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#5
30 : Lynn
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# Metsästäjät
ハイジが矢を放った瞬間、『魔物の森少年傭兵団』の全員はそれこそ矢のように即座に行動を開始した。
放たれた矢は止められない––––ヴォリネッリに於ける「取り返しがつかない」といった意味の慣用句だ。射ってしまったものはしかたない。考えている時間で、最善を尽くす。その程度の事ができない者はここには居ない。
「誰っ!?」
リンが戦闘態勢に入った。
# Jouko
ヘルマンニの目を通してそれを見たヨーコは舌を巻く。
これは本当に寸前までメソメソと泣いていた小娘なのか、と。
吊り目気味な大きな目は更に大きく見開かれ、燃えるような闘志を湛えている。薄く唇を開き、覗く歯は固く食いしばられている。ざんばらに切られた黒髪は獅子の鬣のように広がり、切り欠けのある耳をそばだててあたりの音を拾っているのがわかる。
額の角が、ゆっくりと捻れながら長く伸びていく。禍々しくも美しく、それは少女の有り様に凄まじくよく似合っている。
その角に濃密な魔素がまとわりついている––––なるほど、これは確かに魔獣だ。それもハイジの言う例外級どころか、これでは特例級にすら値する。
ハイジが『魔物の森少年傭兵団』に助けを求めたのは僥倖だった––––そもそも他の連中では意味を成さないが、仮に大規模な討伐隊を組んだとしても、到底勝てる気がしない。英雄と呼ばれる四人が揃ってこれだ––––一人でも欠けたらどうしようもない。
(だが……)
クク、とヨーコは偽悪的に笑う。
残念ながら、俺たちは一人も欠けずにここにいる。
逃げられるものなら逃げてみるがいい––––『魔物の谷』の近くのこの森は、師匠から何度「危険だから立ち入るな」と止められても決してこっそり入るのをやめなかった、おれたちの遊び場だったのだ。高効率に経験値を稼いでハイジやペトラがあの体躯を手にした場所であり、能力を失った俺が戦う力を取り戻した場所でもある。
(まさかこのタイミングでまたここで集まることになろうとは)
《図られたかのようで、気味が悪い。都合が良すぎる––––これが運命というやつなのか?)
運命などという理不尽を、ヨーコは認めていない。
だが、今回に限ってはそれでいい。
(俺たちの庭で鬼ごっこか。面白い)
(せいぜい楽しませてもらおうじゃないか)
ここには、俺の青春が眠っている。
# Petra
「––––俺だ」
その言葉を聞は、ペトラの胸を強くときめかせた。
ペトラは考えることが得意ではない。故に理由は自分でもわからない。
ただ––––なぜだかようやく報われたような気持ちになったのだ。
少女時代、ペトラは、結局一度もハイジに気持ちを伝えることはなかった。
それは大きな目的を持ったハイジの邪魔になりたくないということでもあったが、何よりも、拒否されることが怖かったからだ。
怖れたのは、愛を受け入れられないこと自体がではない。
ハイジという男に、もしも自己を愛する気持ちがなかったら、という恐怖だ。
自分が愛されないだけなら構わない。ただの失恋だ。自分勝手に悲しんで、一晩泣いてスッキリすればいい。
でも、この男にはすでにそうした個人的な感情など無くなっていて––––つまりは、もうとっくに壊れてしまっているのではないか。
もし、ハイジが誰のことも愛せないというのなら––––自分などがハイジに一体何をしてあげられるというのか。
目的のためだけに、まるで何かの道具みたいに生きているハイジ。
自己犠牲などという美しい感情ではなく、どこか病的な情熱に突き動かされているように見えるのだ。
一途で、ひたむきで、真っ直ぐで……でも、それは言い換えれば、何時も必死で、死にもの狂いで、永遠に報われないということでもある。
この男が癒やされる日は来るのだろうか。
報われる日は来るのだろうか。
いつも険しい顔をしたこの男の悲しい生き方に、ペトラは耐えられなかった。
だから、もしもこの男が誰かを愛してくれるのなら––––それは、自分でなくたって構わないのだ。
だから、ペトラはハイジの見せた初めての執着に、胸を高鳴らせた。
二十年以上もかけてようやくちゃんと失恋できたことが、ペトラはなぜか嬉しくて、涙が溢れるのを止めることができなかった。
ペトラは樹海を駈けながら笑った。
ああ、あたしの青春はまだここにあったのだ。
# Hermanni
(ヒューッ!)
ヘルマンニは快哉の声を上げたい気分だった。
ヘルマンニだけは知っていたのだ––––ハイジという男が、その見た目と裏腹に、どれほどの孤独に耐えてきたかを。
ヘルマンニは、自分が人の心の中を覗くことができることを、結局師匠にしか話していない。それは、人に避けられたくないという自己防衛でもあったが、何よりも、話してしまうことで、この男がたった一人の理解者である自分に対して心を開いてくれなくなることを恐れたのだ。
ヘルマンニの行動原理は、いつだって損得勘定と仲間意識だ。
だからずっと黙っていた––––ハイジという男の心を理解し続けるために。
だが、何故かハイジに対してだけは、心の奥までは読めなかったのだ。
ハイジの心は常に固く閉ざされていて、ヘルマンニの能力を持ってしても、奥までは覗き見ることができなかった。
見えるのはいつも海みたいに深い悲しみと、岩を飲み込むかのような凄まじい孤独感だけ––––ヘルマンニは、もしかすると本当にハイジに残された感情がその二つしかないのではないかと想像し、恐怖していたのだ。
だから、ヘルマンニは浮足立っている。
ハイジが初めて独占欲を剥き出しにしたことを。
あと二日足らずで死ぬ親友。
最期だから素直になれたのか、あるいは見えづらかっただけで、本当はずっと心の奥に大切に隠されていたのか。
どちらでも構いはしない。
(もうすぐ死んじまうらしいけどさ、お前)
(別にいいじゃねぇか、なぁ?)
生きるとか死ぬとか。傭兵である自分たちにとってはどうでも良いことだ。
そんなことよりも、愛を知ることのほうがよほど重要だ。
客を取ったことはないとはいえ、ヘルマンニは元男娼である。
貴族に売り払われるまでに様々に体を改造されたし、仕込まれてもいる。
男と寝たことはついぞなかったが、この世界ではそんなことは無関係に、男娼は蔑まれる。自分としては何一つ恥るところはないと思っているが、家族ができれば家族が蔑まれることはさけられない。
故に、ヘルマンニは恋はしないと心に誓っている。
(でもよ、ハイジ。お前は恋をしたっていいんだぜ?)
(いつも不機嫌そうにしてるけどよ……本当はお前、甘えたかったんじゃねぇか?)
そういえば、とヘルマンニは思う。
(ずっと昔だけど、ペトラのことが好きだったんだよな、俺)
(俺の過去を知っても何一つ態度を変えなかった、我儘で乱暴で可憐なペトラに––––いつか甘えてみたいと思ってたっけ)
リンをとっ捕まえて、全部が済んだら、ハイジがくたばっちまう前にもう一度だけ、昔みたいにみんなで馬鹿をやろう。
いつものメンバーにリンも加えて、なんならとっときの黍酒を呑ませてやってもいい。
そしてヘルマンニは思う。
あれが俺にとっての青春だったのかね––––と。
# Lynn
「なんなの?! なんなのよっ!?」
おかしい。絶対おかしい。
どうして何もかも先回りされるのだ。
一瞬気配を感じたから後ろを振り返ると、その瞬間に頭上から網が振ってくる。
矢に狙われる。一切の気配をまとわない、あたしにとっては不可視な矢だ––––なのに、射主の方を向くと何故か木が倒れてくる。
どこかに誘導されているに違いない。そう気づき、予想を外すためにランダムに逃げる方向を変えてやる。––––まいたと思って身を潜めようと大木に身を隠そうとした瞬間、ロープでできたトラップが発動してぶら下げられる。
何もかもが裏目に出て、何もかもが意識の外から襲ってくる恐怖!
「きゃーっ! きゃーっ! きゃーっ!」
おかしい! どう考えてもおかしい!
相手は一体どんな奴なんだ!?
裏をかいても、素直に行動しても、全て先回りされている!
あたしの脚力なら、どんな敵だろうが、一瞬で置き去りにできるはずなのに、抗いようもなく森の奥へ奥へと追いやられている!!
「ハァッ! ハァッ! ハァッ!」
息が上がる。
何時間走り回ろうが、息が切れない程度の身体能力はあるつもりだったのに。
だが、予想外に予想外が重なり、混乱と緊張、ついでにトラップの山に翻弄されて、体力がガンガン削られていく。
ひゅ、と音がする。
ビクッとしてそちらを向くと、ただピンと張られたロープが波打っているだけだ。
は? と思った瞬間に、足元から輪になったロープが現れる。
あらゆるトラップが、完全に意識の外からやってくる!
全ての警戒が全くの無意味!
「いやーっ!」
慌ててロープをナイフで切ろうとしたら、あっさりナイフが持っていかれた。
高速移動する生の蔦で出来たロープを、こんな短剣で断とうとしたのが間違いだった。
「しまっ……!」
ナイフは二本しかないのだ。武器を半分なくしてしまうと後がなくなる。
慌てて取り戻そうとした瞬間、目の前を矢が通り過ぎた。
「ひっ!?」
何の殺気もなかった!
しかも、厭らしいことにさっきからどの攻撃も絶対にあたしに当たらないのだ。
当てようとしたなら、いつだって当てられるはずなのに!
ひたすらあたしの精神力を削るだけ!
なんって性格の悪い……!!
「何なのよ……ッ!?」
魔物化しようが、魔術が使い放題だろうが、人間離れした膂力を手に入れようが、剣で斬られれば死ぬし、矢で射られれても、丸太で殴られても死ぬ。
再生速度が何倍にもなっているので、即死しなければ大丈夫かもしれないが、試すわけにもいかない。
つまり気を抜くことは一切できないということ––––!
「一体誰なのよ! 姿を見せなさいよ!」
心が折れかけたその時だった。
遠くから ゴォーー……ン、と、お寺の鐘のような、低く、お腹に響く金属音が聞こえた。
同時に、バキバキ、メキメキ、と木が倒れる音。
ゴォーー……ン。バキバキバキ。
ゴォーーー………ン。メキメキメキ。
ゴォーーーー…………ン。ゴゴゴゴゴ。
音は段々と近づいてくる。
「なに?! なんなの!?」
ゴォォォォォォォオオオオオオン。
すぐ目の前で大きな音がして、バキバキバキバキ、と巨大な枯れ木があたしに向かって倒れてくる。
「……は?」
呆然と見上げる。
一瞬遅れて気づく。
このままだと潰されて死ぬ!
「か、かか、加速ーっ!!」
思わず加速した瞬間、風景が高速で流れる。
加速を使うと、跳ね上がった脚力をコントロール出来ない!
(しまっ……!?)
「ぎゃぅん!」
倒木からは逃げ切ったものの、別の木に激突した。
絶息。体の奥で、骨が折れる音が響く。
「あ……! ぐ……!」
体からシューシュー湯気が上がっている。どうやら自動的に補修してくれているらしいが、おそらく魔素に直接触れているかどうかの違いだろう。表層の怪我と違い、内部的な怪我は治りが遅い。
「……う、ぐっ……」
なんとか立ち上がると、すぐ近くに人の気配––––そして「やあ」とでもいうような気軽な態度で声をかけられた。
「良い様じゃないか、リン」
そこには見慣れた顔がいた。
「……ペトラ?!」
いつもの給仕服ではなく、冒険者らしい居で立ち。
ひっつめてまとめていた三編みは動きやすくたらされている。
見れば、ペトラの両拳からも、あたしと同じように湯気が上がっている。
「ああ、これかい? 力点ずらしの究極系でね。投石機っていうんだ」
そう言って、ペトラは近くにある木をぶん殴る。
ゴォォォォオオン!
重低音が鳴り響き、殴られた木があっさりと倒れていく。
「……とまぁ、ちょっと派手な音が出るんで、隠密的な行動はできないんだけどね」
「……どうして」
「でも、なかなかいい能力だろう? どうせなら二つ名だって『重騎兵』なんかじゃなく『投石機』にしてくれりゃよかったのに」
「……どうして! ペトラがここにいるの?!」
こうしている間にも、体の不調は修復されていく。
恐るべき速度だ。『魔物の森』のヴィヒタだってここまでじゃない。
「どうしてって、アンタを捕まえるために決まってんだろ」
「……ほっといてよ」
「馬鹿言いなさんな」
「あたしをどうするつもり?」
「連れて帰る」
「は……」
馬鹿なのか。
馬鹿なのか!
「帰れるわけ無いでしょ! 見てよ、この角!」
「あたしがへし折る」
「そんなのっ! 何度も試した! 痛いだけで……またすぐに生えてくる! もうあたしは人間じゃないんだ! 魔獣なんだっ! 帰れるわけないっ!」
「うるさい子だね! だったらあたしを斃して逃げりゃあいいだろう! 何ためらってんだい?! 魔獣なんだろう? じゃあ––––目線が通ればかかってこないと嘘だね!」
「なっ?!」
ペトラはニヤッと黒い笑顔を浮かべて、「かかってこい」と手をクイッと動かす。
「アンタがどれくらいご立派な魔獣なのか……『重騎兵』ペトラ様が推し量ってやるさ。かかってきな」
「……後悔してもしらないから」
「手を抜きまくったゲンコツ一つで転げ回ってたヒヨッコが大口叩くじゃないか」
「……殺しはしない。でもちょっと眠ってもらうよ、ペトラ」
睨み合う。
「悪く思わないでね」
「悪く思わないでね」
あたしはペトラを倒すために、地面を蹴った。
ハイジが矢を放った瞬間、『魔物の森少年傭兵団』の全員はそれこそ矢のように即座に行動を開始した。
放たれた矢は止められない––––ヴォリネッリに於ける「取り返しがつかない」といった意味の慣用句だ。射ってしまったものはしかたない。考えている時間で、最善を尽くす。その程度の事ができない者はここには居ない。
「誰っ!?」
リンが戦闘態勢に入った。
# Jouko
ヘルマンニの目を通してそれを見たヨーコは舌を巻く。
これは本当に寸前までメソメソと泣いていた小娘なのか、と。
吊り目気味な大きな目は更に大きく見開かれ、燃えるような闘志を湛えている。薄く唇を開き、覗く歯は固く食いしばられている。ざんばらに切られた黒髪は獅子の鬣のように広がり、切り欠けのある耳をそばだててあたりの音を拾っているのがわかる。
額の角が、ゆっくりと捻れながら長く伸びていく。禍々しくも美しく、それは少女の有り様に凄まじくよく似合っている。
その角に濃密な魔素がまとわりついている––––なるほど、これは確かに魔獣だ。それもハイジの言う例外級どころか、これでは特例級にすら値する。
ハイジが『魔物の森少年傭兵団』に助けを求めたのは僥倖だった––––そもそも他の連中では意味を成さないが、仮に大規模な討伐隊を組んだとしても、到底勝てる気がしない。英雄と呼ばれる四人が揃ってこれだ––––一人でも欠けたらどうしようもない。
(だが……)
クク、とヨーコは偽悪的に笑う。
残念ながら、俺たちは一人も欠けずにここにいる。
逃げられるものなら逃げてみるがいい––––『魔物の谷』の近くのこの森は、師匠から何度「危険だから立ち入るな」と止められても決してこっそり入るのをやめなかった、おれたちの遊び場だったのだ。高効率に経験値を稼いでハイジやペトラがあの体躯を手にした場所であり、能力を失った俺が戦う力を取り戻した場所でもある。
(まさかこのタイミングでまたここで集まることになろうとは)
《図られたかのようで、気味が悪い。都合が良すぎる––––これが運命というやつなのか?)
運命などという理不尽を、ヨーコは認めていない。
だが、今回に限ってはそれでいい。
(俺たちの庭で鬼ごっこか。面白い)
(せいぜい楽しませてもらおうじゃないか)
ここには、俺の青春が眠っている。
# Petra
「––––俺だ」
その言葉を聞は、ペトラの胸を強くときめかせた。
ペトラは考えることが得意ではない。故に理由は自分でもわからない。
ただ––––なぜだかようやく報われたような気持ちになったのだ。
少女時代、ペトラは、結局一度もハイジに気持ちを伝えることはなかった。
それは大きな目的を持ったハイジの邪魔になりたくないということでもあったが、何よりも、拒否されることが怖かったからだ。
怖れたのは、愛を受け入れられないこと自体がではない。
ハイジという男に、もしも自己を愛する気持ちがなかったら、という恐怖だ。
自分が愛されないだけなら構わない。ただの失恋だ。自分勝手に悲しんで、一晩泣いてスッキリすればいい。
でも、この男にはすでにそうした個人的な感情など無くなっていて––––つまりは、もうとっくに壊れてしまっているのではないか。
もし、ハイジが誰のことも愛せないというのなら––––自分などがハイジに一体何をしてあげられるというのか。
目的のためだけに、まるで何かの道具みたいに生きているハイジ。
自己犠牲などという美しい感情ではなく、どこか病的な情熱に突き動かされているように見えるのだ。
一途で、ひたむきで、真っ直ぐで……でも、それは言い換えれば、何時も必死で、死にもの狂いで、永遠に報われないということでもある。
この男が癒やされる日は来るのだろうか。
報われる日は来るのだろうか。
いつも険しい顔をしたこの男の悲しい生き方に、ペトラは耐えられなかった。
だから、もしもこの男が誰かを愛してくれるのなら––––それは、自分でなくたって構わないのだ。
だから、ペトラはハイジの見せた初めての執着に、胸を高鳴らせた。
二十年以上もかけてようやくちゃんと失恋できたことが、ペトラはなぜか嬉しくて、涙が溢れるのを止めることができなかった。
ペトラは樹海を駈けながら笑った。
ああ、あたしの青春はまだここにあったのだ。
# Hermanni
(ヒューッ!)
ヘルマンニは快哉の声を上げたい気分だった。
ヘルマンニだけは知っていたのだ––––ハイジという男が、その見た目と裏腹に、どれほどの孤独に耐えてきたかを。
ヘルマンニは、自分が人の心の中を覗くことができることを、結局師匠にしか話していない。それは、人に避けられたくないという自己防衛でもあったが、何よりも、話してしまうことで、この男がたった一人の理解者である自分に対して心を開いてくれなくなることを恐れたのだ。
ヘルマンニの行動原理は、いつだって損得勘定と仲間意識だ。
だからずっと黙っていた––––ハイジという男の心を理解し続けるために。
だが、何故かハイジに対してだけは、心の奥までは読めなかったのだ。
ハイジの心は常に固く閉ざされていて、ヘルマンニの能力を持ってしても、奥までは覗き見ることができなかった。
見えるのはいつも海みたいに深い悲しみと、岩を飲み込むかのような凄まじい孤独感だけ––––ヘルマンニは、もしかすると本当にハイジに残された感情がその二つしかないのではないかと想像し、恐怖していたのだ。
だから、ヘルマンニは浮足立っている。
ハイジが初めて独占欲を剥き出しにしたことを。
あと二日足らずで死ぬ親友。
最期だから素直になれたのか、あるいは見えづらかっただけで、本当はずっと心の奥に大切に隠されていたのか。
どちらでも構いはしない。
(もうすぐ死んじまうらしいけどさ、お前)
(別にいいじゃねぇか、なぁ?)
生きるとか死ぬとか。傭兵である自分たちにとってはどうでも良いことだ。
そんなことよりも、愛を知ることのほうがよほど重要だ。
客を取ったことはないとはいえ、ヘルマンニは元男娼である。
貴族に売り払われるまでに様々に体を改造されたし、仕込まれてもいる。
男と寝たことはついぞなかったが、この世界ではそんなことは無関係に、男娼は蔑まれる。自分としては何一つ恥るところはないと思っているが、家族ができれば家族が蔑まれることはさけられない。
故に、ヘルマンニは恋はしないと心に誓っている。
(でもよ、ハイジ。お前は恋をしたっていいんだぜ?)
(いつも不機嫌そうにしてるけどよ……本当はお前、甘えたかったんじゃねぇか?)
そういえば、とヘルマンニは思う。
(ずっと昔だけど、ペトラのことが好きだったんだよな、俺)
(俺の過去を知っても何一つ態度を変えなかった、我儘で乱暴で可憐なペトラに––––いつか甘えてみたいと思ってたっけ)
リンをとっ捕まえて、全部が済んだら、ハイジがくたばっちまう前にもう一度だけ、昔みたいにみんなで馬鹿をやろう。
いつものメンバーにリンも加えて、なんならとっときの黍酒を呑ませてやってもいい。
そしてヘルマンニは思う。
あれが俺にとっての青春だったのかね––––と。
# Lynn
「なんなの?! なんなのよっ!?」
おかしい。絶対おかしい。
どうして何もかも先回りされるのだ。
一瞬気配を感じたから後ろを振り返ると、その瞬間に頭上から網が振ってくる。
矢に狙われる。一切の気配をまとわない、あたしにとっては不可視な矢だ––––なのに、射主の方を向くと何故か木が倒れてくる。
どこかに誘導されているに違いない。そう気づき、予想を外すためにランダムに逃げる方向を変えてやる。––––まいたと思って身を潜めようと大木に身を隠そうとした瞬間、ロープでできたトラップが発動してぶら下げられる。
何もかもが裏目に出て、何もかもが意識の外から襲ってくる恐怖!
「きゃーっ! きゃーっ! きゃーっ!」
おかしい! どう考えてもおかしい!
相手は一体どんな奴なんだ!?
裏をかいても、素直に行動しても、全て先回りされている!
あたしの脚力なら、どんな敵だろうが、一瞬で置き去りにできるはずなのに、抗いようもなく森の奥へ奥へと追いやられている!!
「ハァッ! ハァッ! ハァッ!」
息が上がる。
何時間走り回ろうが、息が切れない程度の身体能力はあるつもりだったのに。
だが、予想外に予想外が重なり、混乱と緊張、ついでにトラップの山に翻弄されて、体力がガンガン削られていく。
ひゅ、と音がする。
ビクッとしてそちらを向くと、ただピンと張られたロープが波打っているだけだ。
は? と思った瞬間に、足元から輪になったロープが現れる。
あらゆるトラップが、完全に意識の外からやってくる!
全ての警戒が全くの無意味!
「いやーっ!」
慌ててロープをナイフで切ろうとしたら、あっさりナイフが持っていかれた。
高速移動する生の蔦で出来たロープを、こんな短剣で断とうとしたのが間違いだった。
「しまっ……!」
ナイフは二本しかないのだ。武器を半分なくしてしまうと後がなくなる。
慌てて取り戻そうとした瞬間、目の前を矢が通り過ぎた。
「ひっ!?」
何の殺気もなかった!
しかも、厭らしいことにさっきからどの攻撃も絶対にあたしに当たらないのだ。
当てようとしたなら、いつだって当てられるはずなのに!
ひたすらあたしの精神力を削るだけ!
なんって性格の悪い……!!
「何なのよ……ッ!?」
魔物化しようが、魔術が使い放題だろうが、人間離れした膂力を手に入れようが、剣で斬られれば死ぬし、矢で射られれても、丸太で殴られても死ぬ。
再生速度が何倍にもなっているので、即死しなければ大丈夫かもしれないが、試すわけにもいかない。
つまり気を抜くことは一切できないということ––––!
「一体誰なのよ! 姿を見せなさいよ!」
心が折れかけたその時だった。
遠くから ゴォーー……ン、と、お寺の鐘のような、低く、お腹に響く金属音が聞こえた。
同時に、バキバキ、メキメキ、と木が倒れる音。
ゴォーー……ン。バキバキバキ。
ゴォーーー………ン。メキメキメキ。
ゴォーーーー…………ン。ゴゴゴゴゴ。
音は段々と近づいてくる。
「なに?! なんなの!?」
ゴォォォォォォォオオオオオオン。
すぐ目の前で大きな音がして、バキバキバキバキ、と巨大な枯れ木があたしに向かって倒れてくる。
「……は?」
呆然と見上げる。
一瞬遅れて気づく。
このままだと潰されて死ぬ!
「か、かか、加速ーっ!!」
思わず加速した瞬間、風景が高速で流れる。
加速を使うと、跳ね上がった脚力をコントロール出来ない!
(しまっ……!?)
「ぎゃぅん!」
倒木からは逃げ切ったものの、別の木に激突した。
絶息。体の奥で、骨が折れる音が響く。
「あ……! ぐ……!」
体からシューシュー湯気が上がっている。どうやら自動的に補修してくれているらしいが、おそらく魔素に直接触れているかどうかの違いだろう。表層の怪我と違い、内部的な怪我は治りが遅い。
「……う、ぐっ……」
なんとか立ち上がると、すぐ近くに人の気配––––そして「やあ」とでもいうような気軽な態度で声をかけられた。
「良い様じゃないか、リン」
そこには見慣れた顔がいた。
「……ペトラ?!」
いつもの給仕服ではなく、冒険者らしい居で立ち。
ひっつめてまとめていた三編みは動きやすくたらされている。
見れば、ペトラの両拳からも、あたしと同じように湯気が上がっている。
「ああ、これかい? 力点ずらしの究極系でね。投石機っていうんだ」
そう言って、ペトラは近くにある木をぶん殴る。
ゴォォォォオオン!
重低音が鳴り響き、殴られた木があっさりと倒れていく。
「……とまぁ、ちょっと派手な音が出るんで、隠密的な行動はできないんだけどね」
「……どうして」
「でも、なかなかいい能力だろう? どうせなら二つ名だって『重騎兵』なんかじゃなく『投石機』にしてくれりゃよかったのに」
「……どうして! ペトラがここにいるの?!」
こうしている間にも、体の不調は修復されていく。
恐るべき速度だ。『魔物の森』のヴィヒタだってここまでじゃない。
「どうしてって、アンタを捕まえるために決まってんだろ」
「……ほっといてよ」
「馬鹿言いなさんな」
「あたしをどうするつもり?」
「連れて帰る」
「は……」
馬鹿なのか。
馬鹿なのか!
「帰れるわけ無いでしょ! 見てよ、この角!」
「あたしがへし折る」
「そんなのっ! 何度も試した! 痛いだけで……またすぐに生えてくる! もうあたしは人間じゃないんだ! 魔獣なんだっ! 帰れるわけないっ!」
「うるさい子だね! だったらあたしを斃して逃げりゃあいいだろう! 何ためらってんだい?! 魔獣なんだろう? じゃあ––––目線が通ればかかってこないと嘘だね!」
「なっ?!」
ペトラはニヤッと黒い笑顔を浮かべて、「かかってこい」と手をクイッと動かす。
「アンタがどれくらいご立派な魔獣なのか……『重騎兵』ペトラ様が推し量ってやるさ。かかってきな」
「……後悔してもしらないから」
「手を抜きまくったゲンコツ一つで転げ回ってたヒヨッコが大口叩くじゃないか」
「……殺しはしない。でもちょっと眠ってもらうよ、ペトラ」
睨み合う。
「悪く思わないでね」
「悪く思わないでね」
あたしはペトラを倒すために、地面を蹴った。
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