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その日からの訓練は、地獄のようだった。
獣相手とは全く勝手が違う。それまでも容赦ないと思っていたハイジが、実はこれ以上ないくらいに手加減していたことを思い知った。
魔力は常に広げっぱなし。寝ている間ですら攻撃の意思を向けられれば即座に臨戦態勢に入るように叩き込まれる。何度も魔力枯渇を起こしてぶっ倒れたが、そのうちに意識すらせず、息をするように魔力探知ができるようになった。
完全な気配の消し方も教え込まれた。これには驚かされた。ハイジがやってみせると、目の前にいるハイジをほとんど認識できなくなるのだ。
見様見真似である程度できるようになると、次は魔獣に気づかれずに近づく訓練をさせられた。
まだ未熟なあたしの場合、剣を持つと殺気が漏れて気づかれてしまうので、剣は腰にさげ、無手で近づく。気づかれれば殺されかねないので、剣の早抜きの技術も必須だ。
この技術はよほどあたし向きだったらしい。『はぐれ』のアドバンテージもあったのか、気配遮断はハイジよりも得意になった。
そのうちにあたしは、魔獣に近づいて頭を撫でることすらできるようになった。魔獣は目の前で頭を撫でるあたしの存在に気づかない。風に吹かれているとでも思っているのだろう。
剣の訓練では、木剣を構えるようになった。これまでは無造作に木の棒を持つだけだったが、構えた瞬間に、周囲の空気が切り替わる。
ハイジの周りの空間が陽炎のようにグニャリと歪む。それは死の気配。空気はまるで水中のように重たくなり、ハイジは黙って立っているだけなのに、あたしは一歩も近づけない。
「どうした。俺は一歩も動いていないぞ?」
ハイジが煽ってくるが、殺気を纏ったハイジに、足を一歩前に動かすことにすら、全身全霊の力が必要だった。
無理矢理足を動かすと、全身の毛穴が開いて、脳と精神が「何もかも投げ出して一目散に逃げろ」と悲鳴を上げた。
(………置いていかれるもんか……ッ!!!)
あたしは足を踏み出し、剣を振り下ろす。
ただそれだけで、あたしは体力と精神力のすべてを使い果たし、膝をついた。体中が麻痺したようにしびれ、視界を持っていかれた。力が入らない。脳が恐怖に抗うために動作を拒否したのだ。意識を保ったまま気絶したようなものだった。
殺気を帯びた圧倒的強者を前に、人は動けなくなる。
その習性をねじ伏せて動けるようになることこそ、人間との戦い方の基本中の基本。
一歩動けるようになれば、その都度ハイジの殺気は強くなっていく。
そのうちにあたしは殺気そのものに慣れ、まるで蜂蜜の中を泳ぐような重たい空気の中を自在に動けるようになっていく。
* * *
「加速」と「伸長」についても、徹底的に使い方を研究する。
こればかりはハイジにも付き合えないので、自分自身で工夫していくしか無い。
そもそも、加速とは「自分の時間だけが加速する」能力だ。
周りの世界はゆっくりになり、その中で自分だけは普通に動くことができる。
ならば、その中でもう一度加速することができれば、もはやあたしを目で追える者はほとんどいなくなるだろう。
その分、代償として動けなくなる時間が長くなるが、そうなるまでに敵を打倒するか、手が届かないところまで逃げおおせれば問題はない。
伸長は「自分の時間だけが遅くなる」能力だ。
この場合、周りの世界が早送りになるわけではなく、普通に流れる時間の中で、自分の動きだけが遅くなり、思考は遅くならない。
自分に対する物理的な影響も遅くなるため、空中にとどまったり、壁に立ったりすることもできる。
加速と伸長は対になっていて、加速の次に伸長を挟まずに加速したりはできない。ならば、その中でさらに伸長すればいい。
直列ではなく並列処理。
初めは加速と同時に伸長、伸長と同時に加速する訓練を何度も繰り返した。傍から見れば何も起きていないのに、魔力だけはガンガン消費する。日常生活中も常に同時処理をはしらせることで、そのうちに魔力枯渇とは無縁になった。
それに慣れれば、加速中に加速、伸長中に伸長を重ねがけする。加速を重ねがけすると、その瞬間は倍の加速が可能になる。この時に魔力をまとわせた剣を振るえば、白樺の木を人参のように切断できた。
手応えを感じた。
* * *
能力のもう一つの使い方、「思考の加速」も使いこなせるように訓練を続けた。
この力については、ハイジにも詳しいことを教えていない。
一瞬の時間で長考できるため、戦局の判断が正確になる。つまりあたしには「とっさの判断」というものが存在しなくなる。
この力にいつ目覚めたのかは、自分でもわからない。戦いの中で、いつの間にか当たり前のように使うようになっていた。
ペナルティは殆ど無いが、一度に数秒しか使えず、何度も使うと頭が割れそうに痛むことだけが難点だ。おそらく脳が悲鳴を上げているのだろうが、痛みなど無視すればどうということはない。
* * *
超加速と超伸長、さらにそこに思考加速が加わり、あたしの動きはさらにトリッキーになっていく。
意表を突き、攻撃のテンポを崩し、相手のリズムを崩し、思考加速で戦略を練り、隙を突き、ありとあらゆる動きを工夫してハイジに挑む。
それでも、ハイジには届かなかった。
あたしの全身全霊の攻撃も、ハイジは「キャンセル」を遣いもせずに全ていなしてみせた。
つまり、速度の問題ではないのだ。
剣技の技量自体に、天と地ほどの差があるということだ。
あたしは気配を消し、殺気をまとい、戦略を練りながら、加速し、伸長し、飛び、浮かび、物理現象を無視して戦いを挑み続ける。
それに対し、ハイジはただ自分の技量だけで、全てに打ち勝ってみせた。
(––––遠い!)
(これほどまでに、ハイジの立つ頂が遠い––––!)
究極的には、ハイジに勝つ必要はないのだ。ハイジ以外の全てに勝てればいいのだから。それでも……。
(ハイジを追い詰める程の力を見せつけないと、ハイジは決してあたしを認めようとはしないだろう)
だからあたしは決して甘えること無く、限界を超えて自分を追い込んだ。
* * *
夏が来るまでに、二度の襲撃があった。
一度は一人で特訓中のあたしを、一度は大人数でハイジ自体を無力化しようと、ハーゲンベックの冒険者が徒党を組んで襲撃してきた。
しかし、敵の思惑は上手く行かなかった。
一人で特訓中の襲撃では、これ幸いと気配遮断の実験台となってもらった。
男たちはすぐ近くに立つあたしに気づきもせず、無駄足を踏んだことに苛立ちながら去っていった。もしこの時に小屋を荒らそうとしようものなら、あたしはヴィーゴのところに生首を持っていくことになっただろう。
二度目の襲撃では、ハイジが対人戦の手本を見せてくれた。珍しく饒舌に説明しながら、一人ひとり逃さずに屠っていく姿はまるで死神のようだったが、あたしはふむふむと観察しながら、心のメモに板書しまくった。
ハイジがあたしを街に置いて行こうとしたあの日以来、あたしはまだ一度も人を殺していない。ハイジがそれを忌避したからだ。つまりハイジはあたしを傭兵としては認めていないということだ。傭兵として認められないうちは、どんなに悔しくともあたしはハイジにとって守るべき対象でしかない。
それでも人の死体をある程度見慣れるくらいにはなった。もちろん気分が良いものではない。それでも、死体を見て嘔吐するようなことはなくなった。
人の死が身近になったことを、あたしは歓迎した。
* * *
夏になり、街へ出ると、襲撃はパタリと止んだ。
本当は、夏の間も寂しの森で訓練をしたかったのだ。しかし、ハイジがそれを許さなかった。
街でも、世の中が不穏になってきていることを皆が感じていた。
ニコもそれは漠然と感じているようで、
「森へ帰るくらいなら、自分を鍛えて欲しい」
などと言った。
仕方なく、あたしは今年の夏も森から離れ、ニコや子どもたちを鍛えることにした。
ハーゲンベックにしてみれば、まだライヒ領とオルヴィネリ領との戦いの準備が済んでいない。街でおおっぴらに攻撃をして先制攻撃をしかけたとみなされるとまずいのだろう。
この世界の戦争は騎士道に基づいたルールが敷かれている。それを破れば、最大戦力であるヴォリネッリ王国軍に駆逐される。ハーゲンベックのルール違反など今更ではあるが、横紙破りは表立ってするわけにはいかないはずだ。
それでも、ペトラの店で働いている時や、早朝に子どもたちの相手をしていると、敵意のある視線を感じることが何度もあった。
あたしやハイジと、ハーゲンベックとの間にある諍いに子どもたちを巻き込むわけにはいかない。あたしはペトラにニコや子どもたちに危険があることを相談した。
「あたしの店で暴れるようなバカは居ないだろうさ」
しかし、ペトラはそう言って笑うだけで、気にした様子はなかった。
それでもあたしは、周りに迷惑がかかることを恐れたが、ペトラはそんなあたしを見て呆れたように言った。
「そう思うなら、ハイジがアンタを置いていこうとした気持ちだってわかるだろうに」
「…………」
言いたいことはわかる。
あたしがハイジの弱点であるように、子どもたちやニコはあたしの弱点だ。もしも人質に取られたら––––と考えたところで、馬鹿らしくなった。
あたしには子どもたちを救うだけの手段がある。金で動くだけの冒険者など、あたしの敵ではない。
(もしあたしの大切なものに手をだそうとしたなら、あたしは全身全霊を持って後悔させる。毛一筋だって怪我をさせるものか)
そう思い定めた。
* * *
森と比べると街の生活は平穏すぎる。
あたしはこうしている間にも強くなる機会を逃しているようなジリジリとした気持ちになった。
休みの日には街を出て、近くの森深くへトレーニングに出かけた。
子どもたちを狙うような回りくどい真似をするくらいなら、人気のない森を無防備にウロウロしているあたしをターゲットにするはずだ、という狙いがあったが、どういうわけか襲われることはなかった。
人の命を軽く見ているつもりはないが、襲ってくるなら対人戦の役に立ってもらおうと思っていただけに、ほんの少しだけ残念な気持ちだった。
この森の魔獣たちでは、すでにあたしの訓練の立たない。
仕方なく自分の能力を発展させることに心を砕く。
魔力を薄く広げると、もはや森全体を見渡せる。魔力を狭い範囲に狭めると、三百六十度全ての方向がくっきりと見える。もはや視覚すらほとんど必要としない。
その上、思考加速、気配遮断、加速減速まで駆使できるわけだ。これならよほどの強者でなければ遅れを取ることはないだろう。
とはいえ、油断は許されない。
ハイジがいない間は、自分でしかできない訓練を重ねるほうが効率がいい。
あたしは超加速––––加速の中で加速する中で、さらにもう一段階さらに加速できるようになった。
反動として長い伸長がやってくるが、あまり問題にはならなかった––––というよりは、問題のないように伸長する癖がついた。
止まっていても問題ない状況で先に伸長の重ねがけを行っておけば、反動なしの加速の重ねがけが可能だ。これらを意識せずに、呼吸するかのごとく行えるようにならなければならない。
それに、伸長中の動きをさらに遅くすることで、短い時間でキャンセルできることに気づく。時間が短くなる分、ほとんど体が止まってしまうが、そこは使いどころだ。ついでに、伸長中に加速することで一時的に伸長をキャンセルすることもできるようになった。
残念ながら、どこかで帳尻をあわせなくてはならないことに代わりはないが、これで戦略的には随分自由が効くようになった。
もはや、エイヒムの森の魔獣たちなど、そこらの草花と対して変わらないくらいの脅威度だった。気配を消せば見つかることもないし、超々加速してやれば目で追うことすらできない。
加速中や伸長中に殺気を出したり気配を消したりすれば、獣の認識は狂い、屠るのは簡単だった。
そのうち、あたしは魔獣だらけの場所でもぐーすか昼寝できるくらいの胆力を手に入れていた。
そんなことを繰り返しているうちに、ギルドでは黒山羊《あたし》の奇行が噂になっていた。
曰く、魔物の群れの中で、狼を枕に昼寝をしていた。
曰く、幽霊のように現れたり消えたりした。
曰く、重力に逆らって崖に張り付いていた。
曰く、空中に浮いていた。
曰く、矢のような速さで森を駆けていた。
曰く、離れたところにいる魔獣を二匹同時に刈り取った。
曰く、白樺の木をバターのように剣で輪切りにしていた。
どれも事実なので特に否定はしなかったが、これではまるで妖怪の類だ。
これだけ人間離れしているのに、よく皆に気味悪がられないものだと思う。恐らく、ミッラやヘルマンニたちが上手くサポートしてくれたのだろう。
(ミッラには一度、あんな酷い仕打ちをしてしまっているのに……)
(今度菓子折りを持って謝りにいかなくちゃ)
あたしは心のメモに書き入れる。
また、受け入れられた一因として、ハイジの相棒であるという認識も広まったことも関係がありそうだ。「あの男の相棒ならそのくらいのことはおかしくない」とでも思ってくれたのだろうか?
もしそうだとすれば、嬉しいことだ。
強くなっている実感はある。
だが、まだまだハイジには遠く及ばない。
秋が来るのが待ち遠しい。
獣相手とは全く勝手が違う。それまでも容赦ないと思っていたハイジが、実はこれ以上ないくらいに手加減していたことを思い知った。
魔力は常に広げっぱなし。寝ている間ですら攻撃の意思を向けられれば即座に臨戦態勢に入るように叩き込まれる。何度も魔力枯渇を起こしてぶっ倒れたが、そのうちに意識すらせず、息をするように魔力探知ができるようになった。
完全な気配の消し方も教え込まれた。これには驚かされた。ハイジがやってみせると、目の前にいるハイジをほとんど認識できなくなるのだ。
見様見真似である程度できるようになると、次は魔獣に気づかれずに近づく訓練をさせられた。
まだ未熟なあたしの場合、剣を持つと殺気が漏れて気づかれてしまうので、剣は腰にさげ、無手で近づく。気づかれれば殺されかねないので、剣の早抜きの技術も必須だ。
この技術はよほどあたし向きだったらしい。『はぐれ』のアドバンテージもあったのか、気配遮断はハイジよりも得意になった。
そのうちにあたしは、魔獣に近づいて頭を撫でることすらできるようになった。魔獣は目の前で頭を撫でるあたしの存在に気づかない。風に吹かれているとでも思っているのだろう。
剣の訓練では、木剣を構えるようになった。これまでは無造作に木の棒を持つだけだったが、構えた瞬間に、周囲の空気が切り替わる。
ハイジの周りの空間が陽炎のようにグニャリと歪む。それは死の気配。空気はまるで水中のように重たくなり、ハイジは黙って立っているだけなのに、あたしは一歩も近づけない。
「どうした。俺は一歩も動いていないぞ?」
ハイジが煽ってくるが、殺気を纏ったハイジに、足を一歩前に動かすことにすら、全身全霊の力が必要だった。
無理矢理足を動かすと、全身の毛穴が開いて、脳と精神が「何もかも投げ出して一目散に逃げろ」と悲鳴を上げた。
(………置いていかれるもんか……ッ!!!)
あたしは足を踏み出し、剣を振り下ろす。
ただそれだけで、あたしは体力と精神力のすべてを使い果たし、膝をついた。体中が麻痺したようにしびれ、視界を持っていかれた。力が入らない。脳が恐怖に抗うために動作を拒否したのだ。意識を保ったまま気絶したようなものだった。
殺気を帯びた圧倒的強者を前に、人は動けなくなる。
その習性をねじ伏せて動けるようになることこそ、人間との戦い方の基本中の基本。
一歩動けるようになれば、その都度ハイジの殺気は強くなっていく。
そのうちにあたしは殺気そのものに慣れ、まるで蜂蜜の中を泳ぐような重たい空気の中を自在に動けるようになっていく。
* * *
「加速」と「伸長」についても、徹底的に使い方を研究する。
こればかりはハイジにも付き合えないので、自分自身で工夫していくしか無い。
そもそも、加速とは「自分の時間だけが加速する」能力だ。
周りの世界はゆっくりになり、その中で自分だけは普通に動くことができる。
ならば、その中でもう一度加速することができれば、もはやあたしを目で追える者はほとんどいなくなるだろう。
その分、代償として動けなくなる時間が長くなるが、そうなるまでに敵を打倒するか、手が届かないところまで逃げおおせれば問題はない。
伸長は「自分の時間だけが遅くなる」能力だ。
この場合、周りの世界が早送りになるわけではなく、普通に流れる時間の中で、自分の動きだけが遅くなり、思考は遅くならない。
自分に対する物理的な影響も遅くなるため、空中にとどまったり、壁に立ったりすることもできる。
加速と伸長は対になっていて、加速の次に伸長を挟まずに加速したりはできない。ならば、その中でさらに伸長すればいい。
直列ではなく並列処理。
初めは加速と同時に伸長、伸長と同時に加速する訓練を何度も繰り返した。傍から見れば何も起きていないのに、魔力だけはガンガン消費する。日常生活中も常に同時処理をはしらせることで、そのうちに魔力枯渇とは無縁になった。
それに慣れれば、加速中に加速、伸長中に伸長を重ねがけする。加速を重ねがけすると、その瞬間は倍の加速が可能になる。この時に魔力をまとわせた剣を振るえば、白樺の木を人参のように切断できた。
手応えを感じた。
* * *
能力のもう一つの使い方、「思考の加速」も使いこなせるように訓練を続けた。
この力については、ハイジにも詳しいことを教えていない。
一瞬の時間で長考できるため、戦局の判断が正確になる。つまりあたしには「とっさの判断」というものが存在しなくなる。
この力にいつ目覚めたのかは、自分でもわからない。戦いの中で、いつの間にか当たり前のように使うようになっていた。
ペナルティは殆ど無いが、一度に数秒しか使えず、何度も使うと頭が割れそうに痛むことだけが難点だ。おそらく脳が悲鳴を上げているのだろうが、痛みなど無視すればどうということはない。
* * *
超加速と超伸長、さらにそこに思考加速が加わり、あたしの動きはさらにトリッキーになっていく。
意表を突き、攻撃のテンポを崩し、相手のリズムを崩し、思考加速で戦略を練り、隙を突き、ありとあらゆる動きを工夫してハイジに挑む。
それでも、ハイジには届かなかった。
あたしの全身全霊の攻撃も、ハイジは「キャンセル」を遣いもせずに全ていなしてみせた。
つまり、速度の問題ではないのだ。
剣技の技量自体に、天と地ほどの差があるということだ。
あたしは気配を消し、殺気をまとい、戦略を練りながら、加速し、伸長し、飛び、浮かび、物理現象を無視して戦いを挑み続ける。
それに対し、ハイジはただ自分の技量だけで、全てに打ち勝ってみせた。
(––––遠い!)
(これほどまでに、ハイジの立つ頂が遠い––––!)
究極的には、ハイジに勝つ必要はないのだ。ハイジ以外の全てに勝てればいいのだから。それでも……。
(ハイジを追い詰める程の力を見せつけないと、ハイジは決してあたしを認めようとはしないだろう)
だからあたしは決して甘えること無く、限界を超えて自分を追い込んだ。
* * *
夏が来るまでに、二度の襲撃があった。
一度は一人で特訓中のあたしを、一度は大人数でハイジ自体を無力化しようと、ハーゲンベックの冒険者が徒党を組んで襲撃してきた。
しかし、敵の思惑は上手く行かなかった。
一人で特訓中の襲撃では、これ幸いと気配遮断の実験台となってもらった。
男たちはすぐ近くに立つあたしに気づきもせず、無駄足を踏んだことに苛立ちながら去っていった。もしこの時に小屋を荒らそうとしようものなら、あたしはヴィーゴのところに生首を持っていくことになっただろう。
二度目の襲撃では、ハイジが対人戦の手本を見せてくれた。珍しく饒舌に説明しながら、一人ひとり逃さずに屠っていく姿はまるで死神のようだったが、あたしはふむふむと観察しながら、心のメモに板書しまくった。
ハイジがあたしを街に置いて行こうとしたあの日以来、あたしはまだ一度も人を殺していない。ハイジがそれを忌避したからだ。つまりハイジはあたしを傭兵としては認めていないということだ。傭兵として認められないうちは、どんなに悔しくともあたしはハイジにとって守るべき対象でしかない。
それでも人の死体をある程度見慣れるくらいにはなった。もちろん気分が良いものではない。それでも、死体を見て嘔吐するようなことはなくなった。
人の死が身近になったことを、あたしは歓迎した。
* * *
夏になり、街へ出ると、襲撃はパタリと止んだ。
本当は、夏の間も寂しの森で訓練をしたかったのだ。しかし、ハイジがそれを許さなかった。
街でも、世の中が不穏になってきていることを皆が感じていた。
ニコもそれは漠然と感じているようで、
「森へ帰るくらいなら、自分を鍛えて欲しい」
などと言った。
仕方なく、あたしは今年の夏も森から離れ、ニコや子どもたちを鍛えることにした。
ハーゲンベックにしてみれば、まだライヒ領とオルヴィネリ領との戦いの準備が済んでいない。街でおおっぴらに攻撃をして先制攻撃をしかけたとみなされるとまずいのだろう。
この世界の戦争は騎士道に基づいたルールが敷かれている。それを破れば、最大戦力であるヴォリネッリ王国軍に駆逐される。ハーゲンベックのルール違反など今更ではあるが、横紙破りは表立ってするわけにはいかないはずだ。
それでも、ペトラの店で働いている時や、早朝に子どもたちの相手をしていると、敵意のある視線を感じることが何度もあった。
あたしやハイジと、ハーゲンベックとの間にある諍いに子どもたちを巻き込むわけにはいかない。あたしはペトラにニコや子どもたちに危険があることを相談した。
「あたしの店で暴れるようなバカは居ないだろうさ」
しかし、ペトラはそう言って笑うだけで、気にした様子はなかった。
それでもあたしは、周りに迷惑がかかることを恐れたが、ペトラはそんなあたしを見て呆れたように言った。
「そう思うなら、ハイジがアンタを置いていこうとした気持ちだってわかるだろうに」
「…………」
言いたいことはわかる。
あたしがハイジの弱点であるように、子どもたちやニコはあたしの弱点だ。もしも人質に取られたら––––と考えたところで、馬鹿らしくなった。
あたしには子どもたちを救うだけの手段がある。金で動くだけの冒険者など、あたしの敵ではない。
(もしあたしの大切なものに手をだそうとしたなら、あたしは全身全霊を持って後悔させる。毛一筋だって怪我をさせるものか)
そう思い定めた。
* * *
森と比べると街の生活は平穏すぎる。
あたしはこうしている間にも強くなる機会を逃しているようなジリジリとした気持ちになった。
休みの日には街を出て、近くの森深くへトレーニングに出かけた。
子どもたちを狙うような回りくどい真似をするくらいなら、人気のない森を無防備にウロウロしているあたしをターゲットにするはずだ、という狙いがあったが、どういうわけか襲われることはなかった。
人の命を軽く見ているつもりはないが、襲ってくるなら対人戦の役に立ってもらおうと思っていただけに、ほんの少しだけ残念な気持ちだった。
この森の魔獣たちでは、すでにあたしの訓練の立たない。
仕方なく自分の能力を発展させることに心を砕く。
魔力を薄く広げると、もはや森全体を見渡せる。魔力を狭い範囲に狭めると、三百六十度全ての方向がくっきりと見える。もはや視覚すらほとんど必要としない。
その上、思考加速、気配遮断、加速減速まで駆使できるわけだ。これならよほどの強者でなければ遅れを取ることはないだろう。
とはいえ、油断は許されない。
ハイジがいない間は、自分でしかできない訓練を重ねるほうが効率がいい。
あたしは超加速––––加速の中で加速する中で、さらにもう一段階さらに加速できるようになった。
反動として長い伸長がやってくるが、あまり問題にはならなかった––––というよりは、問題のないように伸長する癖がついた。
止まっていても問題ない状況で先に伸長の重ねがけを行っておけば、反動なしの加速の重ねがけが可能だ。これらを意識せずに、呼吸するかのごとく行えるようにならなければならない。
それに、伸長中の動きをさらに遅くすることで、短い時間でキャンセルできることに気づく。時間が短くなる分、ほとんど体が止まってしまうが、そこは使いどころだ。ついでに、伸長中に加速することで一時的に伸長をキャンセルすることもできるようになった。
残念ながら、どこかで帳尻をあわせなくてはならないことに代わりはないが、これで戦略的には随分自由が効くようになった。
もはや、エイヒムの森の魔獣たちなど、そこらの草花と対して変わらないくらいの脅威度だった。気配を消せば見つかることもないし、超々加速してやれば目で追うことすらできない。
加速中や伸長中に殺気を出したり気配を消したりすれば、獣の認識は狂い、屠るのは簡単だった。
そのうち、あたしは魔獣だらけの場所でもぐーすか昼寝できるくらいの胆力を手に入れていた。
そんなことを繰り返しているうちに、ギルドでは黒山羊《あたし》の奇行が噂になっていた。
曰く、魔物の群れの中で、狼を枕に昼寝をしていた。
曰く、幽霊のように現れたり消えたりした。
曰く、重力に逆らって崖に張り付いていた。
曰く、空中に浮いていた。
曰く、矢のような速さで森を駆けていた。
曰く、離れたところにいる魔獣を二匹同時に刈り取った。
曰く、白樺の木をバターのように剣で輪切りにしていた。
どれも事実なので特に否定はしなかったが、これではまるで妖怪の類だ。
これだけ人間離れしているのに、よく皆に気味悪がられないものだと思う。恐らく、ミッラやヘルマンニたちが上手くサポートしてくれたのだろう。
(ミッラには一度、あんな酷い仕打ちをしてしまっているのに……)
(今度菓子折りを持って謝りにいかなくちゃ)
あたしは心のメモに書き入れる。
また、受け入れられた一因として、ハイジの相棒であるという認識も広まったことも関係がありそうだ。「あの男の相棒ならそのくらいのことはおかしくない」とでも思ってくれたのだろうか?
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だが、まだまだハイジには遠く及ばない。
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数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
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※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
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