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噂話
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シスターはギーに仕事に戻るように言いつけると、シルヴィにむかって意味ありげに目配せをした。
「シルヴィ様、少しだけお時間があるようでしたらお茶に付き合ってくださいませんか?」
「えぇ、私は構いませんが……。」
シスターが私的な話がある時によく使うやり方だった。教会の奥にあるキッチンは普段は誰も立ち入らない為、個人的な話をする時には重宝した。先に立って歩き出すシスターのピンと伸びた背中を見ながら、シルヴィはギーから受け取った花束を手に続いた。花束の重みが一段と増したように感じた。
シスターからシルヴィに話したい事があるとしたら、それは侯爵家関連の事だろう。もしかして、婚約破棄の話がもうシスターの耳にまで届いたのだろうか?それにしても早すぎないかとシルヴィは頭の中でぐるぐると思いを巡らせていた。
目の前にティーカップを置くと、シスターはシルヴィの向かい側に静かに腰を下ろした。
「ありがとうございます。」
シスターはシルヴィに向かって小さく頷き返すと、視線をテーブルの上の花束に留めた。
「この後侯爵家に?」
「えぇ、侯爵夫人にご挨拶に参ります。」
シスターは回りくどい言い方が嫌いな方だった。いきなり侯爵家の名前を出したところを見ると、やはり本題はシルヴィの予想通り、婚約破棄の件だろうか?
シルヴィはシスターの出方を伺うようにキュッと唇を噛んだ。
シスターは花束から視線をそらすと、一段と声を潜めた。
「シルヴィ様、これは私の独り言なのですが──。」
シルヴィはシスターの言葉に耳を傾けながら、黙ってティーカップに手をかけた。お茶の席でのシスターの独り言にはただ黙って耳を傾けていればいい──相槌は不要だ、経験からそう学んでいた。
「先程教会にお見えになっていたお客様が仰っていた事なのですが近々侯爵家の後継者は代わられるようです。レオ様がその権利をお譲りになるとか。」
「え?」
思わず口から滑り出た言葉に、はっとしてシスターを見上げると、シスターはなんとも言えない表情を浮かべたままシルヴィに頭をふってみせた。
「弟君にお譲りになるそうです。もしかしたらレオ様の婚約の話もなくなるのかもしれませんね。」
「それは……もう既に。」
「お話があったのですね?」
「はい。……でもレオ様が侯爵家の後継ぎでなくなるとかそういう話は、私、一切伺っておりません。」
シスターは机の上で両手を握り、あれこれと思いを巡らせている様子のシルヴィをじっと見守った。
婚約破棄を告げたレオからの手紙の文面を、シルヴィは今もはっきりと記憶していた。しかしそこには侯爵家の事情は何も書かれてはいなかった。
シルヴィはふとあの栗色の髪の使者の事を思い出した。そういえばあの男はシルヴィがあっさりと婚約破棄を承知した事に拍子抜けしていたではないか。もしもあの時、婚約破棄の理由を問いただしていたら?侯爵家の跡継ぎの件もシルヴィに説明する用意があったのかもしれない。
「シスター、先程のお客様というのは……。いえ、シスターはもしかしてレオ様と直接お話になったのですか?」
シスターはシルヴィを見つめたまま、小さく頭を横に振った。
「では、レオ様は例の事故で何か重大な怪我でも負われたのでしょうか?何かご存知ですか?」
シスターは少しだけ驚いた様に目を瞠ると、すぐさま否定するように首を横に振った──知らないということだろう。
それを確認するとシルヴィは大きなため息をついた。
「ご無事だということは先日聞いてはいるのですが、爵位継承もなさらないとなるとやはり何か余程の事があったのかと。違うならそれでいいんですが……。」
「やはりシルヴィ様もご存知ありませんか。確かに、レオ様の身に何かあったことは間違いなさそうですね……。」
シスターは一転して険しい顔になると、ティーカップを手に取り口につけた。話はこれで全てという事だろう。
「もしかしたら、侯爵夫人が貴女に何か教えてくださるかもしれませんね。」
この国では貴族の男子が成人として認められる為には、少なくとも1回は出征する義務があった。今回の冬季遠征には高位の貴族から数人が参加しているはずで、レオもそのうちの一人だ。
他国との戦争があった時代には出征にはそれなりの覚悟と犠牲が伴うものであったが、平和な現代にいたってはそれは多分に儀式の色合いが強いものだった。部隊は国境近くの北の地域を見回って、本来なら雪の降る前に王都へ帰還する──ただそれだけの予定だった。
それなのに北の国境付近に派遣された部隊は先日の大雪で帰還途中にもかかわらず足止めを食っていた。雪の合間を見計らって馬と馬車の縦に長い隊列が積雪のある街道をゆっくりと進んでいるときに何者かによる襲撃があったという話だった。
運の悪いことに隊列は雪崩にも巻き込まれ、隊の帰還は数週間単位で遅れることになった。幸いなことに死者を出すまでには至らなかったということだったが、それすらまだ正式に確認された話ではなかった。
南北に長いこの国では北の国境付近と南──シルヴィたちの暮らすこの王都では気候にも大きな違いがある。穏やかな晴れ間ののぞく窓の外を見ていると、同じ国の北の地方では大雪が降り積もっていることなど俄には信じられなかった。
「シルヴィ様、少しだけお時間があるようでしたらお茶に付き合ってくださいませんか?」
「えぇ、私は構いませんが……。」
シスターが私的な話がある時によく使うやり方だった。教会の奥にあるキッチンは普段は誰も立ち入らない為、個人的な話をする時には重宝した。先に立って歩き出すシスターのピンと伸びた背中を見ながら、シルヴィはギーから受け取った花束を手に続いた。花束の重みが一段と増したように感じた。
シスターからシルヴィに話したい事があるとしたら、それは侯爵家関連の事だろう。もしかして、婚約破棄の話がもうシスターの耳にまで届いたのだろうか?それにしても早すぎないかとシルヴィは頭の中でぐるぐると思いを巡らせていた。
目の前にティーカップを置くと、シスターはシルヴィの向かい側に静かに腰を下ろした。
「ありがとうございます。」
シスターはシルヴィに向かって小さく頷き返すと、視線をテーブルの上の花束に留めた。
「この後侯爵家に?」
「えぇ、侯爵夫人にご挨拶に参ります。」
シスターは回りくどい言い方が嫌いな方だった。いきなり侯爵家の名前を出したところを見ると、やはり本題はシルヴィの予想通り、婚約破棄の件だろうか?
シルヴィはシスターの出方を伺うようにキュッと唇を噛んだ。
シスターは花束から視線をそらすと、一段と声を潜めた。
「シルヴィ様、これは私の独り言なのですが──。」
シルヴィはシスターの言葉に耳を傾けながら、黙ってティーカップに手をかけた。お茶の席でのシスターの独り言にはただ黙って耳を傾けていればいい──相槌は不要だ、経験からそう学んでいた。
「先程教会にお見えになっていたお客様が仰っていた事なのですが近々侯爵家の後継者は代わられるようです。レオ様がその権利をお譲りになるとか。」
「え?」
思わず口から滑り出た言葉に、はっとしてシスターを見上げると、シスターはなんとも言えない表情を浮かべたままシルヴィに頭をふってみせた。
「弟君にお譲りになるそうです。もしかしたらレオ様の婚約の話もなくなるのかもしれませんね。」
「それは……もう既に。」
「お話があったのですね?」
「はい。……でもレオ様が侯爵家の後継ぎでなくなるとかそういう話は、私、一切伺っておりません。」
シスターは机の上で両手を握り、あれこれと思いを巡らせている様子のシルヴィをじっと見守った。
婚約破棄を告げたレオからの手紙の文面を、シルヴィは今もはっきりと記憶していた。しかしそこには侯爵家の事情は何も書かれてはいなかった。
シルヴィはふとあの栗色の髪の使者の事を思い出した。そういえばあの男はシルヴィがあっさりと婚約破棄を承知した事に拍子抜けしていたではないか。もしもあの時、婚約破棄の理由を問いただしていたら?侯爵家の跡継ぎの件もシルヴィに説明する用意があったのかもしれない。
「シスター、先程のお客様というのは……。いえ、シスターはもしかしてレオ様と直接お話になったのですか?」
シスターはシルヴィを見つめたまま、小さく頭を横に振った。
「では、レオ様は例の事故で何か重大な怪我でも負われたのでしょうか?何かご存知ですか?」
シスターは少しだけ驚いた様に目を瞠ると、すぐさま否定するように首を横に振った──知らないということだろう。
それを確認するとシルヴィは大きなため息をついた。
「ご無事だということは先日聞いてはいるのですが、爵位継承もなさらないとなるとやはり何か余程の事があったのかと。違うならそれでいいんですが……。」
「やはりシルヴィ様もご存知ありませんか。確かに、レオ様の身に何かあったことは間違いなさそうですね……。」
シスターは一転して険しい顔になると、ティーカップを手に取り口につけた。話はこれで全てという事だろう。
「もしかしたら、侯爵夫人が貴女に何か教えてくださるかもしれませんね。」
この国では貴族の男子が成人として認められる為には、少なくとも1回は出征する義務があった。今回の冬季遠征には高位の貴族から数人が参加しているはずで、レオもそのうちの一人だ。
他国との戦争があった時代には出征にはそれなりの覚悟と犠牲が伴うものであったが、平和な現代にいたってはそれは多分に儀式の色合いが強いものだった。部隊は国境近くの北の地域を見回って、本来なら雪の降る前に王都へ帰還する──ただそれだけの予定だった。
それなのに北の国境付近に派遣された部隊は先日の大雪で帰還途中にもかかわらず足止めを食っていた。雪の合間を見計らって馬と馬車の縦に長い隊列が積雪のある街道をゆっくりと進んでいるときに何者かによる襲撃があったという話だった。
運の悪いことに隊列は雪崩にも巻き込まれ、隊の帰還は数週間単位で遅れることになった。幸いなことに死者を出すまでには至らなかったということだったが、それすらまだ正式に確認された話ではなかった。
南北に長いこの国では北の国境付近と南──シルヴィたちの暮らすこの王都では気候にも大きな違いがある。穏やかな晴れ間ののぞく窓の外を見ていると、同じ国の北の地方では大雪が降り積もっていることなど俄には信じられなかった。
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