよ!」

「掃除洗濯して、ご飯を作った。お金も考えて使ってた。お母さんやお父さんがしてくれることを諦めて甘えることを止めた。人の噂にも負けないで自分を律してきた。就職して、お金を稼いで、いまを抜け出ようと努力をした。そうやって目の前のことを必死でやってきた。それくらいわかる」

 にぎった手の温度が伝わるだろうか。痩せた華奢な手が強くにぎり返してくる。

「けど――、俺、何もない……。みんな社会人になってんのに。もう世話する家族もないし、彼女も……。人が怖いよ。こいつも口だけかって……もう思いたくない」

 彼の手は小さく震え続ける。肯定されない現実に怯えている。

「君はさ。成績に見合う会社を意識して選んでなかった?」

「――それして悪いかよ」

「悪くないけど利口じゃない。名門大学出身でも一流企業に就職できない人たくさんいるよ。それに君の希望した会社って海外留学とか、国際ボランティアとかしておいた方が有利じゃなかった? そういう企業はご両親の教育方針とお金が大きく影響する。あのさ、もっかい聞くね。君が選んだ会社は君の可能性を夢見させてくれるトコだった?」

 沈黙が降りる。嵐の中、錨をあげ、出港するかを迷うような沈黙だった。

「見返すには、それがいいと思った……」

「馬鹿だねぇ」

 にぎった手を緩やかに上下させ、笑って言う。

「経験値積んで転職する方がよっぽど早いよ。求められた実績出してるんだもん。一番有利に働くことだよ? で、この経験を御社でいかしたいと思いますって。アプローチってそういうことなんだ。そのとき君の苦労は武器になる。二度とあの生活にはもどらないっていう決意は誰もが持てる意思じゃないから」

「……やりたいことと、関係のないトコでも?」

「結果を出すことが途方もないことだって君はもう知ってるじゃない。人より必死になれる要素を持ってるんだ。無関係な会社でも学べるはずだよ。卑怯な人や要領がいい人がいるし、尊敬できる人がいるかもしれない。そこで社会人として経験を積んで、人前にでても恥じない振る舞いを身につける。そのあいだに転職希望する会社の資格を取得すれば、盤面は君色にひっくり返る」

「例えば?」

 まだ納得できないといった声が問う。

「手っ取り早く働くとして、飲食系のアルバイトなら人を回すことを覚える。で、お金の動き、経理を把握する。SNSで問題視されてる原価と売値を把握するようなことかな。会社は利益を求めるから店に価値を与える人を見極めて放さないように動く。そうなれば君のアイデアを聞いてくれる耳を持つよ。二年必死こけば店の中枢までいくし、そのあいだに実力もツテもできてる。ブラックなら逃げりゃいいしね。積み上げた時間と実績があれば選択肢は広がってる。過去より実力を評価されるんだから」

「そんな上手くいくと思えね……」

「でもでもだってちゃんか、君は。人も価値も変わっていく。止められるものじゃないって経験してきたじゃない。もう君を縛るものはないよ。自由があるだけ。その使い方がわからないだけのことだよ」

 届くだろうか。私の言葉は。そう思いながら伝えられるすべてを紡ぐ。

「ホントに遅くない……?」

「あたりまえだよ。稼ぐ気のある二十二歳が軽一台の借金なんて返せるに決まってる。コツは途方もない未来じゃなくて、二年先を考えればいい。いまよりきっと綺麗だよ。君の努力が見せてくれる景色なんだから」

「……お袋は男作って家出。親父は行方知れずで、生活保護受けてても?」

「履歴書にそんな記載は必要ないよ。本当のこと言わないのと嘘つくのは別物。稼いだお金は申告して控除してもらって、バイトで生活が回るようになったとき、改めて相談して生活保護を抜ければいい。様子見で二、三カ月は保留してくれるはず。急ぐ必要ないよ。落ち着いてやればいい」

「うん……」

 小さな深呼吸が繰り返される。

「四十九日とか、もういいんだよ。君がここへきたってだけで、おじいさんは満足だと思うよ」

 空はあっけらかんと青かった。いつだって自然は人の感情など無関係のまま役割を果たす。それを恨み続ける人はいない。ただ人の心に思うことを残していくだけだ。

「な、おばさんのさ、元旦那はどうなった……?」

 鼻をすすり、幾分掠れた声が聞く。私は手を離して答えた。

「ストーカーされて引っ越したまでは言ったね」

 こくりと頷く。

「警察から三度目の警告受けてから、こなくなって、それから首吊って死んだ。離婚して半年目だったな。年金満額支給の一日前に離婚してくれたの。年金機構に行って書類確認したときニヤリって笑ったくらい確信犯で頭よかったのにね。ああ、だからこの日を選んだのかって驚いたくらい。なのに金も新しい女も、ぜーんぶ捨てて死んじゃった」

「わかる気がする」

「そう?」

「男って弱いから。おばさんみたいに強くねえもん。新しい女つったって、予想と違って従順じゃなかったんだろ。喧嘩して負かされた気がする。で、初めてあれ? ってなったみたいな」

「そうだねぇ……」

 今度は私が苦笑する。

「金はもらえた?」

「籍外した他人に一円も入るわけないじゃん。生命保険の受取人も義母さんに変えたって言ってたし」

「違うって。慰謝料」

「逃げるが先でもらってないよ。ご丁寧に『手切れ金』って書いた封筒に五十万入れて投げつけられただけ。プライド高かったから、慰謝料っていうのを意地でも払いたくなかったんやろうね。『離婚届に署名、捺印してポストに入れとけ。そしたらもう五十万やる』ってメールが何十通もきた」

「やった?」

「やらないだろ? 普通。ぜんぶ弁護士通せで押し切ったよ。証拠があったからね。初めて喧嘩買ったな。それにさ、義母さんの方が痛手でしょう? 子供に死なれる方がキツイことじゃない。向こうは元夫が何してたかなんて知らないし」

「離婚理由が暴力って言ってねえの?」

「向こう側には言ってないよ。言って得する人いないやん? じゃあ黙ってる方がいいじゃない。恨む相手がいた方が救われるかもしれないし。あ、でも義兄のお嫁さんには一回コンタクトしたか」

「何で?」

「元旦那、無精でさ。クレジットカード登録をおばさんがしてたの。自動引き落としってあるやん? プレミアム会員とかさ。死んだら口座凍結されるから、引き落としができんくて代表者メールがおばさんだったから、死んでから金の請求がきてさ。パスワードまでは教えてくれなかったから、こっちで解除できんくて」

「それって、おばさん関係なくね?」

「うん、ないね。消費者センターの人もそう言ったよ。ああいう会社は意地でも金を回収するから、ほっとけば法定相続人のお義母さんにいくって。けどさ、息子が自殺したあとに金の請求くるのってキツイやん。だからお嫁さんに『こういう理由で請求が行きますよ。パスワードもわからないので解除できない。そちらで対応してください』って。どうするかは向こうに任せた」

「――おばさんのがヤバくね?」

「正直ヤバかった。けど、なんとかなったかな。正直に打ち明けても受け入れてくれる人がいたからね。こんな身体になっても変わらないでいてくれたし、その善意を信じたいと思ったのかもしれない」

「半身麻痺とか筋力ないとか、どんな感じか聞いていい?」

「麻痺してる左半身は常に痺れてて冷たいから、冬場は炬燵に入ってストーブ点けてても寒い。お風呂なんて54℃設定でようやく温かいと思える。反対に水風呂でも寒さの限界がわからないから一回温泉スパで心臓麻痺起こしかけて、それ以降は時間を見てるかタイマーセットして入ってる」

「普通に見えるぶん苦労してるだろ」

 彼は想像できる人なのだ。

「強制的に人生変更をされたわけだから、気持ちが追いつかない時期があったけど、補えることも覚えたし、介護ヘルパーさんとも信頼関係築けてるから受け入れられたよ」

 黒々とした目が私を見つめ、「おばさんが俺に話しかけた理由、わかった気がする」と言った。

「そう?」

 私は微笑む。

「おばさんもさ、もう諦めていいかなぁ? って思ったことあるからだろ」

 感情の濁流に飲み込まれまいと足掻いた二年。力尽きたと夜の公園で包丁を首にあてた日。

「――うん。そう思ったよ」

 私と彼の間に同じ時間が流れた。

「あのさ。離婚できた証拠は何かってのも聞いていい?」

「いいよ。殴られるたび医者行ってたからカルテがずっと残ってたの。それで診断書もらってたのと、会話録音してた」

「マジでやる人いるんだな……」

 彼は呆れ顔だ。

「地位も名誉も金も、なんもかんも向こうが上なんだよ。証拠なしなら元夫が言葉巧みに調停員を丸め込むの目に見えてたからね。でも録音はうまくいかなかったよ。レコーダーが届いたの過去最高の暴力のあとだったから、静かっちゃ静かだった。多少の嫌味と怒鳴り声だけ」

「最高ってどんな」

「二階の階段から突き落とされた。あのとき逃げなきゃ死ぬって覚醒したな」

「それ暴力の域、超えてる。生きててよかったな」

「君もね」

 微かに彼が笑う。

「家族は?」

「お母さんと弟は生きてる。三人バラバラに生活してるけど。お父さんは死んだ。首吊ってね。会社を倒産させてから情緒不安定でさ。何度か行方不明になったけど帰ってきたから、もしかしてって思ったけど、遺書置いてって三日経っても帰ってこなかったとき、ああ、死んだんだろうなって覚悟はした」

「それもまた酷え話だな」

「電車に飛び込まないだけ有難かったけどさ」

「そういう話じゃないだろ」

「……だねぇ。おばさんはさ。ふたりとも止められなかったんだよ。我慢してきたはずなんだけど、頑張ったはずなんだけど、止められなかった」

「無理だろ。そんなん」

「どうして?」

「ずっと自分勝手してきた我儘もんが人の言葉聞くわけねえじゃん。最後まで我儘やって迷惑だけ残す。そういうもんだ」

 彼自身が、そうであってくれと思いたいのかもしれない。
 元夫や父の胸中はいかばかりだっただろう。四年近くすぎたがわからないままだ。最後まで本心を語ることはなかった。永遠にわからないことだ。しかし事実など彼が言うようなものであるかもしれない。

「――そうかぁ。だから、お父さんの顔はあんなにほっとしてたのか」

「葬儀。顔、出せたの?」

「うん。警察も驚いてた。首つり自殺でこんな綺麗な死に顔はないって。だから心臓発作ってことで棺の顔出しもできたよ」

「怒れないな。それ」

「まったくもって。死ぬことでしかほっとできなかったんだなってわかったから、怒れなかったよ。代わりに泣いてもやれなかったけどね」

「俺も泣いてやれない」

「けど、むかっ腹は立ってた。お父さんには、自分捨てる前にプライド捨てろよ。元夫には、人のことズッタズタにしたんだから全部もどせよ! 私の持ってた普通を返せってさ」

 口を開け、前歯二本をおろして見せる。入歯なのだ。大きな目がさらに広がる。

「なぁ。……PTSDってヤツ、ない?」

「あるよ。ありゃびっくりした。一生治らないものだってカウンセラーの先生に聞かされてたけど、嘘じゃなかった。処置室で安定剤打たれて、これかーって思ったのは覚えてる」

「何きっかけ?」

「男の怒鳴り声。そのとき配送業務やってて、指定時間に間に合わなくてさ、作業してる人に、先方にはこちらから連絡しますので大体の時間を教えてくださいって言ったら無視するの。腹が立って、責任とれませんよって言ったら、うるせぇな! 知るか! ババァ! って。それがきっかけ。元々記憶がブツ切れになってるから思い出せないこと多くて」

「思い出すな」

 固い声音が言う。

「思い出しちゃいけないことだ、それ。俺も結構途切れてる時間あるけど、忘れてるからなんとかなってんだって思うし」

「そっか。君が言うなら忘れたままでいるよ」

 しばらく間があく。人々が歩く足音が聞こえている。彼が口を開いた。

「俺、決めてることと、無理なモンがある」

「なに?」

「まず、女はぜってー殴らねえ」

「いいね」

「無理なのは人にあたってキーキーいう女の声。私ってこんなに可哀想なのアピールする女いるじゃん。お袋がその典型だったんだけど。嫌われることしてるって気づかないもんかな」

「知らないフリしてるかもね。その方が楽だもん。誰かが悪いとか、誰かが助けてくれるって思ってた方がメンタル的に優しい」

「それ通用するのって、若いうちだけじゃん?」

「それがそうでもないらしい。おばさん、もうすぐ五十路なんだけど、七十、八十のじいさんにモテるってわかった。勝手に『可哀想な女。俺が守ってやらなきゃ』って頭がお花畑になってる」

「――男ってバカなんだな……」

「寄ってくるのが意味不明で男友達に聞いたのよ。こういう言動をする男性心理を教えてって」

「したら?」

「『こんな身体でツライだろうにっていう庇護欲を煽るし、後家っていう人の男のものだったプライスレスに、四十代で男日照りしているだろうし、俺もまだイケるから、ノってくれれば、お互いウィンウィンだろうと思ってる』だって」

「なんか……。ごめんな?」

「君じゃないし」

 私は笑った。

「ただ、『嫁は細いから、おまえはそのままでいい』って言われたときは殴ったろうかと思ったね。悪かったな、細くなくて。二重で失礼だわ」

「ブハッ! ひっで!」

 彼は身体を二つ折りにしてずいぶんと笑った。

「君、気持ちよく笑うね。心が死んでない証拠だよ。いまはさ、上空に嵐が吹いてて去るまでやりすごす時間だよ。流されないよう必死でしがみついてたら、ちゃんと帰る場所わかるから孤独を間違えないようにだけしときなよ。そしたら大丈夫だから」

「俺、わかるからちゃんと言えって」

 そう言って胸のすくような顔で破顔一笑した。
 ああ、本当の彼はこういう顔をしているのだ。

「ちょっと説教っぽくなる持論でいい?」

「オッケー」

「孤独ってね。ひとりになるって意味じゃないと思うんだよ。心が死ぬことを指すんだよ。健常者であっても孤独感や環境の変化に堪えられなくて、自死を選ぶ時代だから、心が貧しくて、寒くて、抱えきれずに死んじゃうと思うんだ。人は簡単に人をくくるでしょ? 区別、カテゴリ別けと言ってもいいかな。普通である、普通でない。美人だ、ブスだ。金持ち、底辺。差別や偏見は意識しなくとも自然にやってるんだよ。ただね、それ恨んでもどーしようもないの。痛みと同じだね。痛いっていう感覚は個人的な問題で、他人は推し量るしかないじゃない。同じ痛みを感じているわけじゃないから、どんなに言葉を並べ尽したってわからないんだよ。自分がそうなってから初めて理解するの。普通に生きてれば風呂の湯の冷たい、熱いがわからないなんて、その方がよっぽどわからないことじゃない。小銭を取り出す動きが困難だとか、不揃いの汚い字を悲しく思ったりさ。人はただわからない。それだけなんだよ。それを責めるほど子供じゃないと思いたいだけかもしれないけど。ご清聴ありがとう」

 私は軽く頭をさげた。

「――いや、うん。なんかすっきりした。ありがとうな」

「どういたしまして」

「最後にひとつ聞いていい?」

「なんでもどうぞ」

「おばさんが頑張ったことってなんだ?」

「BL。ボーイズラブと呼ばれるものでして」

「腐女子か!」

 流石、昨今の事情に長けている。

「女子ってのは無理があるけど、まあ、そう」

「絵? 字?」

「どっちもやるけど、商業意識して応募してるのは小説だね」

「どっちかにしないの?」

「これだけって決めちゃうと自滅する気がするんだ。どっちかがダメなときは、できる方をやって気を逸らす。おばさん『続けたい』から、自滅する道を遠回りしたいの。ズルイと思う?」

「急がば回れ。急いては事を仕損じる」

「YES!」

「結果は出せた?」

「有難いことに。でも出なくても何かしらやるんだと思うよ。おばさんが持ってるモンそれしかないから。正面堂々もいいけど横入りしちゃってもいいし」

「横入り?」

「結果を出せたのってBLもあったけど、BLとは無関係な話しだったんだよ。そのとき形変えれば意外といけるコトもあるんだなって思った」

 彼は少し考え込んだ。大きな瞳の黒目がせわしなく動く。

「次回作って決まってたりする?」

「プロット練ってる段階」

「俺の名前使うのってアリ? そしたら読んだとき『あのおばさんだ』ってわかるだろ?」

「マジで? BLだよ?」

「構わないって。俺の名前は――」

 聞いた名前は美しかった。記憶した景色のように美しい名前だった。

「相手の名前は決まってる?」と彼が問う。

「アワイっていうの」と私は答える。

「きれーだな。うん。いいよ」

「君しか愛してない男だよ」

「俺が受けかよ!」

「それでも仕方ないかって思うくらい、カッコイイ攻めにするよ?」

 私はおかしかったが彼は本気のようで、低く唸ったあと、「……わかった。ぜってー書くな?」と睨めつけた。

「書くよ。君を書かないですみそうにないから」

「よっし! 約束な!」

 人差し指が眼前に突きつけられる。私は苦笑して言った。

「ペンネーム教えようか?」

 彼は首を振る。

「絶対見つける」

「そっか。応募しても結果は一年くらいあとにしか出ないから時間かかると思うけど、落ちてもネットにアップするよ」

「じゃあ二年後、自分の名前検索する」

「わかった。じゃあ二年後に」

 彼はひらりと踵を返す。

「おだんご食べてかない?」

 休憩所の茶房を指さすが、もう彼は走り出していた。

「これからやりてーこと思いついたから行くよ! まず、メシをちゃんと食う。部屋片づけて、きちんと考える。ありがとな! 達者でやれよ!」

 存外、年寄りじみた言葉を残して風のように駆けて行った。

「そういえば、おじいちゃんと暮らしてたんだっけ」

 後ろ姿が小さな点になり、消えるまで見送った。
 ふと、ここを終の棲家とした祖父の巡り合わせかもしれない。そんなことを考えた。
 都合のよい思い込みかもしれない。だが私はそう思うことにした。
 コツリと杖をつき、幾分軽くなった足取りで茶房へ向かう。

 君よ、走れ、駆けろ。人生の幸いというものが降り注ぐことを、私は切に願っている。
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