魔物の森のハイジ

カイエ

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#5

幕間 : Laakso -2 (Heidi)

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「お前、俺を殺して、俺の跡を継げ」

 ハイジにとって、アゼムのその言葉は到底受け入れられるものではなかった。

「……師匠、何を言い出すんです?!」

 ハイジは悲鳴を上げた。
 これは一体何の冗談なのか。だがアゼムはわざと偽悪的な冗談を吐くときはあっても、人を傷つけるような冗談は絶対に口にしない。それは師の言葉が冗談などではなく本気であるということを意味する。

 到底受け入れられるものではない。
 それでなくともハイジの心はもう限界をとっくに超えているのだ。
 アンジェの死は今でも毎日のように夢に見る。いい加減慣れればいいものをと自分でも思うが、現実としてその傷は今も些かも癒えてはいない。そこに『はぐれ』の子供だ––––くっきりと目に焼き付いている。その体にスローモーションのように矢が刺さっていく様が。

「何かに祈ったか」とアゼムは言った。
 祈った。当然だ。精霊の存在が明らかなこの世界では、普段どれほど傍若無人に振る舞う者であっても戦場では恰も敬虔な信仰者のように祈る。

 盗賊に串刺しにされて死んだアンジェと、この世界に出現した途端に矢で射られて死んだ、まだ物心がついたばかりに見える子供。ハイジがこれまで出会った『はぐれ』は、みな例外なく脆弱だった。
 なぜ『はぐれ』はこんなにも死に易いのか。
 なぜ誰も『はぐれ』を守ってやらないのか。
 まるで、彼らは異物なのだから死んでも当然なのだと言わんばかりの無関心––––。

 だから、あの時ハイジは自らを見下ろす目に見えぬ精霊たちに対して祈ったのだ。
 ならば、おれが守る、と。
 そのためなら命を投げ出そう。
 誰も守ろうとしないのであれば、おれ一人でも彼らを守ろう。

 それは、ハイジの悲痛な願い。
 目の前には打ち捨てられた、たった今死んだばかりの小さな小さな躯。
 その現実をハイジには受け入れることができなかった。

 だから、ハイジは誓ったのだ。
『はぐれ』達の敵を討ち滅ぼすことを。

 精霊たちよ。
 どうかこの悲しく小さき者たちを助けてくれ。
 それができないのなら、せめておれに、彼らを守る力を与えてくれ。

 そのためなら対価として、この生命を喜んで支払おう。


 ▽


 祈りは精霊たちに届いたのだろうか。実感はなかった。
 だが、もう運命は転がり始めていた。

「ハイジ、よく聞けよ。お前が死の間際に差し出した命は、もはやお前のものじゃない。なぜなら、それはすでに対価として払われたものだからだ」

 アゼムはいつになく真剣にハイジに語った。

「ハイジ。それは祈りではなく、ただの取引だ。戦場では二束三文の価値もない命などを差し出して、精霊を使い走りにする、この上なく傲慢な行為だ」
「そんな……! おれにはそんなつもりは……」
「おまえがどう思うかなど、どうでもいいんだよ。ただ……、それでも、だ。価値があろうがなかろうが、差し出せる全てを差し出した時、精霊は必ずそれに応える。応えてくれる」
「おれに––––『はぐれ』を守る力が与えられた……?」
「ああそうだ。そして、それは同時に、その力を目的以外に使えば、その瞬間に対価が回収されるという意味でもある。––––だから、ハイジ。よく肝に銘じておけ。お前がもしその手で『はぐれ』を死なせることがあれば、お前の命は戦死者の館ヴァルハラ行きだぞ」

 戦死者の館ヴァルハラ行きとは、傭兵たちの言い回しで、戦士が抗いようのない力に導かれて死を迎えることを言う。
 つまり、アゼムはハイジに「はぐれを死なせると、お前も死ぬ」と言っているのだ。

「そんなバカな……! いえ、おれが『はぐれ』を傷つけることなどありえないことだとは思うのですが……」
「ばか言え、この考えなしの間抜けが。もし敵に『はぐれ』の戦士が居たらどうする? 解ってるのか? 相手は精霊だぞ? 奴ら、人間の都合などお構いなしだ。その力はすでに『はぐれ』のためにしか使えん。お前の人生の選択肢は失われた。お前は……『はぐれ』の守護者として行きていくと、命をかけて精霊たちと契約を交わしたんだよ」

 ハイジは愕然とした。
 元々、『はぐれ』には縁があるからか、戦場や魔物の領域で気配を感じるたびに見つけ出し、保護してきた実績はある。だが、ハイジにとっては『はぐれ』とはすなわちアンジェのことであり、ハイジが本当に守りたかったのは『はぐれ』ではなく、彼らを含むなのだ。

「……これからは『はぐれ』のためにしか戦えないということですか?」
「戦うどころか、『はぐれ』のため以外には、呼吸だってできねぇんだよ、お前は」
「なっ……!」
「ただ、それはお前の認識に依る。お前が『はぐれ』のために生きるというのなら、呼吸だって、飯を食うことも、糞をたれることだって『はぐれ』のためだ。だが、それが『はぐれ』のためじゃないとお前自身が認識するのなら……この世界は猛毒でできているのと同じだ」
「……なんてことだ……」

 ハイジはいきなりのことで困惑したが、しかし無理やり思い直すことにした。

(……いや、それでもいいのかもしれない)

 よく考えれば、それは望むところだったのではないか。
 自分には戦うことしかできない。それでも、だからこそ、脆く者たちが幸せに生きていける世界のために戦ってきた。
 だが、たとえこの世界の人間のためだったとしても、回り回って『はぐれ』のためになるのではないか。

「……わかりました」
「お前はバカだが、物分りはいいよな」

 アゼムはホッとしたように、表情を緩めた。

「でも、まだわからないことがあります」
「ん、なんだ? 言ってみろ」
「なぜ、わたしが師匠を殺さなければならないんですか? それとも、何かの比喩ですか?」
「いいや、違うぞ? そのまんまの意味だ」

 殺すんだよ、敵兵の首を切り落とすみたいに、と笑いながら、アゼムは戯けるように首を掻っ切るジェスチャーをした。

「そんな……軽く言われても納得しかねます! それに、跡を継ぐならおれじゃなくヨーコでしょう! それに、何故師匠が死ぬ必要があるんですか!」
「お前と同じ理由だよ」
「……え?」
「俺も、誓ったんだよ。お前と同じように、精霊たちに命を差し出して、女子供を守るために、後進を育てるための知識と技術をください、ってな」
「なっ……!」

 アゼムに死を恐れる様子はまったくなかった。
 むしろ、笑ってさえいる。
 ただ、ソワソワと、明らかに何かに焦っている様子だった。

「間違いなく、その契約は果たされたぜ? そして手に入った知識と技術で、お前たちを育て上げた。……だけど、もう十分だろ。お前、俺より強いぞ」

 もちろんアイツラもな、とアゼムはクツクツと笑う。

「何を言ってるんですか! おれは、まだ全然……」
「……無駄なんだよ。すでに遅い。女と子供を守るという誓いを、おれは破った。お前を取り囲んで止めを刺そうとしてた少年兵たちを、五人ばかりぶち殺したからな」
「お……おれのために!? 」

 ハイジは悲鳴を上げた。

「おれなんかのために!? 何故、師匠がおれなんかのために!? おれのことなんて放っておいてくれたら良かったのに!! 師匠が犠牲になるくらいなら、おれは何回だって死んだってよかったんだ!!」
「バカめ……お前を見捨てることも、誓いに反することになるだろうが」

 ここでアゼム格好つけるかのようにニヤリと笑った。

「お前を見捨てるか、敵兵を殺すか。どっちみち少年を殺すことになるだろ。お前、図体はでっけぇけど、俺から見ればまだまだガキなんだよ……中身がな。なら、お前を優先するのは、師として、親代わりとして当然だろ」
「でもっ! だからって!!」
「ただ、時間がねぇ。知ってるか? 儀式を捧げてから行われる戦儀礼戦で死んだ魂は、五日後にヴァルハラに召されるんだ」
「それが何ですか!」
「おれの命はあと四日ほどだ––––だからそれまでに、おれの力をお前に継いでもらいたい」

 ハイジは目の前が真っ暗になったように感じた。
 師匠が死ぬ? たった今、目の前で果物をつまみながら飄々と喋っているこの人が?
 到底信じられない。同時に、師がそんな馬鹿げた嘘を付く男でないことだけは、心から信じることができた。

「な……ぜ……、なぜ、殺す必要が……」
「そりゃ、お前、殺せばおれの経験値が手に入るだろうが」
「はぁ!? そんなことのために!?」
「そんなことだと? アホ言うな。お前、おれがこれだけの技術やら知識やらを手に入れるのにどれほど苦労したかちょっとでも考えたことあんのか。万一そのまま死んでみろ、全部無駄になっちまうだろうが!」
「でも、いくら何でも殺すなんて!」
「それに、知ってるか? 敵を殺すと敵の魔力と経験値の一部を奪えるが、同意の元、信頼関係のあるもの同士でそれを行うと、一部ではなく、そのほとんどを譲渡できるんだぜ。それも、敵同士だと引き継げないような技術や能力まで」
「い、嫌です! それだけはできません! それなら、せめておれじゃなく、ヨーコに……!」
「言っておくが、すでにお前は聞いてしまっている」

 アゼムは偽悪的に顔を歪めて笑う。
 師匠のいつもの癖である。

「おまえだってわかってんだろ? おれの力と知識が手に入れば、お前の目的である『はぐれ』の保護にだって役立つことが。なら、もしそれを理解した上で、それを行わないというのなら……精霊たちはどう判断するだろうな?」
「なっ?!」
「な? 要するにこれも連中の計画の一部なんだよ。お前は力を手に入れたいと願った。俺は少年兵を殺さざるを得ない状況に追い込まれ、殺すことを覚悟して受け入れた。それを偶然だと思うか? いいや、ちがうね! 俺の力がお前に譲渡され、引き継がれることは、精霊たちにとって織り込み済みの決定事項だってことだ」
「嘘だっ!」

 ハイジの悲痛な叫びを、アゼムはどこか面白そうに観察している。

「嘘じゃねぇって。でも、嘘か真か……試すわけにもいかねぇだろ? 言っとくが逃げても無駄だぜ? おれはお前以外にこの力を譲渡するつもりはねぇからよ。潔く諦めてスッパリとやってくれや」

 泣きべそをかくハイジを慮ってのことか、アゼムは少しだけ優しく言葉を続ける。

「……でもよぅ……どうせ死ぬなら、おれはお前ら全員に囲まれて死にたい。お前らは、既にいつでも独り立ちできるだけの力がある。俺の手からは、とっくに巣立っちまった。だから––––これは俺の、ただのわがままだ」

 師匠の最後のわがままくらい、聞いてくれてもいいだろ? といって、アゼムはニヤリと笑った。
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