或る新聞配達員の失恋

根本外三郎

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或る新聞配達員の失恋

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 平成二十二年五月の肌寒い夜。集合団地内の道を原付バイクで疾走する青年の姿があった。彼の名は、江本耕一郎。あと一週間程で十八歳となる、まだ十七歳の若者であった。耕一郎は今新聞配達を行っている最中である。この年の四月から耕一郎は新聞配達のアルバイトを始めた。彼なりに訳があってこのアルバイトを始めたのだった。故に、彼は肌寒い夜道をひたすら走り、新聞を配る。
 その年の三月まで彼は高校生だった。「だった」という事なので、今は違う。彼は高校を中退したのである。耕一郎が通っていた高校は西武新宿線沿いにある、あるバスケット漫画の校舎の、モデルになった校舎がある高校として有名だった。その高校は、ほとんどの生徒が現役で大学に進学し、結構な進学実績を毎年挙げていたのでおそらく進学校の部類に入る学校だ。耕一郎もそんな高校の生徒であったので、順調に行けば順当に大学へ進学するはずではあった。しかし、そうはならなかったのである。 
 高校時代の耕一郎にとって辛かった事は登下校であった。もちろんよくありがちな、「一緒に行き帰りする友達がいなくて寂しい。」といったような感情を耕一郎は持ち合わせていない訳ではない。特に耕一郎は高校で部活動をしていなかったから、そのような仲間に対しての不満足感はよく感じていた。しかし、その程度で耐え難い辛さを感じる事はなかった。耕一郎が結局のところで乗り越えられなかったのは女の存在であった。下校中、高校の最寄り駅近くのバス停の脇を通る時、前方に駅舎へ昇るエスカレーターが覗ける。何の変哲もないそのエスカレーターであったが、そこにカップル、それも高校生カップルを組み合わせると大分事情が変わってくるのだ。耕一郎がそのバス停脇を通り、駅舎の方へ顔を向けると、必ずと言っていい割合で、前方にエスカレーターへ向かう高校生カップルを見かけた。冬は揃いのマフラーをお互いに巻き、夏はどちらかが、どちらかを団扇で仰ぎながら、カップルはエスカレーターへ向かうのだ。そして、季節を問わず必ず互いに手を繋いでいる。そうしてカップルは笑顔で話しながらエスカレーターに乗り駅舎へ昇っていくのだ。エスカレーターはガラス窓越しに透けて見えるので、その楽しそうなカップルの高低差(男は大抵一段上に乗り女を見下ろしている)を駄目押しのように、耕一郎は見せつけられたのが苦痛だった。この不愉快極まりない瞬間を耕一郎は何度体験した事だろうか。それら高校生カップルはいずれも制服が耕一郎と同じだったので、おそらく同じ高校に通う生徒だったのだろう。同じ時期に同じ高校へ通っているのに、人生に対する充実度の違いがある。その事をどう理解し克服していけばいいのか、その方法を耕一郎はその時まだ会得出来ていなかった。
 当時の耕一郎を悩ませていた事に進路の問題もある。耕一郎は高校二年生の秋になっても文系か理系かの選択が明確に出来ていなかった。高校二年生の春の文理選択コースは理系を選んでいた。その理由は簡単だった。高校二年生の秋の最終文理選択で、理系からの文転は可能だがその逆はほぼ不可能だったので、後でまた選べるようにとりあえず理系を選んだというだけの理由だった。このような勉学に対する消極性もあってか、耕一郎の高校での学業成績は振るわなかった。毎回の定期テスト事に赤点を続出させ、課題を提出し、担当教師に頭を下げる事で何とか居場所を保っていた。その場しのぎであった。そして高校を辞める間際になると、耕一郎はテストの試験中に周囲の鼻水をかむ音やペンをいじくる音が気になり出し試験に集中出来なくなっていた。同級生には気味悪がられた。ただでさえ、部活もしていなく赤点を取りまくっているのに、ここまでくると触らぬ神に祟りなしといった雰囲気を匂わす存在へと変貌していた。そうして、学校に居場所を完全になくした耕一郎は終に高校二年生の三月に高校を中退した。この高校に通わなければこうはならなかったかもしれない。しかしこの高校を選んだのは自分なのだから仕方がない。退学書類を提出したのは、終業式間際の快晴のぽかぽか陽気の日。母親も同伴し、担任の先生と最後の面談を終えた彼は、十七歳にして社会のレールから脱線してしまったのだ。
 しかしながら耕一郎は高校中退者にありがちな、高校を辞めてヤンキーになるといったような選択を選ばなかった。彼自身が真面目気質で不良行為を好まないという事もあったが、それ以上に耕一郎は一度高校を中退したぐらいで人生を諦め、やさぐれるような事をしたくない気持ちが強かった。耕一郎はもっと大胆にそして、格好良く生きたいのだ。耕一郎が欲しがるその格好良さとは、若い女にモテたいがために身に着ける、流行的で最先端の服装でも、都会的で無駄がない言動でもない。それは、ひたすらに自分の理想像や目標に向かって突き進む潔さのようなものだといえるだろうか。耕一郎は男が男に惚れるような本物の男でありたいといつも強く願うのだ。またこの事に限らず、耕一郎は己一個の意思で自分の価値観を絶対的に結論付けたかった。彼は頑固な一面を持つ男なのである。だから、たかが高校生活に失敗したぐらいで、世間からは「落伍者」の烙印を押されようとも、へこたれているような時間は彼には必要がない。だから高校を辞めてから三週間ぐらいで、彼はすぐに通信制高校に通い始めるか、高卒認定試験を受ける事を考え始めていた。やり直しだった。「通信制高校に行くならまとまった金が必要だ。そして、大学にも進学するなら学費も稼いでみたい。」そう思い立ち、アルバイトをし始めたくなっている程であった。自分でもこの打たれ強さには少々驚いた。母親は「学費なら心配いらないのよ。」など、耕一郎に言ってきたが、決意は変わらなかった。通信制高校の学費だけでも自分で稼いでみたかった彼は、最終的に両親も背中を押してくれたので今夜道を原付バイクで走っているのだ。
 新聞配達のアルバイトを選んだ理由は単に「採用されやすいだろう」と思ったからだった。新聞配達のアルバイトが決まる前、耕一郎は様々なアルバイトに応募してみたが、どこにも採用される事はなかった。拙い字でしかし懸命に書いた履歴書を持って、慣れない緊張した表情を作りながらバイトの面接に行ったが、どこも反応は芳しくなかった。当たり前だと言えば、当たり前の話ではある。そのあたりでは、一応進学校として名の知られた高校を、つい先月に中退したばかりの若者なのだ。そういった問題人物を素直に雇おうとする面接担当者はなかなかいなかった。耕一郎は事あるごとに「なぜ高校を辞めたのか?」と聞かれたが、上手く答える事が出来なかった。その問いと耕一郎のしどろもどろな答えによって、面接時に起きる不安定な雰囲気が災いしたのだろうか。耕一郎はアルバイトにひたすら落とされ続けたのだった。
 だが「もうアルバイトをするのはよそうか」と思った頃合いに、成り行きが変わるきっかけが起きた。耕一郎の中学の時の同級生で新聞配達のアルバイトをしている者があったのだ。そいつも耕一郎と同じく高校を中退していて、偶然近所の道端で出くわし、互いの近況を語らう中でその事を知ったのである。「俺、新聞配達の面接で高校を中退した事について、何も聞かれなかったぜ」と彼は言った。耕一郎はその場でその話を信じ、その同級生が働いている新聞店とは違う、近所の新聞店に面接に行ってみようと思った。藁にもすがる思いで早速家へ戻り、インターネットを使い、近所で新聞配達のアルバイトを募集していないかどうか彼は探し出し始めた。近所にはなかったが、隣町では募集していた。耕一郎は乾坤一擲の大勝負にでも望むつもりでその新聞店にすぐ電話をして、履歴書を書き始めたのだった。
けれどもその新聞店の面接では恐ろしい程何も聞かれなかった。
「いつから入れる?」
「いつからでも大丈夫です」
「朝夕刊両方出来る?」
「出来れば、朝刊だけがいいですね」
「はいはい。朝刊だけでね。
 じゃあ週五日間位出来そう?」            
「はい。出来るし、やりたいです」
「原付の免許は持っている?」
「持っていますけど、ほぼペーパードライバーです。
 取ってから一年半位経ちますけど、それからほとんど運転して
 いないので」
「じぁ、練習しなきゃだめだな(笑)。来週の火曜に来いよ。
 先輩と原付の練習しといてくれ。すんなり乗られそう 
   だったら、仕事をやってもらうから」
「ということは、採用ですか?」
「うん。採用です」
 その面接では、所長が煙草を吸いながら質問してきた事にも驚かされたが、何より開口一番、「いつから入れる?」と聞いてきた事に耕一郎はひどく拍子抜けした。たぶん採用されるだろうと踏んでいたが、それでも耕一郎は多少なりとも気負っていたのだから。それがポンポンと話が進み、あっさりと新聞配達員として採用されてしまった。その後所長に言われた通りに先輩と運転の練習をして、四月の末には集合団地の一つの区画の配達を始める事が出来たのだった。
 この日も、耕一郎は集合団地内を原付バイクで忙しく移動していた。もう五月だというのに、空気は冷たく肌寒い。ただ、雨が降っていない事が救いではある。「早く配り終わって寝たい」と耕一郎は眠ってしまいたいが必死に新聞を各団地の各ポストへ突っ込んでいく。これまで耕一郎は新聞配達を十回程度経験したが、まだ仕事そのものにも新聞店の雰囲気にも慣れてはいなかった。朝刊の配達は眠気と天候との闘いである。仕事は午前一時半に新聞店に集合し、タイムカードを押すところから始まる。しかしこの時点で最早耕一郎は眠たくなっている。必ず仕事の前に睡眠を取ってくるのだが、必ずあくびが出る。そしてそこには、中年の汚い服装のおっさん達が集まっており、耕一郎のような十代の若者はいない。午前一時五十分頃に新聞を積んだトラックが到着するまで自由時間であったが、煙草を吸いながら賭け事の話で盛り上がっているおっさん達の輪の中に耕一郎は入ろうとしなかった。煙草嫌いだった事もあるが、新聞店のあの、うらぶれた雰囲気が、耕一郎は少し苦手だったからだ。男臭いのは嫌いではない。ただ、煙草を吸いながら賭け事の話をする姿に彼は未来や面白さを感じないのである。例えるなら新聞店の雰囲気は、インディープロレス団体の控室のような空気感がある。そういった老残の哀愁のようなものを匂わせる雰囲気に魅力を見出すセンサーを、耕一郎はまだ持ち合わせてはいないのだった。若い彼が強く求める魅力は、わかりやすさであり、新鮮さであったが、それを新聞店に求めるのは酷な話であったろう。その後、新聞を積んだトラックが来ると、配達員全員で新聞を積み下ろし、それぞれが自分の作業机へ新聞を置いていく。そして、それぞれの作業机の下の棚に置いてあるチラシを取り出し、各人は黙々と新聞にチラシを折り込んでいくが、耕一郎はこの作業が最初はかなり不得意であった。素手でチラシをつんでそれを新聞の中に折り入れようとするのだが、チラシがつるつる滑ってなかなか入らない。てこずっている様子を察してくれた隣にいる六十半ばぐらいの先輩が「指サックを使うといい。」と親切に教えてくれたので、それを付けて次の出勤日に実行に移すと、素手の時に比べ遥かに入れやすくなった。今では最初に比べ、大分早くチラシを新聞に入れられるようになったが、先輩方に比べるとまだまだ遅いのだった。そして、だいたい百七十部のチラシ入り新聞を作るだろうか。スポーツ新聞も必要枚数原付バイクの籠に入れ、荷台に、作ったチラシ入り新聞を積んで結局耕一郎が、すべての配達の準備作業を終え、新聞店を出るのはいつも午前三時近くになってしまっているが、先輩達の多くはとうに、新聞店を出てしまっている。雨の日などは、新聞をビニールで巻かなければならないので、出発は余計に遅れてしまっていた。耕一郎はせめて午前二時半には準備作業を終えて新聞店を出発出来るようになりたいと、一人張り切るのだった。
 あと二つの号棟の団地に新聞を入れれば、今日の配達は終わりだった。しかし、団地のエレベーターは深夜から早朝にかけて各階に止まるので、非常にイライラするし時間がかかる。例えば、五階建ての五階に行こうとしても、一階、二階、三階、と各階に止まりながら五階に上がるのだ。耕一郎は逸る気持ちを抑えきれず、残りの二つの号棟の団地は階段を使って昇る事に決めた。幸い、その二つの号棟の団地には四階以上に昇り新聞を入れる部屋がなかったので、出来ない事はなかった。階段を一段飛ばししながら耕一郎は新聞を部屋のポストへ入れていく。この号棟に限らず、団地の部屋のポストはかなり粗末でぼろくなっている。それらのポストは金属で出来ていて、老朽化したものだとポストの口が少し尖ったように変形しているものもあった。強引に新聞をそんなポストに入れようとすると、新聞が破れる恐れがある。だから耕一郎は、気を付けながらチラシ入りの新聞を二つ折りにして、ポストへ入れていった。階段を上り下りしながら配達しても、こうした単調な作業はだるいから退屈で眠くなってしまう。しかし、「与えられた仕事はきっちりこさなければ。」などと、要らない責任感を感じて丁寧に新聞を入れていくのだった。そうして大きなあくびをしながら、最後の新聞をポストへ入れ終えた彼は、早速ズボンのポケットから携帯を取り出して時間を確認した。時間は午前五時四十分となっている。これは上出来の成績である。今まで配達した中で、新記録であった。上機嫌になった耕一郎は、余った新聞を荷台から原付バイクの籠に投げ込んだ。急いで耕一郎は原付バイクを走らせ、新聞店に向かった。新聞店は集合団地から原付バイクで約三分程の距離のところにある。新聞店についた彼は、原付バイクを所定の場所へ丁寧に駐車し、余った新聞とチラシの片付けを行うのだった。片付けといっても、大それた事をする訳ではなく、自動でテープが出る機械を使って、それで余った新聞とチラシをまとめるだけの事であった。その作業を終えて彼ははやっとタイムカードの退勤を押せるのだった。で今日もいつものようにその最終行程をこなし、自転車に乗って彼は帰路に着いたのだった。
 この新聞店は西武新宿線沿いのとある駅の近く、というよりも駅の横にある。だからであろうか、帰りがけの早朝には、駅に向かう高校生を見かける事が多い。高校を中退したばかりの耕一郎にとって、こうして高校生を眺める事は決して気持ちの良い事ではなかった。彼らが制服を着て、学生鞄を持っている事と自分が薄汚れたジャンパーとジーンズとボロボロの軍手を身に着けている事を比較して、彼は現実に悲観するのではない。むしろ高校中退は、自分から望んでやった事だったし、この時には、その事を余り悔やんでもいなかった。嫉妬心が何よりも強い耕一郎は、通学する高校生の中にカップルを見つけ出し、やきもちを焼くのが嫌だったのだ。この日も、駅近くのコンビニで缶コーラを買おうとしたところ、店内で仲睦まじい高校生カップルと遭遇した。賢児がレジで会計を済ませている間、その後ろに並んでいた彼らは仲良く話している。
「カオリ、今日も朝からプリン食うのかよぉ。太るぜ」
「うるさいわねぇ。タカちゃんだってメロンパンを二つも買おうとしているくせに」
「俺はいいんだよ。サッカー部で朝練があるんだからさ。たまには、違うものを買ってみたら?」
「あたしは、朝はプリンがいいの。それに、あたしだって朝練やってるんだから」
「吹奏楽部のな(笑)」
「も~、一言余計なんだからぁ(笑)」
「余計だったかぁ、すまんすまん(笑)。あ、やべぇ。カオリ、五百円貸してくれよ」
「え~、こないだ貸したばっかじゃん。てか、タカちゃんの財布から千円札が何枚か見えるんだけど」
「これは今日駅で通学定期を買う分なんだよ。いいじゃねぇかよ。
 通学定期を買った後、そのおつりから二百円ぐらいならすぐ返せるよ。
 不足分は明日、映画を観に行く時に必ずこの間の分とまとめて返すからさ」
「しょうがないなぁ」                         
「だったら、タカちゃんが今、カオリちゃんから三百円だけ借りればいいじゃねぇかよ」と耕一郎は心の中でバカにして嘲った。しかし、急いで会計を済まそうとした。バカにしながらも、そんなバカ話で盛り上がれる彼らがやはり羨ましかったからだった。耕一郎は早くこの場から去りたい気持ちで一杯だった。だから会計を終えレジから少し離れると、耕一郎は二人に聞こえるぐらいの舌打ちを一度して店内を出る。
 その帰り道、自転車に乗って缶コーラを飲みつつ、耕一郎は先程のカップルの事を考えていた。耕一郎はただ、タカちゃんが羨ましかった。ああやって、カオリなる彼女と毎日一緒に仲良く登校しているのであったなら、尚更羨ましい。耕一郎も一度でいいから、ああして自分と同じような年頃の娘といちゃついてみたかった。本来、こうした他人の幸福をやたらに羨ましがったり、もっと言えば妬んだりするような姿勢は、彼が求める生き方ではない。しかし女の事になると、彼もまた他の男達と同じように、直接的で醜い感情が現れ出すのだった。それに耕一郎はまだ、十七歳であった。溢れんばかりの性欲が、彼本来の健全な理性を超え、破壊する事は珍しくなかった。かといって、強姦をしたいとかそういった類の話になるのではない。この場合でいえば、全く見ず知らずだったが、タカちゃんを殺してやりたい程憎んだ。タカちゃんがどんな性格でどういった生き方をこれまでして来たか分からなかったが、おそらくカオリちゃんとロハで性交をしているだろう、その一点で耕一郎は、彼に嫉妬して許せなかった。これは大変疲れる事態であり、出来ればこんな思いは耕一郎だってしたくはない。彼にも彼女がいれば、こんな思いはせずに済むのだろうが、もちろん耕一郎に彼女はいないし、これまでもいなかった。高校在学中は下校中に限らず、校内でもカップルをただ見ているだけであったし、高校を辞めてからもそういった傾向にまだ変化はなかった。ただ耕一郎だって、行動を起こさず、ただやっかんでいるだけではなかった。高校在学中、行動が早い耕一郎は、気になった女子には素直に直接告白していった。しかし、全く駄目であった。フラれた理由は全て「他に好きな人がいるから。」であった。ただ彼なりに理由を考えてみるに、それだけではないだろう気はしていた。まず、思いあたるのは、部活動をしていなかった事であろうか。耕一郎は高校入学後すぐに、水泳部に入部したもののさしたる活動もせず三か月で退部した。その後は、ずっと帰宅部であった。退部したのは、一年先輩とのつまらない喧嘩が原因だった。更に部活動を早々に辞め、帰宅部となってしまった事で、高校で同性の学生との交流が極端に少なくなった。同性の学生との交流がなくなってしまえば、当然のように異性の学生(学年を問わず)との交流がなかった。要は、高校に耕一郎にとって、友達と呼べるような人間はいなかったのである。そういった状況下にいれば、恋愛関係は発生しづらかった。次に思うのは、彼のファッションセンスの問題であろうか。元々耕一郎は洋服をあまり着ない。彼が私服として好むのは明治や大正に存在していたような、書生のような和服姿である。夏目漱石の「坊ちゃん」や「三四郎」の世界観から抜け出してきたような恰好で、耕一郎は街を歩く。傍から見ればコスプレとしか思われないような雰囲気を匂わせていたがおそらく耕一郎のこうした、ファッションにおいても協調する事が苦手な姿勢が女を遠ざけているのだろう。ただ、この耕一郎の和服好きが彼のこの後に大きな変化をもたらすのであったのだが。やがてそんな事を考えているうちに彼は家に着いた。母親が作ってくれた朝飯(納豆ご飯とじゃがいもとほうれん草の味噌汁)を食べて彼は寝た。
 その後なんとはなしに日々は過ぎ、五月が終わった。彼は十八歳になってしまった。十八歳になった事が唯一もたらした嬉しい変化は、漫画喫茶のナイトパックが堂々と利用出来る事であった。旅行好きな耕一郎は高校在学中から夏休みなどの長期休暇には、必ず徒歩旅行をしていた。青春18きっぷなんかを利用して遠出し、気になる駅で途中下車して、思う存分見知らぬ土地を歩き回るのであった。ただ、そういった気ままな旅には、簡易で安い旅泊施設が必要不可欠であった。地方の都市部には必ず漫画喫茶があるので、利用しようとするのだったが、これまでは十八歳未満という事もあり、年齢をごまかして入店していた。漫画喫茶のナイトパックは十八歳以上だったからだ。大抵はすんなり入店出来たのだが、中には目ざとい店もあり旅の楽しい気分をぶち壊すお説教を食らう事もあった。お説教だけならまだしも警察に補導された経験もあったので「もうそんな思いはしなくていいんだ」と思うと、耕一郎はとても開放的な気分になるのだった。しかし、十八歳の月日が彼自身に与える変化はそんな事では終わらなかった。やがて二つの重大な出会いが彼に訪れる事を知る由もなく、耕一郎は新聞を配った。頭を空にして、眠い目をこすりながら、ひたすらに彼は朝刊を配るのであった。
 それからひと月が過ぎた七月の初旬。耕一郎の職場に、新しいアルバイトが入ってきた。若い奴だった。その年齢は耕一郎に近そうに見えた。おそらく、まだ十代か、もしくは二十代前半であったろう。すぐにでもそいつに話しかけたかったのだが、高校を中退して以来の久々の同世代であったため、気恥ずかしさも感じていた彼は機をうかがう事にした。この頃になると、耕一郎は仕事からの帰りに高校生の姿を目撃しても、同世代の人間とは思えないようになっていた。自分が中年男性になったような意識で、彼らを眺めていた。「若いな」という訳である。耕一郎自身も十八歳に成りたての若造であったのだったが、自分が高校へ通っていた事や在学中の事が遠い昔のように思われてきていた。たった半年も経っていない時期に高校を中退したはずだったのに、かつて自分が高校生だった実感を失っていたのだ。仕方がないといえば、仕方がなかったかもしれない。この四月から、両親といい職場の同僚といい、彼の周りにいる人間はみんな彼より大分年上で枯れ果てていたのだから。自分が若いという事に気付きにくい環境に身を置いてきたのだ。そして、夜中に朝刊を一部、一部配る事で、お金と引き換えに自分の若さを段々なくしていっているような感覚にさせられる事も良くなかった。誰も見ていない闇の中、ポストへ新聞をねじ入れる、その単調な作業が、退屈だと感じなくなる度に、若さゆえの可能性を新聞と一緒に捨てているように思えたものだった。きっとそんな状況下であったために、耕一郎は新入りのアルバイトと語り合ってみたかったのだろう。
 やがてその機会は、あっさりとやってきた。とある日の朝刊配達日、外で原付バイクに跨りながら、チラシを乗せたトラックを待っている耕一郎に、その新入りが話しかけてきたのだ。
「あの。いつもチラシを新聞に入れる時
 、チラシがツルツル滑って、手間取る
 んです。上手く手早く入れる方法はな
 いっすかね?」
少しおどおどした様子で、新入りは聞い
てきた。おそらく、耕一郎が仕事中に着
ている柄の悪そうな派手なスカジャンに
怯んでいるのだろう。
「あれ?指サックを着けてないの?」
「着けてないです。素手でやっているん
 ですよね」
「それは滑るよ。指サックを着けた方が
 いいよ」
「指サックって何ですか?」
「指サックは指サックだよ」
 どうやら新入りは、本当に指サックを知らなかったので、耕一郎は指サックの用途と販売場所を一通り説明してやった。耕一郎も新聞店に入った当初、同じような悩みを持っていたため少し可笑しかったがそこは嗤わずに相対した。そして指サックの話で打ち解け合ったからか、二人は自然に互いに年齢と名前の自己紹介をした。その新入りの名は、川口康介と云った。年齢は十九歳だった。一歳だけ年上という事だったので、耕一郎は親近感が湧いたが川口の方もそんな様子であった。もっとその場で話し込みたかったが、タイミング悪くトラックが来てしまったので、話は切り上げた。その日はそれ以上話す事が出来ず、黙々と仕事をこなすだけだったが、久しぶりに同世代の人間と会話したからだろうか、懐かしいような嬉しいような高揚感を抑えきれず、興奮気味に耕一郎は新聞を配った。こんな気分になるのは久々であった。
 それ以来、耕一郎は配達するまでの自由時間に川口とよく話すようになった。お互いに煙草嫌いであったため、自然と寄り付きやすかったという事もある。しかしそれ以上に、「同世代」という共通認識をお互いが感じやすい職場だったからだろう。川口も新聞店に入って、周りが五十代~六十代の親父世代ばかりだったので「お前に話しかけるしかなかった」などと、後々耕一郎に言ってきた程だから。耕一郎も耕一郎で川口の方が年上だったが、年齢が近かったばかりに、川口には早々にタメ口で話しかけていた。一つの年の差が気にならなくなるぐらい、耕一郎と川口の二人とその他の同僚には、年齢の差があるのだ。だから二人が仲良くなるのはとても早かった。そうして話すようになって数日後、互いの身の上話になった。
「江本、お前今年十八だろ。高校生なのか?」
川口は言ってきた。
「いや、高校は三月に中退した」 
「高校中退かぁ。また何でだよ?」
「まぁ、いろいろとあってさ。今はここ(新聞店)が俺の居場所だよ」
「格好いいなぁ、お前」
「格好良くなんかねぇよ。馬鹿にすんなよな」
「いやいや。素直に言ったんだよ。高校
 中退して、すぐに新聞配達をやるんだ
 から。たたき上げの匂いがぷんぷんじ
 ゃねぇかよ。偉くなるかもしれないぜ、
 お前」 
「お世辞にしても聞こえが悪いぞ」
 耕一郎は息巻いた。
「いや、世辞じゃねぇって」
「そうかよ。まぁ、高校中退に関しては
 突っ込んで聞いてくれるな」
「分かった」
「そんで、康介さんは何で新聞配達を始
 めたの?」
耕一郎はタメ口を聞きながらも、まださん
付けで川口の事を呼んでいた。
「学費を稼ぐためさ」
「学費?ああ、大学のか。って事は康介
 さんは大学生だったのか」
「違う。俺は浪人生だ。今年、受験に失
 敗したからな。朝刊の新聞配達をしな          
 がら、予備校に通う事にしたんだ」
「新聞奨学生ってやつ?」
「いや、新聞奨学生じゃない。あれは配
 属も新聞社が指定するし、夕刊もこな
 さなきゃいけないからさ。朝刊だけ週
 五日で入ってる」
「そっか。じゃあ、ふつうのアルバイト
 か。それで週五日朝刊だけだったら、
 全く同じもんだ」
 そこで、耕一郎は「俺も通信制高校の学費を稼ぐために新聞配達を始めたんだ」と言いかけそうになったが、止めておいた。まだ知り合ったばかりの川口に舐められてはならんと、頭が咄嗟に働いたのである。また、高校中退をした事について川口に触れて欲しくなかった事と同様に、自分が通信制高校に進学しようとしている事にも、彼は触れて欲しくなかった。通信制高校進学に関して、自分では何も恥じていないものの、世間が認識する通信制高校とは、全日制の高校で勉強についていけなかったり、問題行動を起こした奴が進学する人生の落伍者が集まる学校としか見られていない事ぐらい、十八歳の耕一郎だってよく認識していたからだ。悲惨な人生を選ぶために高校を中退し、通信制高校への進学を考えている訳ではない耕一郎にとって世間とのこの認識のギャップには、耐えられないものがあった。川口の方も耕一郎が妙な顔をしてそのあとの会話を繋ごうとしないので、話題を変えようとしてくれた。
 耕一郎が川口と話すようになってから一か月程が過ぎると、二人は配達を終えた後に駅近くのチェーンの牛丼屋に行くようになっていた。その頃はもう八月も終わろうという時期だったが、まだまだ猛暑日が続いていて暑かった。二人は牛丼を食べ熱いお茶をすすりながら、互いに言いたい事を激しく言い合った。その牛丼屋には、朝刊の配達後なのでいつも客がいなかったし、おまけに店を仕切っている店員はいつも一人で、日本語が片言の中国人だったので二人は店員には会話が悟られねぇとばかりに、やや不遜に、堂々としていた。そうして話し込んでみると、川口も耕一郎と同じで旅行好きなようであった。片方が行った事がない都道府県の場所を、行った事がある片方が感想を語るといった具合で、話が盛り上がるのだった。ある日、いつものように牛丼屋で食っていた時、川口から北海道旅行の話を聞いた。一昨年、川口が高二だった夏休み、原付バイクで二週間程、北海道をツーリングしたと云った話だった。北海道へまだ行った事がなかった耕一郎はその話を興味津々といった感じで聞き入った。
「江本は、ライダーハウスを知ってるか?」
「いや、知らない。何だよ。それは」
「格安で泊まれる簡易宿の事だよ。と云
 っても、北海道だけにたくさんあるも
 ので北海道以外には、少ないんだけど
 な。元々ツーリング愛好家のために作
 られた宿だ」
「そんなのがあるのか。知らなかった。
 で、それはいくらぐらいで泊まれるん
 だ?」
「大体、素泊まりの一泊で千円ぐらいだ
 な。中には、無料で泊まれるライダー
 ハウスもあった」
「へ~。いいな。旅行中は、ずっとその
 ライダーハウスに泊まってたのかよ」
「いや~、泊まりたかったんだが、ライ
 ダーハウスがない街もあってよ。そん
 な時は無人駅か公園で寝たよなぁ。夕
 張なんて財政破綻したばかりだったけ
 ど、とにかく人がいなかったから、堂
 々と夕張の駅で寝られたよ。札幌では
 住宅地の中にある公園で寝付こうとし
 たら、ヤンキー三人組に絡まれたっけ
 かぁ。大声で怒鳴り散らしてやったら
 逃げたんだよ」
「ヤンキーがかぁ?」
「いや、俺がだよ」
川口は照れくさそうに笑いながら言うの
だった。
 耕一郎も一緒に笑ったが、内心は川口の事を少し感心していた。野宿をまだ体験した事がなかった耕一郎には、川口が平然とそうした体験談を口にする姿が、とても頼もしく思えたのだった。一つの年の違いをはっきりと感じた瞬間でもあったから、耕一郎は何か慌てるようにして熱いお茶を飲み干すのだった。こうして毎回のように牛丼屋で語り合う内、互いに都合が合う日には地元の居酒屋へ入り浸るようにまでなった。二人共未成年であったが、居酒屋の親父にはばれなかった。新聞店にいる事で、二人の雰囲気は十歳近く上に見えていたのかもしれない。そこで二人は実年齢を少しも気にすることなく、ひたすら瓶ビールを飲んでいた。 
 ここまで川口との仲が親密になってくると、耕一郎は嬉しい違和感のようなものを感じるようになってきていた。即ち、高校生の時に体感すべきだった同世代との交流を、高校中退をして新聞配達員になった今にして行っている僥倖を、である。一般的な高校生が、部活動を終えた後に仲間同士で牛丼屋へ行く事と何ら変わらず、耕一郎は朝刊の配達を終えた後、川口と牛丼屋へ行っているように感じた。耕一郎にとっては、新聞配達が彼らにとっての部活動のようなものだっただけなのだろうか。高校を中退した後に、こんな気分を味わうのはとても意外だったし川口の存在を得たおかげで、新聞店が耕一郎にとって必要だった「高校」のように思えたのだった。「かつての同級生が感じていた高校生活とは、こんなものだったのだろうか?」と想像する事さえ出来るようになっていた。しかし、彼の状況の変化はここで止まらなかった。これだけでも、耕一郎にとっては新鮮だったのだが、運命はまだまだ彼を飽き足らせようとはしなかったようだ。
 耕一郎の私服は、先にも書いた通り和服が主体であった。和装はかなり珍しかったので、耕一郎が街中を和服姿で歩いていると、必ず周りの奇異な物を眺めるような視線を感じたものだった。当然のように耕一郎の中学時代までの友人の中には和服好きはいなかったので、川口となら「和服について語らえるかな?」と思い、居酒屋へ連れ立つ時にはよく和服姿で行ったが、川口は良くも悪くも耕一郎の和服姿に無関心であり、初めて川口と一緒に居酒屋で飲んだ時、耕一郎の和服姿を見た川口は、「なんで和服なんだよ?目立ちまくってんぞ。お前。」など言ってきた事を最後に、それ以降耕一郎に和服姿に関して尋ねてくる事はなかった。耕一郎は川口が和服姿に関してもっと突っ込んでくる事を期待していたが、残念ながら、そうはならなかったのである。そしてすぐに旅行話などで盛り上がり始める事が多かったので、自分から和服の話を振る事もしなかった。川口との旅行話は、それはそれで楽しいものの、耕一郎はやはり和服に関して話し合える友人も欲しくなってきていた。そんな八月の末日。朝刊を終えた耕一郎は、ネットサーフィンをしていたところ、たまたまどこかの和服愛好会が主催する「着物で銀座を歩く会。」なる催しを見つけた。月一回、第一日曜日に毎回開かれるというその催しは、参加料がなんと無料であり(参加料が無料というのは、珍しい事である)未成年も参加可能だと云うのである。大抵、こうした催しには(食事料込みで)四千円~五千円程度の料金がかかったり且つ成人以上との指定が(お酒を飲む事を想定しての事だろう)あるため耕一郎はまだ和服愛好会の会合に参加した事がなかったのだ。で「これは是非参加したい。」と耕一郎は思ったので五日後の日曜日に参加してみる事にした。場所と集合時間は時計台で有名な和光ビルの前、午後一時である。
 五日後、普段はめったに乗らない銀座線などに乗り込み、目的の場所へ耕一郎は向かっていた。車内は日曜日であったため、様々な顔ぶれが見えた。耕一郎はいつもの通りの長着に袴の書生姿であったので、やはり人々の例の視線を感じたが、今日はいつもと違って和服好きな「同志」に出会えるため、気分はややルンルンといった感じであった。また車内には、日曜日だからか若いカップルがわんさかいたものの、その高揚感のためか耕一郎は全く彼らが気にならないのだった。やがて日本橋から銀座線に乗り込み二駅目で銀座駅に着いたので、慌ただしく流れ出る人混みの流れに身体を任せるようにして、耕一郎は改札口へ昇った。銀座駅は丸ノ内線、日比谷線、銀座線と三つの路線が併さる多機能な駅であり、だからであろうか出口や路線へと誘導する標示が駅内にはやたらと多かった。銀座駅を初めて利用した耕一郎は、改札口を出てからどの表示に従えば和光ビル前へ行けるのか分からず、約三分程歩き廻った後、「A9」と云う、先程出てきた銀座線の改札口から間近の出口がそれと知って、彼は自分の迂闊さにやや苛立ちながら、「A9」の階段を昇り、やがて昇りきった彼の眼にはたくさんの人が映り込むのだった。「さすが華の銀座だな~。」と耕一郎は辺りを見回してみると、真ん中の広い中央通りはおしゃれな人達が、楽しげに闊歩している。もちろんその中には和服姿の人も見られたが、耕一郎はちょっと場違いな場所に来た気がしてきた。「集合場所である和光ビルはどこだろう?」とそれを探そうとしたが、手間はかからなかった。中央通りに向けていた眼を後ろにやれば和光ビルがあったからだ。成程、首を伸ばして見上げてみれば、大きな時計台らしきものが僅かに見えたので耕一郎はその目線を下に移して携帯で時間を確認しつつ、ビル前に和服姿の集団がいないかどうか確かめてみたのだった。時間は午後十二時五十分と集合時間より十分程早かったが、和服姿の人がちらほら見つかった。
 いつもは荒々しく下駄を踏み鳴らして歩く耕一郎だったが、この時は控えめな足取りでビルの前に近づき、和服姿の一人に話しかけた。それは丸坊主で朴訥な雰囲気を感じさせる四十代の中年の男だった。着流しであった。
「着物で銀座を歩く会に参加される方で
 すか?」
耕一郎は表情をにこやかせながら聞いた。
「そうだよ。あなたも?」
「はい。初めて参加するので、集合場所
 が合っているのかどうか気になりまし
 て」
「集合場所はここで合ってるよ。ホーム
 ページ見なかったの?」
「ええ。まぁ一応見たんですけど・・・
 」
と、耕一郎は心中(だから『初めて参加
するので』と付けてんじゃねぇかよ。確
認で聞いたんだ。確認で。)と毒づきつつ
、表情を変えずににこやかに答えた。
「そうか。ここらに和服姿でいる人達は
 みんな集まりの人達だよ。初めてなら
 和服姿の人をこれだけ見るのは新鮮で
 しょ?」
確かに耕一郎が自分の周りを見渡すと和
服姿の人が溢れているので非常に新鮮で
あった。
「ええ。確かに珍しい風景ですね。僕も
 友達とですら和服で連れ立って歩いた
 事はないですから」
「そりゃそうだろうなぁ。俺の友達だっ
 て和服を着る奴、いや和服を持ってい
 る奴自体がほとんどいないからな~」
「ですよねぇ。じゃあ着物にはなぜ興味
 を持ったんですか?」
「俺は元々『金田一耕助』が好きでさ。
 その流れからだな~。俺が十代の頃は
 金田一耕助が流行ったから」
「成程。では元々は僕のような書生の恰
 好がしたくて、着物に目覚めた訳です
 か」
「そうだね。俺も今は着流しだけど、君
 ぐらいの年にはよく馬乗り袴も着けて
 歩いていたな。で、君はなぜ着物に興
 味を持ったの?」
「僕は・・・・。」
と耕一郎は自分が和服好きになった理由
を詳しく語り出しそうになった。しかし
、面倒に感じたので咄嗟に「ギター侍に
影響されて着流し姿が格好良いな~なん
て思いまして」など答えた。そして、透
かさず男は「なんだお互いに逆の格好し
て来たんだなぁ」などと返し、お互いに
破顔一笑したのだった。
 互いの名前を名乗り合う事も忘れ、話に花が咲きかけそうになった二人だったが、ここで時刻が午後一時となった。最初の気の利かない返答に対しての不満はどこにいったのやら、と云った様子の耕一郎はその男にもっと話しかけたかったが、集まりのリーダーらしき人がビル前の和服姿の人達を中央通りの真ん中に集めようとしていたので仕方なく従う事にした。日曜日の銀座中央通りは歩行者天国となっている。だからか、和服姿の集団が真ん中に集まるだけでやたら周囲から注目された。どうやらここで集合写真を撮るらしい。和服姿の人間が続々と固まりだすので、外国人もカメラを向け始めたし、全員でおよそ三十人程いるだろうか、色とりどりの、様々な柄模様の着物が耕一郎の眼に映り込んだ。年齢層も着物のそれ同様様々であった。中年層が多いように感じられたが、耕一郎と同じような十代と思われる若者もいた。男女比は一対五といったところか。そんな事を後列で耕一郎が思案している内、参加者各々のカメラを預かった一人が、その全てで撮影し終えたようであった。
 撮影が終わった後、各々顔見知りと思われる者同士でまとまり始めた。耕一郎も話したかったものの、機会を上手くつかめずしばし棒立ちしていた。先程の男(これより先は彼を金田一と呼ぶ事にする。結局、耕一郎は金田一から名前を聞き出せなかったので)は、耕一郎を気にする事なく自由に話し回っていたから耕一郎は金田一ととりあえずくっつく事で、交流の輪を広げようと思い、金田一の傍に寄りつこうとした。とその時、彼の視界に一際美しい女が映り込んだ。彼女は紫色の生地に、季節外れの桜の花の模様が映える浴衣を着ていた。半幅帯を使って、文庫結びをしている。「あの生地は木綿だろうなぁ。」などと耕一郎はすぐに見当をつけた後、しばし彼女の姿に見惚れた。彼女は余りにも美しかった。顔付きは色白の、全体的に上品な雰囲気を感じさせる顔だった。特にその彼女が隣の婦人と語り合う度に口元からのぞく前歯とその整った歯並びと形、それから男の浅はかな下心を射貫くような独特の目付きが耕一郎にとっては魅力的だった。そんな目付きでも、彼女の眼は鋭くはないのだ。どことなくはかない弱さを感じさせる眼でもあった。また、彼女の髪の毛が黒かった事も良かった。最近の若い女は茶髪や金髪でも平気で和服を着たりするが、耕一郎からしたらその行為は以ての外である。和服の良さもその女の子自身の魅力も半減してしまうからだ。その点、この彼女はその事象を自然に理解していたのか、それとも普段から黒髪なのか分からぬが、抜群に調和が取れていて、その美貌に対し耕一郎は完全に現を抜かしていた。ここまで一人の女を注視したのは久々であった。やがて「いくつぐらいなんだろう?」など考えていたら、さっきのリーダーが何やら叫んでくる。「午後四時までは自由時間だから、それまで各々銀座を散歩していて下さい。」などと言っている。どうやら午後四時からまた和光ビル前に集合し、それからは個人の自由参加で銀座の料亭へ行くらしい。「銀座を歩く」のは、皆でではなく、其々仲の良い者同士で勝手に歩く形態らしかった。しかし、耕一郎の頭は「なぁんだ。」という拍子抜けではなく、「ともすれば」という期待感で一杯になった。そんな頭の状態で、すぐさま彼女の姿を探した。彼女はすでに幾人かの連中と共に中央通りを日本橋の方へ向かって歩き始めていた。その中に金田一の姿もあった。故に耕一郎は急いで後を追い掛けたのだった。
 耕一郎が加わった事で、その連中の数は七人となったようであった。男は耕一郎と金田一、それから、かなり痩せ型で眼鏡をかけた三十代ぐらいの青年の、三人だった。残りの四人は彼女を含めてみな女だ。しかし、彼女が断トツで若く、そして綺麗だった。耕一郎は早く彼女に話しかけたくて仕方がなかった。しかし彼女は、そんな耕一郎の事など気にも留める様子もなく他の二人の女と楽し気に話していた。残り一人の女は金田一と仲良さそうに話している。耕一郎と不気味な青年とが、取り残されたような形だった。その現状に耕一郎はがっかりするのだったが、すぐに彼は頭の中で「金田一とこの青年と自分の中で、誰が一番彼女にとって好みなのだろう?」と考え始め、耕一郎は頭の中で金田一とその青年の面構えを自分と見比べて考えてみた。最早それでは、彼女の主観ではなく耕一郎の主観になっていたが、その時の耕一郎にとってはそんな事はどうでもよかったのだ。やがて金田一が音頭を取る形で、あるビルの地下にあるお茶屋へ入る事になり、それは中央通りの外れにあったビルだったが、やはり銀座なので値段は高そうである。卓上の机に七人が囲うように座る形式であった。耕一郎はすかさず、彼女の隣に座り込んだ。
 彼女の名は「沢村籠目(かごめ)」と云うらしかった。年齢は二十三歳。耕一郎と五つ違いであった。座ってから十分後ぐらいに耕一郎の方から沢村さんに話しかけ、自然に自己紹介となったのである。名前と年齢を聞き出せた事も良かったが、それ以上に沢村さんと会話出来た事が耕一郎は嬉しくて嬉しくて仕方がなかったし、若い女、特に美しい二十代の女と話したのは久々であったからしばし、感極まった。「この日のために新聞配達をやってきたのかな?」などと日々の新聞配達を苦行ととらえ一瞬勘違いをした程だった。互いの自己紹介をし終えた後も、耕一郎が一方的に話しかける形で語り合った。特に趣味について話した事は彼にとって、大きな幸運だった。それがきっかけで連絡先を交換出来たからだ。以下その簡略な顛末である。
「沢村さんは着物以外に御趣味はありますか?」
「江本君はどうなの?」
「プロレス観戦ですかね」
「へ~、プロレスが好きなんだぁ」
沢村さんの顔が途端に明るくなった。
「どこ観るの?」
今度は沢村さんから聞いてきた。
「今のじゃなくて、昔の全日本とか新日本とか」
「ネットで?」
「そうっすね。youtubeで見てま
 す。実際のプロレスの試合を観に行っ
 た事はほとんどないんですよ。沢村さ
 んもプロレスを御覧になるんですか?」
「私は○○とか●●を良く観に行くよ。
 ☆☆TVも引いてるんだ」
○○と●●は最近観客動員数及びグッズ
売り上げを伸ばしている、インディーズ
系団体だ。そのため、週刊プロレスでは
その団体に関しての紙面の扱いが良くな
ってきていた。だから、耕一郎もその団
体について一応、知ってはいた。☆☆T
Vはプロレスファンにとってはお馴染み
の、あの格闘技&プロレス専門TVであ
る。☆☆TVを引くぐらいだから、「沢
村さんは相当なプロレス好きに違いない
」と視た耕一郎はまだまだ話したらなか
った。
「プロレスを観るようになったきっかけ
 は何だったんですか?」  
「私の場合は、友達に誘われてからかな
 ぁ。デスマッチの試合だったんだよね。
 血がどばぁと出てて、それから一気に
 ハマったんだ」
 「えぇ、デスマッチっすか。」
 沢村さんが「デスマッチ」という単語を
使ったので、耕一郎は少々驚いた。ただ
、物騒な言葉を口走ったのに、にこやか
にお茶をすすろうとする沢村さんがたま
らなく可愛い。耕一郎は凶器をふんだん
に使用し、血を大量に流す最近のデスマ
ッチ形式が嫌いであった。デスマッチは
レスラーがなるたけ血を流さず、凶器に
ぶち当たらないで、観客を満足させてこ
そデスマッチだと思っていたからだ。な
ので、最近のデスマッチは単なる観客と
レスラー自身の質と感性の低下としか耕
一郎には思えなかったのだ。しかし、ふ
と上手い事を耕一郎は思いついた。そし
て躊躇せずにそれを口にした。
「俺、デスマッチを一回観てみたいなぁ」
「是非行くといいよぉ。江本君もきっと
 ハマるよ」
「ただ、デスマッチは誰かと観に行きた
 いっすねぇ。ホラー映画を一人で観た
 くないように、デスマッチも一人では
 観たくないですよ。プロレス好きな奴
 は俺の友達にはいないしなぁ。まして
 デスマッチを一緒に観に行ってくれる
 奴なんて居ないでしょうねぇ」
「同級生にはいないのかぁ。御両親は?」
沢村さんには見栄を張るために、高校を
中退した事は告げなかった。だから、彼
女の中で「耕一郎は高校三年生」と云う
認識になっているのだ。それにしても、
「御両親は?」などと聞き返す沢村さん
は、ちょっとどうかしてる。ただ、その
ぶっ飛んだ思考と可愛らしい外見とのギ
ャップがたまらなく、愛おしいのだった。
「デスマッチは両親と観に行きたくあり
 ませんよ」
「そっかぁ。それもそうだよねぇ。」
沢村さんは目線を耕一郎の方へ向けず、
正面を見つめて言った。なかなか沢村さ
んの方からは「それ」を口に出してくれ
ない。「やはりここは自分から言うべき
だ」と耕一郎は思い、実行した。
「俺とデスマッチの試合を観に行ってく
 れませんか?」
沢村さんは一瞬「えっ」と驚いた表情を
したが、間もなく、
「いいよ。行こう」
そう笑顔で答えてくれた。その嬉しさの
あまり、耕一郎も相好を崩した。そして、
互いの携帯のメールアドレスと電話番号
を交換し、約束の日時を決めたのだった。
 どうやら沢村さんは今月九月の最終週の土曜日に後楽園ホールで行われる某デスマッチ団体の興行に行くらしかった。耕一郎はそれに付いて行く形となり、こうして彼は気になる人の連絡先を難なく知る事が出来たのだった。連絡先を交換した後も沢村さんと会話したのだったが、耕一郎はその内容をよく覚えていない。確か、彼女の仕事が「銀行員」であるとか、「その仕事が一年目なので大変だ」とか、その程度であったような気がする。いずれの話も和服やプロレスの話題程は盛り上がらなかったが、ただただ耕一郎は楽しかった。隣に、二十代の浴衣を着た美人の女がいる。そしてその女と談笑し、おまけにその女の連絡先も知る事が出来た。その状況に彼は心から満足するのだった。例えるなら、今の彼の心境は、毎日ガード下で暮らしていたホームレスが、一日だけ貸し切りで二条城に暮らす事を許されたような状況と同じだろうと思う。毎日、川口及び新聞店の中年同僚に囲まれているだけの生活を半年近く送ってきた彼にとって、沢村さんはその「二条城」のような存在だった。だから、耕一郎はその「二条城」に土足で入り込もうとする奴、特に野郎は絶対に許さない。何度か、耕一郎の向かいに座っていた例の三十代の青年が、こちらを、沢村さんを見やってきた。その青年もきっと、沢村さんと会話がしたかったのだろう。耕一郎と沢村さんが話終わる機会を窺っているようだったが耕一郎はそれを許さなかった。あまりにも沢村さんを見やるので、業を煮やした耕一郎は、沢村さんがトイレへ行き席を外した時に、その青年を思いっきり睨みつけてやったのだった。一瞬の事だったから、金田一含め周りの四人は気が付かなかっただろう。その場での取っ組み合いも辞さない程、強烈に睨みつけたので、全てを察したその青年はその後萎縮し、沢村さんを見やらなかった。この時すでに、そんな事を抵抗なく出来る程、耕一郎にとって沢村さんは大切な存在になっていたのだ。だから、他の人間とはほとんど口を聞かなかったが、完全燃焼でその親睦会を終えられた。そうして午後四時近くなり、料亭へ行く者は茶屋に残り、行かない者は帰る事になったが、沢村さんは料亭へ行かないようであったので、耕一郎も帰る事にした。別れ惜しかったが、「次は二人きりで会える。」と思うとその期待感のためか、元気で「また今度。」と言い、耕一郎は駅へ向かうのだった。今日は、自分にとって「大きな分岐点」となった。帰りの電車の中で、そんな事を思いながら彼は帰路に着いたのだった。
 翌日、耕一郎は真っ暗な闇の中をのぼせ上がった頭で、新聞を配っていた。相変わらず、眠気が激しかったが、それだけでは片付けられない激しさが彼の頭を襲っていた。それは彼が今まで経験した事がないぐらいの大きな激しさだった。それが「恋」なのか、いやそうではないのか、その時の耕一郎にはまだ分からなかった。ただ、配達中に掻く汗がいつもと違い、生気と若さを感じさせる事はよく分かった。こんなにじっとりと熱い汗を掻くのは久しぶりであった。運動量などではなく、「あと三週間したら沢村さんと会えるんだ。」という、熱い想いがその汗を掻かせるのだろう。今日の配達は、その想いが耕一郎の身体を動かしているようなものであった。耕一郎の心身はようやく十八歳に戻りつつある。配達終了後、いつものように川口と牛丼屋で飯を食ったが、会話は上の空だった。川口との会話中、耕一郎が考えていたのは、当然沢村さんの事であったから例えば昨日、「私の出身は福井県だ。」などと沢村さんが言っていたので、いつもの川口の旅行話を聞いていると、自然に「福井県」とはどんな所何だろうと耕一郎は想像してしまうのだった。しかし、具体的な想像が付かなかったので、帰宅後にストリートビューで「福井県」を見てみようと密かに思うのだった。だが、そんな耕一郎の様子を全く以って感ずる事なく、隣の川口はいつものように旅行話を続けている。すると突然、川口は鳥取県の鳥取砂丘に一緒に行かないか?と誘ってきた。「福井県」の事で心ここにあらずだった耕一郎は、隣に川口がいる事をここでやっと認識し、なんで「鳥取砂丘」なのか気になった耕一郎は、その理由を聞いてみた。 
「俺が行ってる予備校でさぁ。あるジン
 クスが流行ってるんだよ」
「どんな?」
「大宰府天満宮って知ってるだろ?」
「ああ。菅原道真を祀ってる神社だった
 っけか」
「そこの受験合格のお守りを試験がある
 三か月ばかり前までに、鳥取砂丘に埋
 めたら、志望校に合格出来るんだと。」
「なんだそれぇ。なんでお守りを砂丘に
 埋めるんだよ」
「鳥取砂丘は太古の昔からあった砂丘な
 んだよ。だから、当然菅原道真が活躍
 した平安時代にも存在したものなんだ。
 平安時代と変わらない砂丘の様態に反
 応して、鳥取砂丘に埋めた大宰府天満
 宮のお守りに道真の霊が乗り移るらし
 いんだ。そして砂埃になって飛ぶみた
 いなんだ。その時、砂の感触と鳥取砂
 丘から臨む日本海に出会わせてくれた
 御礼に道真の霊がお守りの願いを叶え
 てくれるらしいんだよ」
「うさんくせぇ話だな、それ」
「ジンクスなんてもんは大抵、そんなも
 んだろ。で、一緒に行ってみないか?」
「なんで俺がぁ?」
「いいじゃねぇか。一人で行ったってつ
 まらねぇし。こうして、二人で旅行談
 義してるばかりじゃなく、実際に旅行
 してみるのも悪くはないと俺は思うぜ
 」
「まぁな。でも、お守りを砂丘に埋める
 のはいかがなものかと思うがな。お守
 りは肌身離さず持っておくもんだと思
 うしな。まぁ、やるやらないは康介次
 第だけども」
「それはそうだと思うけど、やってみた
 いんだ」
川口は静かにゆっくりとそう言った。
 この時期になると、耕一郎はさん付けをせずに川口の事を呼んでいた。一緒に旅に行かないか?と誘いかけるぐらいだから、耕一郎が呼び捨てで呼ぼうが、川口は全く意に介さない。二人の間に、年の差という意識はもうなかった。耕一郎はそのジンクスにいかがわしさを感じたので、少しためらいかけたが、結局行く事にした。
「いいぜ。行こう」
耕一郎はそう言った。
「ホントかぁ。よっしゃぁ。そうこなく
 ちゃなぁ、江本」
「で、いつ行くんだ?」
「それなんだよなぁ。予備校はズル休み
 出来るから心配ないけど、問題なのは
 仕事とお金だよなぁ」
「いくらで鳥取砂丘まで行けるんだろう
 な?」
「まぁ電車賃だけだったら四万円ありゃ
 往復は出来る」
「そうか。四万か」
「とりあえず、新幹線で姫路まで出ちま
 おう。それから・・・」
「それから?」
「高速バスに乗っちまった方が早く着く
 し安いんだけど、姫新線と因美線に乗
 って鳥取駅まで行かないか?」
「いいけど・・。なんでまた?高速バス
 の方が安いし、早いんだろ?」
「姫新線と因美線は車窓からの景観が美
 しい事で有名なローカル線なんだ。つ
 い最近、youtubeで姫新線と因
 美線の車窓からの映像を見てさ。乗っ
 てみたくなった」
「ふ~ん。じゃ、乗って行ってみるか」
「よし‼」
「で、仕事をどうするかだな。」
「それなんだよなぁ・・・・。俺は思い
 切って所長に正直に伝えてみるべきだ
 と思ってる」
「え、何を?」
「だから・・・。二人で旅行しに行く事
 を。」
「そんなのハナから相手にされないだろ
 う」
耕一郎はやや吐き捨てるように言った。
「そんなの言ってみなきゃ分からないだ
 ろう。それに、二人して同じ期間に仮
 病で仕事を休むのは不自然だぜ。仮病
 も、風邪ぐらいじゃ新聞配達は休めな
 いしな」
「それも、そうだな」
「所長には今度の日曜日に二人で伝えて
 みよう。日曜日なら所長が必ず店にい
 るみたいだからな」
「分かった」
耕一郎は川口のその根拠に納得し、素直に
川口の意見を聞くのだった。
 そして、日曜日。彼らはその思いを所長に伝えに行った。所長は所長室でいつものように煙草を吸いながら、スポーツ新聞を読んでいた。二人はその前でドギマギしながら話すのだったがやがて野太い声で
「いいぜ。行って来いよ、鳥取砂丘」
 と所長は言った。その言葉を聞いた時、
耕一郎も川口もひどくびっくりした。所
長がこんな簡単に仕事を休ませてくれる
とは思わなかったからだ。更に所長は話
し続けた。
「何しに行くんだよ。鳥取砂丘なんかに。
 若い男が二人で行って面白いような場
 所じゃねぇだろ」
所長は笑いながら、勢いよく鼻の穴から
煙草の煙を出して言った。 
「ええ(笑)。だからこそ、二人で砂丘へ
 ナンパしに・・・・。というのは冗談
 でして、その観光というか気休めとい
 いましょうか・・・」
しどろもどろになりながら川口が頑張っ
て釈明した。隣の耕一郎は、ただ俯いて
所長と目線を合わせないようにしている

「まぁいいや。要は疲れて休みたいって
 事だろ。休ませてやるよ。二人で行っ
 て来い、鳥取砂丘に」
「ありがとうございます」
と二人。
「これは、江本君も川口君も日頃真面目
 に仕事をこなしてくれてるから、その
 ご褒美であり・・・・お前らが未成年
 だから、こんな甘い事させてやるんだ
 からな」
「はい」
また二人で言った。
「期間は来月十月の上旬の三日間にして
 やる。三日間もあったら、充分楽しめ
 るだろう」
「ありがとうございます」
今度は礼をしながら言うのだった。
 その晩、二人は馴染みの居酒屋へ行った。
瓶ビールを二人で注ぎ合い、いつものように乾杯した。耕一郎は所長へ「鳥取砂丘旅行」の事を告げる前まで、内心「そんな事を正直に言っても受け付けてくれないだろうし、下手したら怒鳴られるだけだろうなぁ」など考えていたため、こうしてビールを飲んでいると美味しさというよりも、安堵感を一層実感した。隣の川口はもうお通しを平らげている。耕一郎もそれに負けじとビールを飲みふと、酔いがやや廻ってきたところで、「沢村さん」の事を思い出した。「好きだ」「沢村さんの事が好きだ」喧噪な居酒屋の中なのに、そんな言葉が、はっきりと頭の中を駆け巡った。最早、二人の間に本日の思い出話は尽きかけてきていた。耕一郎は思い切って、川口に「沢村さん」の事について相談してみる事にした。
「俺さ、好きな女が出来たんだよね」
耕一郎はそう呟いた。
「なんだよ、いきなり」
「いや、だから好きな女が出来たんだよ」
「どんな?いくつぐらいの女なんだ?」
「二十三。銀行員らしい」
「なんでそんな女と知り合えたんだよ?」
いきなり川口がコップ片手に赤ら顔を近
づけてきた。興味津々といった様子であ
る。そこで耕一郎は、沢村さんと出会っ
た経緯と今度一緒にプロレスを観に行く
事について簡潔に話した。
「ふ~ん。和服好きの交流会でかぁ」
「そうなんだ。こんな気持ちになるのは
 初めてだよ」
「今まで好きになった女はいなかったの
か?」
「いたけど全部フラれたな」
「そうかぁ」
 川口はゆっくりと頷きながらそう言った。しばし、二人の間に沈黙が流れた。それ
を破るために言葉を切り出したのは耕一
郎だった。
「康介は、女と付き合った事あるのかよ
 ?」
耕一郎はそう言いながら、今まで何度も
居酒屋や牛丼屋に連れ立って語らいなが
らも思春期の男にとって欠かせないその
事を、つまり「女」とか「恋愛」につい
て一度も川口と話し込んでいない事を思
い出した。
「ある。高二の時。同じクラスの女子だ
 った。」
「康介から告白したの?」
「いや。向こうからだった。」
「えぇ、じゃぁ逆告白?」
「そうなるな。一応。」
「で、肝心な事はやったのかよ?」
耕一郎はそう聞いた。願わくば、川口も
耕一郎がそうであるように「童貞」であ
って欲しかった。「頼む!」という強い
言葉が心を幾度か押した。しかし。
「やった。童貞は十六歳で捨てたな」
川口は誇るようでもなく、吐き捨てるよ
うにそう言った。その時の川口の横顔が
初めて憎らしく思えるのだった。
「で、どうするんだよ。その沢村さんと
 やらを。告白するつもりなんだろ?」
「うん。告白したいね。ただ、どう告白
 すりゃいいのか分からなくてさ。年上
 の女性に恋をするのは初めてだからさ
 」
「今度のプロレス観戦では告白しない方
 がいいぞ。何度かそういう交流を重ね
 てからだな。そうだな。そのプロレス
 観戦では相手の、沢村さんの男の好み
 を聞いてみろよ。そこまでだ。とりあ
 えずは」
「分かった」
「長期戦で粘るんだな。お互いプロレス
 が好きなんだから、何度か一緒にプロ
 レス観戦でもしたら関係が解れてくる
 」
「そんなもんかなぁ」
「そんなもんなんだ。いきなりは告白す
 るのは絶対に禁物だぞ。それから・・
 ・・」
「それから?」
「告白するのは鳥取旅行が終わってから
 にしろ。砂丘で告白が叶うように願う
 んだ」
「分かった。それは守る」
いつもの耕一郎であれば一笑に付すよう
な話ではあったが、相談したのが自分か
らだった事と「女」に関しても川口の方
が先輩であった事が判明したため素直に
従う事にした。
「よし!そうとくりゃ、もう御開きとし
ますかぁ。おい、勘定お願い!!」
川口がいきなり立ち上がり、叫ぶように
して言った。その活きの良さと不躾な様
に、耕一郎は少し呆れた。だが同時に、そ
うして横で立ち上がる川口がこれまで以
上に大人びているように感じるのだった。
その帰り道、「童貞を捨てている事が分
かっただけで、これほどまでにその印象
が変わるものなのか。」と耕一郎はやや切
ない気持ちになりながら、千鳥足で家へ
向かうのだった。
 後楽園ホールでのプロレス観戦を明日に控えた金曜日の深夜。耕一郎は慣れた身の熟しで新聞配達をしていた。逸る気持ちを抑えるのが大変だった。明日が来る事をどれだけ強く願ってきたか。鳥取旅行の話が決定して以来、耕一郎は明らかに今までとは異なる意気込みと目標意識を持って仕事へ臨んできた。そもそもこの仕事を始めたきっかけは、通信制高校の学費を稼ぐためだった。それは今も変わりはしない。要はそこに新たなものが加わったのだ。それは鳥取旅行の旅費代と沢村さんを獲得するための戦費だった。旅費代についてはそのままだから、説明は要らないだろう。後者の戦費とは、沢村さんに告白するまでに使う、主に沢村さんとの交流活動に使う、お金の事だ。川口の助言通り、耕一郎は告白するまで幾度か沢村さんとプロレス観戦を重ねるつもりでいる。プロレス観戦だけでなくともいい。とにかく、それらを行うために必要な資金を稼ぐために、労働意欲が高まってきていたのである。そして、その変化ゆえだからだろうか。沢村さんと初対面して以来の配達から、仕事中に掻く汗が気になる。今掻く汗は、「以前」の汗に比べてとても心地よいからだ。「なぜだろう?」と耕一郎は思った。原付バイクに跨りながら、団地の廊下を走りながら、その答えを考えた。ふと自分が何かを追い掛けるようにして新聞を配っている姿勢に気が付いた。「そうだ。俺は追い掛けている。でも一体何をだ?」そんな事を考えながら、今日も全ての配達を終えた。そしていつものように最後の号棟の近くで、ズボンのポケットから携帯を取り出し、時間を確認した。時間は午前五時三十分。なかなかの上出来だった。ふと空が明るんできた。日の出を見ようと顔を上向けた途端、汗が右目に入った。沁みた。その時、耕一郎は悟ったのだった。「そうだ。俺は十八歳なのだ。俺はそれに相応しい時間と出来事を求め、それを達成するために追い掛けているのだ。だから新聞配達にやりがいを感じるようになったのだ。」などと。つまり、鳥取旅行の旅費代と沢村さんを獲得するための戦費、それらは耕一郎の希求する十八歳の日々を叶えるための金だとも言えるだろう。それらの金を、そうであって欲しい「若さ」を仕事の対価として見出し、是が非でも獲得したいがために、耕一郎は追い掛けるようにして働いていたのだ。そしてその「若さ」を追い掛けた後に掻く汗は、その意味でこれまでとは異なるのだ。だから、心地よいのだ。耕一郎は「夜道、若さを追い掛ける自分」に気付き、しばし悦に入るのだった。
 この日も、耕一郎はいつもの袴姿で来ていた。洋服で来ようかとも思った。が、沢村さんの心の中に濃く「江本耕一郎」を刻み付けたかったので、あえてそうして来たのだった。今日は小雨が降っている。状況に反して高ぶる心を抑えながら、耕一郎は水道橋駅の西口で待っていた。興行開始が午後六時四十五分だったから待ち合わせは午後六時としていた。あと五分して待ち合わせの時間となる。やがて、時間通りに彼女は来た。沢村さんは白のスキニーパンツを履いていたから耕一郎は袴で重層に隠れていようが、素直に勃起してしまった。緊張と照れくささが混じったような面持ちで、耕一郎は対面しなければならなかった。
「お待たせ。今日は付き合ってくれてあ
 りがとうね」
沢村さんは開口一番こう言った。
「いえいえ。僕もデスマッチを一度見て
 見たかったし。待ってもないっすよ」
「そう。じゃあ行こうか」
「はい」
二人は後楽園ホールの方へ向かった。今日は東京ドームで音楽イベントでもあるのだろうか。人がやたらに多い。沢村さんは耕一郎の袴姿に何か反応する素振りもなく、ただ前を向いて歩いている。「話しかけてくれないかな?」と期待したが、相手から反応はない。ここは自分から話しかける事にした。
「俺、今日も袴を履いて来ちゃったんで
 すよね。目立っちゃうけど、沢村さん
 は平気ですか?」
「別に私は平気だよ~。でもこんな所に
 も和服で来られるなんて根性あるね。
 余っ程和服が好きなのかな?」
「根性というより、目立ちたがりなだけ
 かもしれないですね。沢村さんは和服
 姿でプロレス観戦しに行った事はない
 んですか?」
「ないよ~。仕事帰りに見る事が多いか
 らほとんどスーツ姿だよ。こうやって
 私服姿で来るのは久しぶりだわ」
「そうですか。スーツ姿かぁ。羨ましい
 なぁ」
「スーツ姿が?どうして?」
「いや、実は・・・・」
耕一郎は二の句を継ぐのをためらいかけ
た。言ったら「引かれてしまうかもしれ
ない」と、そう思ったからだった。しか
し、いつまでも隠し通せる訳ではない。
沢村さんと付き合いたいなら、尚更隠し
てはいけないのだ。耕一郎は暫し間が空
いたのち、それを告げた。
「実は、僕は高校を中退しているんです。
 で今は、新聞配達のアルバイトをして
 いるんです。だから、スーツ姿で生活
 出来る人が羨ましく思えてしまって」
「えっ。高校中退してたんだぁ。いつ中
 退したの?」
沢村さんはあっけらかんとして言った。
その穏やかな反応に心が少し軽くなった。
「今年の三月です」
「高三にはなったの?」
「高校三年生になる直前に辞めました」
「それから新聞配達をしているわけ?」
「そうですね。新聞配達はみんなジーパ
 ンやジャージ姿で働いていますから、
 スーツ姿の人はいないんですよ」
「そっか。でも何でスーツ姿が羨ましい
 の?」
「それは・・・。いや、いつも思うんで
 すよ。朝刊を配り終えた後、駅に向か
 って駆け込んでいくサラリーマン達を
 見るんですけど。何か僕が知らない物
 や状況を彼らが知っているようで。高
 校を中退したから、スーツ姿の自分に
 は出会えないんだろうと思うと、尚更
 自分が知らないものを知りに電車に乗
 りに行く彼らが羨ましくなっちゃって」
「そっかぁ」
「はい。つまらない話でなんかすいませ
 ん。気になさらずに・・・」
「でも、私たちが知らない事を江本君は
 新聞配達で見てきたんじゃないの?原
 チャリに乗りながらさ。きっとそうだ
 よ。多くの人はそんな朝早くから仕事
 は出来ないもん。それは私たちが知ら
 ない事をたくさん知れる機会があるっ
 てことだよ。きっと」
「えっ。そうですかね・・・・」
「うん。そうなんだよ、きっと」
その意想外の優しい答えに、耕一郎は一
層沢村さんの事が好きになるのだった。
 そのようにして話している中、二人は後楽園ホールビルの前に着いた。後楽園ホールはこのビルの五階だ。そして、この場で沢村さんから今日の興行のチケットを渡された。このチケットは沢村さんがネットで購入してくれていたものだった。耕一郎は「ありがとうございます」と礼を言い、その場でお金を沢村さんに払った。実は後楽園ホールを訪れるのは今日で二回目だった。一回目は昨年の夏、新日本プロレスの興行だっただろうか。それを観に来た時だった。あの時、今度後楽園ホールへ来る時には女連れで来ているなどとは思いもしなかった。「高校中退」を思いもかけなかったように。十代の一年間とは、中年の十年間の変化にも相当するぐらいの振れ幅があるものなのかもしれないと、その時耕一郎はふと思った。やがて、二人はあの落書きだらけの黒壁の階段を昇った。格闘技好きは存じていると思うが、あの階段は後楽園ホールにおける格闘技興行の歴史を刻んでいる。プロレスラーだけでは無く、ボクシングやキックボクシングなども含めたその他諸々の格闘家の名前がズラッとそこには書き込まれているのだ。この記念すべき日と今回観戦するプロレス団体の団体名を耕一郎は書き込もうとしたが、あいにくペンを持ち合わせていなかった。一方、沢村さんは壁の落書きなど気に留める様子もなく、そそくさと昇っていこうとした。耕一郎はちょっぴり寂しくなると同時に、沢村さんのそうした無頓着な姿勢もまた、たまらなく好きなのだった。そして五階の入り口へ昇り上がると、Tシャツなどのグッズを売るレスラー達が目に入った。また、若干の花束なども飾られていて「どれどれ値段はいか程か?」と思い、Tシャツ売り場の傍まで近寄り、値札を見てみると、なんと「一枚二千五百円」であった。「勘違いするなよ。お前ら如きにこんな付加価値はない。」などと心の中でそう毒づくが、相手がレスラーである故、口に出すことは勿論の事、顔色にもそうした素振りを彼は見せなかった。やがてTシャツに関しての沢村さんの反応を知りたくなり、声をかけようとしたが隣に彼女はいなかった。「ぎょっ」として辺りを見回したところ真向いの売店に立っているレスラーと握手をしてもらっている沢村さんが見えた。「一声はかけてもらいたいな」などと不満を感じる間もなく、レスラーとにこやかに握手をしている沢村さんの笑顔に耕一郎は和まされその笑顔は耕一郎の心全体をわしづかみにして離さない程の強さがあり「あの手を絶対に握って一年後にまたここへ来てやる」と耕一郎は新たな野望を密かに打ち立てて、告白の決意を一層固めるのだった。
 会場の中は、まだまばらに人がいる程度であった。興行開始が午後六時四十五分であるから、それは当然なのだろう。二人は入り口側の、すなわち南口側のやや後ろ側の席に座った。耕一郎は「こんな席であっても四千五百円も取るのか。」など、先のTシャツの件も重なって強い不満をこのプロレス団体に感じつつ、横に沢村さんが座る事に改めて満足感も感じた。この満足感が四千五百円で済まない事は言うまでもないのだ。それを確認できた瞬間、このプロレス団体と自分との軋轢は解決されたような気がした。やはり女、特に美女の魅力はどんな大金をも、はした金と思わせるぐらいの威力があるものなのだった。前方のリングでは、デスマッチの準備が着々と進められていて第一試合から蛍光灯デスマッチを行うからなのか、ロープに蛍光灯が固定されていく。おまけに作業を行うレスラーは上半身が傷だらけで耕一郎は見てはいけないものを見たような気がして、目を背けた。しかし、そんな様子を隣の沢村さんは嬉しげに携帯で撮影しているではないか。きっと「怖さ」や「痛さ」に対しての感性が鈍いからなのだろう。耕一郎はそのような姿勢に、彼女の中に潜在している男らしさを思わず見たような気がして、少し誇らしくなるのだった。おそらく沢村さんの周りの人間が知らないであろう「彼女の一面」を、自分だけが確認出来たというような感覚を持ちつつ。
そのような喜びの余韻に浸って間もなく、第一試合が始まった。レスラー達は蛍光灯で殴り合い、どんどん血まみれになっていった。目を覆いたくなるぐらいの凄惨な場面だからか、耕一郎のテンションは高まった。そのテンションが助けたのか、耕一郎は川口からの課題を、いや課題以上の自主的な成果を難なく達成出来たのだった。
「沢村さんはこれまで、男友達とプロレ
 ス観戦をしに来た事はあったんですか
 ?」
「うん。あるよ」
「それは、結構な頻度で行かれているん
 ですか?」 
「いや、職場の男友達と少しだけね。ほ
 とんど一人で行くか、女友達とだよ」
「そうですか」
耕一郎はそれを聞いてやや安心しつつも
その「男友達」と沢村さんの距離感が気
になって、気になって焦ったからか、耕
一郎は単刀直入に切り込んだ。
「沢村さんは今、彼氏はいるんすか?」
「えっ?」
「いや、だからその~彼氏ですよ彼氏。
 沢村さんはきっとモテるんだろうから
 、いらっしゃるんでしょうね」
耕一郎がそう言った後やや間が空いて、
沢村さんは答えた。
「まぁ、学生時代はいたけど、今はいな
 いよ」
「へ~。そうなんですか」
「うん。まぁ今好きな男がいないからと
 いうのもあるんだけどね。そういう江
 本君の方はどうなの?」
「俺は・・・・ずっといないっすよ。こ
 れまでもいなかったし、今もいません
 ね」
「そぉか。出来るといいね。彼女」
「はい・・・・。欲しいですね」
耕一郎の直球の問いに、沢村さんはそう
優しく答えてくれた。今から思えば、そ
れは耕一郎を交際相手として見ていない
からであったと容易に推察出来る。が、
当時の耕一郎は沢村さんに恋人がいない
かっただけで有頂天となり、冷静な視点
を失っていた。勢いづいた耕一郎はすぐ
に川口からの課題に取りくんだ。
「今、好きな男がいないのなら・・・・
 例えばどんな男性がタイプなんですか
 ?」
「好きな男性のタイプって事?」
「はい」
「それは・・・。さすがにそれは簡単に
 しか言えないな。今は」
「あっ、そうですか。そうですよね。少
 し気になって聞いちゃったんです。す
 いません」
「乱暴じゃない人。暴力的じゃない人か
 な。簡単に言えば」
「えっ?」
「簡単に言うとさ」
「ああ、なるほど」
あっさりと言われたので、ただ耕一郎は
頷くだけだった。しかし、すぐに矛盾を
感じた。暴力的な人は嫌いなのに、目の
前のデスマッチを純粋に楽しむ姿勢に対
してだった。耕一郎はそれを質した。
「暴力的な人が嫌いなのに、デスマッチ
 を見るのは平気なんですか?」
「うん。平気だよ」
「う~ん。なんだかその心理はよく分か
 らないような気がしますね」
「だってデスマッチはプロレスだよ?興
 行の世界でやってるんだから、無抵抗
 の人を痛めつけてる訳じゃないじゃな
 い?あの人達はデスマッチをやりたく
 てやってる訳だよ」
「まぁ、そうですよね」
「同じ着物でも、着る人の年齢よって印
 象が変わってくるように、世の中の物
 事はTPOで印象が変わってくるはず
 だよ。だからこそ気遣いって大切だよ
 ね」
などと、まとまったのかまとまっていな
いのか分からないような締め方で括られ
て、その話は終わった。リングではレス
ラーが互いを蛍光灯で殴り合い、血だる
まの阿鼻叫喚というような状態であった。
 そのうち第一試合が終わりそれからメインイベントまで、派手で残虐なデスマッチ形式の試合が続いた。蛍光灯、画鋲、ガラス、カミソリ、バットなどなど、普通のプロレスの試合形式ではまず見られないような代物と大量の血ばかりが目に入ってきた。普段の生活環境でこれだけ出血している人を見る事はまずないだろう。沢村さんとの会話では、聞き出したい事を聞き出せてからは、当たり障りのない内容が続いてお互い、にこやかにプロレス技や和服、学生時代の思い出話などを語り合ってやがて午後九時頃、メインイベントが終わった。決まり手はガラスボードへのパイルドライバー。すぐに勝者のレスラーが聞き取りにくいマイクパフォーマンスをし始めたから耕一郎はそれをウザったく思い、もう試合が終わったのだからその場から離れたかったが、沢村さんが興味津々とした様子で聞いていたので、待つ事にした。帰りの電車は水道橋から新宿までの間一緒であった。嬉しい事に電車内で、沢村さんから「また一緒にプロレス観戦出来たらいいね。そっちからも誘ってね」など言われ耕一郎はそれを聞いて元気よく「はい」と答えて、そのままやや興奮気味に新宿駅で沢村さんと別れたのだった。
翌々日の月曜日。今日は雨であった。雨の日は必ず、チラシを入れ込んだ新聞ごとビニールで包装するから今日も新聞店にある三つのビニール機の中に、各々がせわしなく新聞紙を入れていった。雨の日はこのビニールの包装作業があるので、通常の配達時より、皆出発が遅れるし、この日、耕一郎が包装作業を終え荷台に新聞を積み上げたのは、午前二時五十分であったから、となると、終わるのは大体午前五時半前後だろう、などと耕一郎は見当が付くのだった。仕事を始めて凡そ半年も経てば、この程度の見当は簡単に出来るのだった。耕一郎がやっとこさといった感じで原付バイクに跨ろうとした時、後ろから誰かが呼び掛けてきた。まだ出発していなかった川口だった。どうやら川口は一昨日の事を知りたいらしかった。
「どうだったんだよ、一昨日」
と川口は言った。
「まぁ聞くべき事はしっかり聞いたぜ」
「そうか。好きな男のタイプは教えてく
 れたか」
「ああ。おまけに今沢村さんには彼氏が
 居ないという事も分かった」
「なにぃ?そんな事まで聞き出せたのか。
 よし!!配達が終わったら、牛丼屋で詳
 しく聞かせろよ」
「分かった。でも今日は雨だから焦んな
 よ。バイクをスリップさせて新聞をぶ
 ちまけたら面倒だからな」
「おう。お前もな」
と川口は力強い声で返答して耕一郎より
先に原付バイクを発進させた。
 雨は段々と強まり量が増してくるしそれに比例するように視界が悪くなってきた。雨の日の配達は視界が悪くなる上に、団地の廊下や階段が濡れていて走れないため、手間や苦労が多い。それに包装したビニールが加わるため、普段より力が要る。川口に忠告した原付バイクの運転中に起きやすいスリップにも気を付けねばならない。要は、雨の日の配達はしんどいのだ。当然、しんどい分の徒労は金として形を変え、自分に届いては来ないが、それでも耕一郎はそんな事を不満に思う暇もなく、この日も追い掛けるようにして新聞を配った。やがて十七階建ての団地へ新聞を配る段階になったがこの棟はこれだけ階数があるので、天候が良い日であっても配るのが大変な棟だ。そして、雨の日は廊下を走れない事が起因して余計に大変なのである。耕一郎はいつものように、その棟の駐輪場の脇に原付バイクを止めて荷台からビニール包みの新聞紙を四十部近く持ち出すとそのままエレベーターの前へ足を運んだ。こうした高層の団地では、一旦中間の階に新聞を置いて、そこから最上階から一つ上の階まで必要な部数を取り最上階へ昇る。それを配り終えたら、中間の階まで戻る。そして、中間の階から一階まで配っていく。おそらく、これは耕一郎や耕一郎の新聞店だけのやり方ではなく、全国の新聞店でも同じような事をしているだろう。耕一郎はその長い行程の間、常に沢村さんの笑顔を思い浮かべ、高揚感に浸りながら一部一部配った。時折団地の区画で響き渡るヤンキーの喚声なんてものはもう彼の耳には入らずに廊下を走れないが、早歩きで急ぐのだった。やがて合羽を着ていたためとても暑苦しくなった。そうしてやっとの事でその棟を配り終えた耕一郎は、原付バイクを走らせ残りの棟へ向かった。しばし順調に事が進んでいたが、残りの棟が三つのところでやらかしてしまった。頭の中で「次の沢村さんとのプロレス観戦の模様」を勝手に想像していた耕一郎は、あろう事か原付の速度を三十キロ以上も出していた。これは、雨の日の配達では論外な速度であり、交通法違反でもある。マンホールの上をその速度で走った直後、耕一郎の身は投げ出され、荷台の新聞紙は崩れ落ち原付がスリップした。ヘルメットと合羽のおかげで、身体に負傷は負わなかったものの頭の中は途端に、沢村さんの笑顔から川口の苦笑いに変わった。耕一郎は高揚感を落ちつけるため、そのままコンクリートの上でしばし寝そべったのだった。
 配達終了後、川口の言うとおり牛丼屋へ入り込み、耕一郎は事の顛末を包み隠さず話した。川口はすぐに「その聞き方は良くなかったな」などと耕一郎が沢村さんに「彼氏がいるかどうか」を訊ねた時の言い草をやや詰ってきた。川口曰く「モテるだろうから」という言葉を枕詞のように使って聞くと、却って女は不快に思う事が多いそうで、それに「まず最初に好きな男性のタイプを聞いた方が良かった」とも言ってきた。耕一郎は「そんなもんなのか」などと、やや強引に自分の思考を納得させて川口の話を聞いたが、川口はそんな耕一郎の不服な感情を見抜いたのか、最後は「でも、彼氏が居なくて良かったな。とりあえずは大成功なんじゃないか?」と褒めて締めてくれた。「あとは鳥取砂丘の祈願が肝心だな」とも言い添えて。耕一郎は「鳥取砂丘の祈願」については相変わらず胡散臭いという気持ちが強かったが、鳥取旅行自体は楽しみであったから、もうすぐその鳥取旅行へ旅立つ事もあって、その後の話題はそれに関する話に変わり、お互いが小学生以来の「もういくつ寝るとお正月」のような待ち遠しさを共有しながら、しばし話し込むのだった。二人が店を出た時、時間は正午を回っていた。定員が日本語を体得出来ていない中国人だから済んだものであった。
 紺碧の空。周りを囲い込むようにして聳え立つ両脇の山々。道路沿いには蒼々たる空を反映して、美しい加茂川が穏やかに流れている。この時耕一郎と川口の二人は、鳥取県の県道六号線を歩いていた。今は待ちに待った鳥取旅行の真っただ中だった。鳥取砂丘を目指して、二人は因美線沿いのこの県道を東津山駅からひたすらに歩いていて、この日を迎えるまでに一波乱あった二人にとってこののどかな風景は単なる自然の美しい景観といった捉え方だけでなく「壮大な自然からの出迎え」というような挨拶も付加されて、互いの心を揺さぶったのではなかっただろうか。元々所長から「十月の上旬で期間は三日間」とだけ伝えられていた二人は、休日の開始日の、具体的な日にちを知らなかったが、先月の月末にたまたま所長が日曜日でないのに居合わせた日があったので、二人はそれを聞いたところ所長は「まだ分からねぇ。けど、七日前後だろうな」などと言っていたから二人はそのつもりで「あと一週間以上はあるわな」と思って働いていたのである。ところが九月の晦日の夕方になって、互いの携帯に所長から急に連絡が入り「明日から休みになったから」と言われたのだった。驚いたが、所長に対して質す度胸がなかった耕一郎は唯々諾々と承知し、電話を切りその後、居酒屋で川口と相談して「明日出発する」という事を仕方なく決めた。翌日、真夜中に慣れ切った二人は始発で東京駅まで出て、そこで新幹線の自由席の切符を購入し、そのまま姫路へ向かった。本当は指定席で行くつもりだった。指定席だったら、朝刊の配達が起因している時差ぼけ状態であっても、座って寝られるからだ。指定席を取るために、所長の言った「休日の開始日」を信用していたが、もはや止むを得なかった。まだ、その指定席を取っていなかった事がせめて救いであった。それに京都駅までは立ちながらウトウトしていたが、京都駅で人がたくさん降り、それからは座れたので運が良かった。そうして姫路駅に着き、降りた二人は姫新線と云うローカル線に乗り込んだ。新幹線で十全に眠った二人は、ここぞとばかりに向かい座席に座り、窓を開けて風を浴びその景観を楽しみながら鈍行の列車に揺られ、東津山駅に着いたのは午後四時過ぎであった。昨日はそのようにして遥々岡山県の津山市まで来て、市内の漫画喫茶のナイトパック開始時間まで津山の街を散策し、疲れた二人は狭い漫画喫茶の部屋でごろ寝した。翌早朝、煙草臭くなった頭を気にしながら二人は県道六号線を進み、頭から煙草臭さが消え失せた頃合いに、この景観に出くわしたのである。
 そのうち美作加茂という駅に着いた二人はしばしそのあたりをうろついたが時刻はすでに正午を過ぎていた。この駅の周りは畑や田んぼが多く、民家のほとんどが瓦葺きであったからどこか昭和初期の雰囲気を醸している土地のように感ぜられた。川口が「ここで飯を食おう」と言って、ある民家の田んぼの端に座り込むと耕一郎も一応そこは田んぼの端になるのであろうが、田んぼには入り込まないような場所であったので渋々座り込んで、二人は今朝駅のキヨスクで購入したおにぎりを頬張るのであった。この時、耕一郎は川口にこれまで隠していた目標、「通信制高校への入学」の事を告白してみようと思った。別に川口の反応が気になってしようと思ったのではない。ただ、沢村さんに関して助言をもらうぐらいの仲になって以来、川口が浪人生中である事を知りながらも、自分の進路については語らない事がよそよそしく感じられてきたからだった。
「俺さ、実は来年通信制高校に入ろうと
 思うんだ」
「なんだよ、いきなり(笑)。通信制高校
 って年間に何回か登校して単位もらう
 やつか?」
「そうだよ。レポートなんかを提出しな
 がら学ぶ学校だよ」
「そこは全日制に馴染めなくて中退した
 やつも多いんだろう」
「そうだな。そういう事もあって、俺に
 は合ってると思ってさ」
「だったら、なんで今からそこに入らな
 いんだ?」
「安い公立の通信制高校は年度ごとに募
 集をかけるからさ。来年まで待つよ」
「ふ~ん。高認とかもあるけどな。大学
 に行くなら、高認の方が早くないか?」
「そうかもしれないけど。もう十月だか
 らさ。それに俺は二年生までしっかり
 やったから、高卒に必要な単位は残り
 少ない。通信制高校でもまた中退した
 ら、高認を考えるよ」
「高卒資格は持っておいた方がいいから
 な。でも、江本はなんで高校中退した
 んだよ?」
川口のその直球の問いは、耕一郎の羞恥
心をやや刺激したが耕一郎はためらわず
に、正直にそれを口にした。
「いや、あの高校には友達はいなかった
 しよ。まして彼女なんか出来なかった
 し、部活にも入ってなくて。そんな状
 況だと、俺が高校で持てなかったその、
 三つの物を持っている同級生達が憎々
 しく感じるようになってきてさ。そう
 しら勉強にも集中できなくなって、当
 然成績も落ち込んで。気が付いたら、
 俺の居場所はあの高校にはもうなかっ
 たんだ」
耕一郎は心の奥底に溜まり込んでいた想
いを吐露するように言い切った。川口は
「そうか」と優しく頷きながら言い、言
葉を続けた。
「でも、江本はその高校を中退して良か
 ったんじゃねぇか。江本が欲しがって
 たその三つの物なんて、高校三年間で
 しか価値を発揮しねぇもんだぜ。高校
 の友達なんて卒業してからも交流する
 奴は限られてくるし、まして彼女なん
 てお互いが大学に進学したら、またそ
 こで新しい恋愛関係が出来るのが大概
 だぜ。高校卒業後も相思相愛なんてカ
 ップルの方が珍しいって。部活はその
 三年間だけの交流と思い出の場でしか
 ないしさ。そんなもんにやっかんで時
 間潰す事の方が宝の持ち腐れだと俺は
 思うよ」
そう川口から言われ、耕一郎は「確かに
全ては俺のやっかみから始まったんだよ
な。」と納得しかけながらも悔しく思っ
た。川口はまだ話を続けた。
「日本の学校ってのはよ、これは高校に
 限らずだけども、箱でしかねぇんだよ」
「箱?」
耕一郎は意味が分からず、呟いた。
「そう箱。大人達が勝手に選択した学問
 と一緒にその箱の中に放り込まれ、蓋
 をされる。蓋をされるから、学校の人
 間関係やそこの学問に対しての疑問や
 悲鳴の声を挙げても、大人達には聞こ
 えない。とにかく、二十二歳まで、大
 学卒業するまでその箱に閉じ籠って出
 てくるな、と。大人達はそれだけを要
 求するんだ。箱の中では学問に対して
 の議論や活動といった事は嫌厭される。
 ただひたすらに子供達は決められたカ
 リキュラムをこなすだけで、だから学
 校は箱なんだ。動く事は箱の中では要
 求されないからね。箱の中から出よう
 としたら、異端者の如く決めつけられ
 る。大人たちが決めた箱の有り様にケ
 チを付けたという事で、日本社会はそ
 の異端者をたとえ学力が高かろうとも
 個性的とか信念が強いといったような
 評価はしないんだよ。実に日本社会は
 狭量なんだ」
「俺はやっぱり異端者か」
自覚していたものの川口からそう言われ
ると少し堪えられなかった。がっくりし
た様子で耕一郎はそう言った。すると川
口はすぐさま付け足した。
「だけど、俺は違うぜ」
「えっ?」
「俺は江本の事を異端者だなんて思わな
 い。だって、知り合って間もない時に
 も言ったろ。格好いいって」
「ああ、そうだったなぁ」
「あれは俺の本音だぜ。高校中退する勇
 気がある事がすごいと思ったし、中退
 してからすぐに新聞配達を始めて真面
 目に仕事をこなしている姿勢が偉いと
 俺は思った。俺には出来ないもん。高
 校中退も、同級生が高三なのに新聞配
 達をやる事も」
「ああ」
耕一郎は苦笑した。涙腺が緩んだ。
「江本は箱に収まらなかっただけなんだ
 よ。だから、次はお前が収まるような
 箱を見つければいいんだよ。そこで大
 人しくやり過ごして、出来れば大学に
 も進学してみろよ。俺だって浪人生な
 んだしよ。一年や二年、周りより遅れ
 て社会に出たってどうってことねぇよ。
 そうだろ?」
「ありがとう」
耕一郎はやや俯きながらそう言うのがや
っとなぐらいだった。川口はそんな耕一
郎を目の前にして「泣いてんじゃねぇよ。
本気で泣くのは沢村さんを獲得してから
だろ」など言い、「たださっきの言葉は
ウソじゃねぇからな」と力強く言った。
耕一郎はそう言われ「鳥取砂丘で本気で
祈ってやる」と決意をここで初めて固め
たのであった。しかしおにぎりを全て頬
張りかけた時、このような素敵な雰囲気
が崩される出来事が起きた。後ろから突
然「おい!!こら何しとんるんじゃ」と怒
号が響いたのだ。振り返ると、軽トラの
窓からおっさんが乗り出している。きっ
とこの田んぼの主なのだろう。二人は「
やべぇ」と互いに呟き、一目散に走り出
した。焦りと緊張が沸き立ってきたもの
の展開が急だったためか二人共笑い声が
止まらなかった。
 そうして、やっとこさおっさんから逃げ切った二人はまた県道六号線を歩き始め、夕闇がやや迫ってきた頃、美作河井駅へ着いた。この先からは、県道六号線が山間へ大きく反れるから、線路伝いを歩けなくなる。地図を見てその事を知っていた二人は、あらかじめこの駅まで歩き通す事に決めていたのだ。時刻は午後五時を少し過ぎていて、丁度予定通りの時間であった。毎日の配達で時間と闘ってきた二人にとって、たとえ徒歩旅行であってもその見当が大いに発揮出来るのだろう。やがて来た電車に乗り、鳥取駅まで揺られた。この日もまた鳥取駅近くの漫画喫茶で泊まった二人は二日間の疲れがひどかったからであろう、部屋へ入った途端、飯も食わず会話すらもせず、すぐに寝た。
「おい。起きろ。行くぞ」川口のその呼びかけで耕一郎は目覚め、慌てて着替えるのだった。危うくナイトパックの終了時間を過ぎるところだったが、二人は眠気覚ましにドリンクバーのファンタグレープを一杯飲みほして、急いで店を出た。外に出ると海の風が二人を優しく包むようにして吹きかけてきたが、それは鳥取砂丘が自分達を待ちかねている証拠のように思えた。鳥取駅から国道を歩いたが三十分と歩かぬうちに、大きな砂浜が見えてきたから「砂丘だ」と瞬時にそう感得する間もなく近づくごとにその光景が眼前一杯に広がってくる。その入り口は至って簡素なもので、拍子抜けするぐらい迫力のないものであったから二人はあまり緊張せずに砂丘の中に踏み込んだのだった。 
 砂丘は、早朝であるがゆえに人は少なかったが想像していた通りの景色でそれは一面が砂で海鳥が空を飛んでいる静かなものだった。砂漠を意識してか、ラクダなんかもいて、耕一郎はすぐにその様子を携帯で撮り、沢村さんに送ると約十分後に「まぁ綺麗。」などという内容の返信が届き、耕一郎は今度詳細にその様子について語ってあげようと思うのだった。ただ少し意外だったのが、砂丘には草が結構生えている事で、やはり砂漠ではなく海際の砂丘であるため、草が生えやすいのだろうか。川口は「草が余り生えていない場所を探して、そこでやろう」と言い、二人は適当な場所をしばし探した。その後、いくつか候補に上がった中で一番相応しく思える、海が良く望めて海岸までの傾斜もそこまで高くない丘陵に決めた。それは本当に道真の霊が来たら、それは喜ばしく思うだろう場所であったから早速二人はそこへしゃがみこむと川口がまずリュックサックから大宰府のお守りを取り出して、それをそっと砂の上に置き、優しくその上に砂をかけお守りを砂で閉じ込んだのだった。道真の霊がお守りに乗り移るのであれば、ここで砂埃ごとお守りは飛ぶのだ。その時、願うのである。今から思えば、川口が持って来た大宰府のお守りは学業成就のお守りであろうから、川口の願いはともかくも、耕一郎の願いは縁結びのお守りでないので見当違いなのだったが。しかし、この時の耕一郎は川口と共にそれを待った。待った、ただひたすらに待った。が、なかなかそれは起こらなかった。すでに三十分は待っただろうか。目の前の砂場に異変はない。耕一郎は川口に問うた。
「まだ何も起きないけど、このジンクス
 に制限時間はあるのか?」
「制限時間?」 
「そう、制限時間。二時間以上待っても
 起こらなかったら、失敗とかさ」
「失敗というか、道真の霊がお守りの持
 主を嫌がっている場合は、起こらない
 らしいな。丸一日何も起きなかったら、
 それが嫌われた証拠らしい」
「丸一日!?今日一日中、待っても構わ
 ないのか?」
「俺は待ってもいいと思ってる」
「マジかよ。にしても、何も起こりゃし
 ねぇな。何してんだろ、道真の霊は」
「江本の事を警戒しているんじゃないの
 か?」
「はあぁ。お守りの持主は康介じゃない
 か?」
耕一郎がそうやや茶化すように言ったそ
の時。突然、突風が吹いた。目の前の砂
が激しく動きそのため一瞬目をつむった
が、砂埃と一緒にお守りが飛んだのが見
え、川口が「今だ。願え。」と叫んだ。
耕一郎は反射的に反応し、「沢村さんと
付き合えますように。」と強く願ったの
だった。
 やがて風は止み、お守りの行方が分からなくなった。二人はお守りが飛んだ様子をしっかり見たため、辺りを探したが見つからなかったので、耕一郎が「もしかしたら海に入ったのかもしれないな」と呟くと、川口は「そうかもな」とだけ言い、海を静かな目線で見つめ始めたところ、耕一郎がその川口の背中に向かって「本当に道真の霊が来たんだなぁ」と言うと、川口も「ああ、来たんだな」と振り返らずに言うのだった。そして耕一郎もしばし川口と一緒に目の前の海を見続けた。それは互いがこの旅の本懐を遂げた事を、無言のうちに確認した時間であった。その後、思い出として二人はお守りを埋めた辺りの砂を少しビニール袋へ入れて持ち帰ったのだった。
 鳥取から帰ってきた二人はその後も真面目に働き続けた。ただ、川口は受験勉強が大詰めのせいで出勤日が十月から週三日になった。旅行以前までのように、ほぼ毎日牛丼屋や居酒屋で語らう事は出来なくなったが、それでもそうした交流は週一ペースで続いた。ただ耕一郎は川口のそうした事情を汲み、自分から積極的に誘う事は少なくなった。今から思えば、川口はあんな生活スタイルでよく難関校(とある国公立大学)に合格出来たものだと感心してしまう。一方の沢村さんとの関係は、それは順風満帆で展望が明るいものだった。年末までにプロレス観戦だけでも、三回も一緒に観戦出来、且つ遊園地にも一回だけ一緒に行った。メールのやりとりもプロレスや和服の事に限らず、他愛ない内容も含まれるようになった。沢村さんが「新しい袋帯が欲しい。」と相談して来たので一緒に銀座の呉服店を覗いた事もあった。そのぐらい親しい仲になっていたのである。だからであろう。「もうすぐ告白をしてもいい頃合いだ。」十二月に入ると、耕一郎の胸にそうした思いが日増しに強まってきていた。そんな時に、沢村さんから「来年の初詣、明治神宮で一緒にお参りしない?」とメールが来たから耕一郎は勿論了承するとともに、「これだ!」と心の中で唸った。初詣で告白しようと決めたのである。すぐさま、ラブレターをしたため始めた。それは冷たい風が吹く日の晩の事であった。
 聖なる夜。つまりクリスマスイブの晩。耕一郎はいつもの居酒屋で予備校帰りの川口を待っていた。今日、誘ったのは耕一郎の方からだった。目的は勿論、初詣の事について。出来れば川口にラブレターを試し読みしてもらいたくてラブレターを持参して来ていた。心臓は高鳴っている。まるでもうすぐ討ち入りに加わろうとする浪士になったような気分であったしもっと例えるなら、討ち入る前に師匠から必殺技を伝授してもらいたい、そういったような心境であったろうか。そんな緊張状態で、ビールを飲んでいたら、誰かに肩を叩かれた。川口であった。
「よお、どうした今日は」
川口はいきなり訊ねた。
「おう。まあ座ってくれよ。ビールを飲
 もうぜ」
耕一郎は川口のコップにビールを注いだ
。乾杯してから、耕一郎は詳しく初詣の
事を語り出した。川口は逐一頷き、反応
を示してくれたから語りがいがあった。
全てを語り終え、耕一郎はビールを一気
飲みした。今度は川口が語り出した。
「いいじゃねぇか。初詣で告白してみれ
 ばさ」
「そう思うか」
「うん。何回かプロレス観戦も出来て遊
 園地にまで行ったぐらいなんだから。
 それは沢村さんが江本の事を嫌がって
 ない一つの証拠だよ」
「うん。そうか」
「まぁ嫌がってないだけで、交際相手と
 して受け入れてくれるかは分からない
 けどな」
「だよな。そこなんだよな」
「でもこればっかりは、沢村さん自身が
 決める事だからな。俺にはどうも答え
 ようがねぇよ」
「うん。それはそうだよな」
「ラブレター、必死に書いたんだろ。あ
 とは自分の想いと筆力を信じるだけだ
 ろ」
川口は説得するように強い口調でそう言
った。耕一郎はそこで逆に不安になり「
だからさ。このラブレター、一度康介に
試し読みしてもらいたいんだよ」と頼ん
だが、川口は言下にそれを拒否した。
「なんでだよ。康介のアドバイスを知り
 たいんだよ」
「恋愛なら俺のアドバイスが何でも正し
 い訳じゃねぇよ。それにラブレターは
 江本自身の気持ちだからこそ価値があ
 るんだぜ。この数日間悩んで書き綴っ
 た気持ちを素直にぶつけてみろよ」
「それはそうだけどさ・・・」
「仮に俺のアドバイスを加えて、書き変
えたラブレターで告白してフラれたら、江本は納得出来るのかよ。俺が江本だ
ったら納得出来ないけどな」
「それは、まあそうだな」
「自分を信じろよ。恋愛だからってビビ
 んなよ。俺が知ってる江本はいつも自
 信満々で自分の型を持ってる奴だった
 ぜ」
「おう、そうか。そうだったよな。俺は
 確かに人の言う事をなかなか聞かない
 奴だったよな(笑)」
思い出した。俺は生まれてこの方ずっと
そんな奴だったのだ。高校中退も先生や
周りが止めたのにも関わらず、無視した
し、ファッションだって、今時和服など
着る事は多くの奴がためらう事だろう。
新聞店だって川口が入る前は、十代は自
分一人だった。新聞店のあのうらぶれて
暗い雰囲気を全く拒絶せずに受け入れら
れたのは俺の個性の強さではなかったか。
「ありがとう」
耕一郎は素直に言い添えた。
「成功するといいな。鳥取砂丘にも行っ
 たんだから。あの時の事覚えてるだろ
 ?」
「勿論だよ。忘れる訳がない。しっかり
 と祈願したしさ」
「俺も年明けたらすぐ入試だしな。自分
 の実力と砂丘での祈願を信じて、残り
 の日々を頑張るよ」
「志望校に受かるといいな。」
「ああ。お互い、祈願が成就すれば言う
 事なしなんだが。」
「そうだな。俺もイブに男同士で飲むの
 はこれが最後にしたいしよ」
「なに言ってんだ。お前が誘ったんじゃ
 ねぇかぁ(笑)」
と川口が突っこみ、二人は大笑いした。
女っ気は全くないが、それは誠に楽しい
十八歳の聖なる夜であった。
 そして、年明け。普段の和装姿の耕一郎と振袖姿の沢村さんは明治神宮の参道に並ぼうとしていた。それにしてもすごい人だかりである。明治神宮の参道入り口には警備員が張り付いて誘導までしている。二人はその警備員に誘導される形で最後尾に並んだ。耕一郎はこの時から心臓がバクバクだった。いや、その数日前からバクバクだったろうか。川口とイブに飲み明かしてから大晦日の朝刊まで、配達がおぼつかない程の焦り様だった。原付バイクであんなにスピードを出した一週間はあの時ぐらいであったろう。この日の予定では、すなわち告白の段取りは参拝が終わってからする事にしていたからその時までは、この緊張感から逃れられないのだ。そんな事を思いつつ、着物の袂にしまったラブレターの存在も意識しながら、沢村さんと話しながら参拝を待った。しかし、さすが明治神宮である。参拝者の列はなかなか前へは進まなかった。最中、沢村さんは明治神宮の由来と明治天皇の生涯について語っていたが、当の耕一郎にとっては上の空であった。失礼にならぬよう頷くのが精一杯で、冷静な思考と判断が逸る気持ちに負け、なかなか働かないのだった。が、そんな耕一郎の頭を嫌でもひっくり返すような事が起きた。それは誰かが沢村さんを呼びかける声が始まりだった。「籠目、籠目、こっち向けよ」入り口から並んで三十分後ぐらいの事であった。後ろの誰かが沢村さんの、しかも下の名前を連呼した。沢村さんがその声を聞き、「あれ?もしかして」ときょろきょろするので、耕一郎も辺りを見渡した。その男はすぐにやってきた。しかも耕一郎と沢村さんの間に入り込み、列を割り込む形で。
「籠目、何どうしたの?明治神宮で初詣
 するなら俺もさそってくれりゃ良かっ
 たのに」
「今井君。偶然だね~。今井君も参拝す
 るんだぁ」
「そうだよ。例年は地元の神社で初詣し
 てたんだけど、今年は明治神宮でやっ
 てみようと思ってさ」
「そっか。それにしても、たくさんの人
 だよねぇ」
それから二人は耕一郎を無視するような
形でしばし話し込んだ。事情が良く分か
らなかった耕一郎はただ茫然とそんな二
人の様子を見つめたが、やがてそれに気
付いた沢村さんが、その男を耕一郎に紹
介した。どうやらその男は沢村さんの職
場での同期らしかった。
「初めまして。今井と申します。二十三
 歳です。籠目とは同期なんです。●●
 銀行に勤めてます」
沢村さんの紹介の後、その今井が改めて
耕一郎に対してそう自己紹介した。耕一
郎も彼に対して自分の名前と年齢を告げ
、沢村さんとの関係も説明した。
「へぇ~。和服の交流会で知り合ったん
 っすか」
 と今井が言ってきた。
「そうなんですよ。で僕から沢村さんに
 声を掛けて、一緒にプロレス観戦なん
 かもするようになったんです」
「そっかそっか。ただ俺は和服は着ない
 けど、プロレス観戦なら籠目と一緒に
 行ってるけどね」
「えっ?」
「なぁ籠目、一緒によくプロレス観戦し
 てるもんな」
「ほら前、江本君に聞かれて、同僚の男
 友達と観戦する事もあるよって言った
 でしょ。あれは今井君の事だったんだ」
沢村さんが言い添えた。
「それにしても。二人は奇特な場所で出
 会ったんだな」
「奇特な場所?」
「いや、俺はてっきり江本君は籠目の高
 校か中学かの同級生なのかな?とか、
 始めは思ったからさ」
「俺、二十三歳に見えましたかね?」
「うん、見えた、見えた」
「そうですか」
 耕一郎はこの時、和服の同好会を「奇特」と表現した事と遠慮なく老けて見えると告げてきた今井に対して非常な不快感を改めて感じた。また、今井がその「沢村さんとプロレス観戦に一緒に行く同僚」であると知って、悔しく思った。そもそも沢村さんがいたとはいえ隣に見知らぬ耕一郎がいるのにも関わらず、列に割り込み自分勝手に話し出す姿勢に強い違和感を感じたし、同僚で親しいとは云え、沢村さんの事を下の名前で、しかも呼び捨てで呼ぶ事に対しては下品に思った。「こいつは沢村さんと付き合いたがっているのか?」と猜疑心を生むぐらいに、今井は沢村さんに対して馴れ馴れしく、嬉し気に話しているのだ。耕一郎の不興を買ったのも無理なかった。「そうだ。今井は沢村さんの事を狙っている。俺が欲してきた二条城を奪おうとしているんだ」そうした邪念が耕一郎の心を支配するのに時間はかからなかった。そして今井のある一言がきっかけとなり、その邪念が憤激に変わってしまったのだった。
 その後しばらく、今井が沢村さんを独占する形で参拝までの時間が流れた。要は今井が沢村さんとしゃべりっぱなしで、耕一郎が入り込む隙を作らなかったのだ。銀行の話を持ち出されては、仕事内容、職場の人間関係などなど部外者である耕一郎が分かる内容は一つもなかった。沢村さんはそんな話題についていけていない耕一郎を気遣ってか、時たま耕一郎に話しかけてくれようとするものの、今井がその機会を悉く潰し、銀行の話へ戻そうとした。が、そうした展開に今井自身が飽きたのか、いきなり今井が耕一郎に耕一郎の仕事について訊ねてきたのだった。
「江本君は新聞配達してるって言ったけ
 ど、それは朝刊?夕刊?」
「朝刊っすね。」
耕一郎は晴れない心境を象徴するかのよ
うに、やや不遜げに短く答えた。今井は
そんな事を気にする風も無く話を続けた。
「夕刊はやらないのかぁ。両方だと受験
 勉強もしんどいもんねぇ。ねぇ、朝早
 く起きるのって大変じゃない?」
「というか、朝というより深夜午前一時
 半に出勤しますからねぇ。そりゃ大変
 だけども仕事ですからね。」
「へぇそうなんだ。朝刊配る人がそんな
 時間から働いてるなんて知らなかった
 よ。でもそんな時間から働いてて高校
 には遅刻しないの?」
今井には当然自己紹介の時に高校中退に
ついては言わなかった。面倒だから「大
学生じゃない。十八歳です」とだけ言っ
ていた。だから耕一郎の年齢からして高
校三年生だと思っているのだろう。耕一
郎は言った。
「実は俺、高校には行っていないんです」
「え?高校生じゃないの?」
「はい。高校は中退したんです」
「いつ?」
「今年の三月に」
「え~。もったいねぇ。なんでまた?」
「まぁいろいろとあって・・・」
「ふ~ん。高校の勉強はそんなに難しく
 ないんだけどな。参拝した後、おみく
 じを引いて大吉が引けたら、高校卒業
 するだけの学力がつくかもよ」
今井が強い蔑視口調でそう言ってきた。 
 言われた瞬間、耕一郎は我を忘れた。本当に忘れた。気が付くと、今井の手を強引に摑み、列を離れて参道の端へ向かっていた。そして今井の身体を崩して、地面に伏せさせた。後は馬乗りになって、今井の顔面を拳でたこ撲りしていた。会って間もないのに、高校中退の理由を勝手に決めつけられ、馬鹿にされたのが気に食わなかった。「てめぇに、俺の決意が、覚悟が、俺のおよそ九か月間の闘争の何が、てめぇに分かるんだ」そんな気持ちだった。それに沢村さんに対しての今井の態度に対する不満と不快と嫉妬も相まってぶん殴っていた。七発、八発と殴ったところで、今井の顔面は血に染まった。前歯が折れ、鼻血がだらだらである。「食らえ十発目」と叫んで耕一郎が拳を振り上げた時、後ろから「やめて、もうやめてぇ」という悲鳴が聞こえた。我を忘れた耕一郎には声だけではもう特定できなかった。振り向くと振り袖姿の沢村さんが、走って来るではないか。一瞬気が緩んだ。待っていたかのように、下から今井のアッパーが振り上げられ、耕一郎の顎を直撃した。奥歯が砕け、抜けたのが分かった。 
 殴られてしばし、耕一郎は今井のすぐ横に倒れ込んだ。今井もその衝撃の大きさから、目立った反応は示さなかった。耕一郎の和服は今井を殴ったせいで、袖が破れ襟はよれよれだった。そして血が、さっきの今井のアッパーのために口の中と舌を切ったためか、耕一郎の口から大量の血が出てきた。今井の出血もひどかったが、耕一郎の口からの出血の方がひどいぐらいであった。まさに地獄絵図といった状況で、だからだろう参道の多くの人がこちらを見ている。しかし、もっと耕一郎にとって痛ましい場面が始まってしまった。沢村さんである。沢村さんは二人の方に駆けつけるなり、今井の傍に近寄って耕一郎の方には一向に近寄ってこようとしないではないか。ぱっと見は耕一郎の方が出血しているのにもかかわらずだ。今井が自分の顔面をハンカチで拭けるぐらいの元気を取り戻しても、沢村さんは耕一郎の方に近づいてこなかった。沢村さんはひたすら「大丈夫大丈夫?」と今井に話しかけ、今井は不愉快そうに自分の顔面をハンカチで拭いたりいじっていた。耕一郎は、口の中の止まらない血を飲みながら、ただただ寂しかった。それは沢村さんの事が初めて理解出来なくなった瞬間であった。ふと耕一郎は自分の袂に例のラブレターがなくなっている事に気が付いた。耕一郎は辺りを見回した。なかった。「もしかして参道の列の下か?」と思い、さっきまでいた列の下あたりを見通した。案の定、今井を強引に引っ張り出したときの弾みで落ちたラブレターが、ビリビリ破れ踏まれた状態でそこにあった。 
 目の前の状況と沢村さんに対する疑問を感じつつも、まだ沢村さんに対して決定的に好意を捨てきれなかった耕一郎は、ラブレターの思いをどうしても伝えたかった。しかし、ラブレターはもうなきも同然であったから耕一郎は意を決して今直接口で伝える事にして彼は沢村さんに、今井の傍にいる沢村さんに近づいていった。今井は近寄る耕一郎を見て睨み付けた。耕一郎は気にする事なく、もっと近づいた。そして耕一郎が来てもしゃがみこんで目線を落とす沢村さんに、耕一郎は話しかけたのだった。
「沢村はん(さん)、俺は沢村はん(さん)
 の事がふき(好き)です。ふぉんと(
 本当)はハブレター(ラブレター)を
 書いへ(て)きたんへ(で)すけど」
耕一郎は奥歯が砕け、抜けたために変
な発音になってしまい、そう言うのが
やっとであった。それに長くしゃべろ
うとするとその分だけ口から血が流れ
出すため、長文は話せなかった。沢村
さんは「呆れた」といったような顔付
きで話し始めた。
「何言ってるの。今井君をこんなに殴っ
 た後で告白なんてする場合じゃないで
 しょ。どうしてこんなに今井君の事を
 殴る必要があったの?ひどいじゃない
 ?」
それはそうだろうけど、挑発してきたの
は今井の方だったじゃないか。沢村さん
はあんな傍にいてそれを聞いてなかった
とでも云うのか。そうしゃべる事が出来
ない賢児は心の中で呟いた。沢村さんの
話は続いた。
「私が暴力的な人が苦手だって、前に言
 ったわよね。なのにどうしてこんな事
 するの。言葉で今井君をやり返せば済
 む話じゃないの?」
それはそうだろうけど、今井だって俺を
殴ったじゃないか。殴った結果、口から
血が流れ出し、まともに話せなくなって
いる俺の状態は沢村さんには分からない
のか?耕一郎は理不尽としか思えないこ
の状況と沢村さんの言葉にがっかりし、
涙が出てきた。今井はその様子を見て、
ムカつく目付きで笑っている。そして、
ついに言われてしまった。それはそれを
言われて、今までの沢村さんに対する好
意は全て消え失せたというぐらいの、破
壊力を持つ言葉だった。
「もう信じらんない。江本君なんか嫌い。
 あんたって最低。どっか行ってよ。」
 言われた瞬間、涙が溢れ出た。耕一郎は堪らない気持ちになってその場から原宿駅へ向かって走り出した。全速力で走った。今日は雪駄を履いて来ていたため、出来る事であった。原宿駅に着いてすぐに駅のトイレへ駆け込んだ。洗面台に口から血を吐き出して、砕けた奥歯の大きな破片を拾い上げ「今は今井に対する憎しみだけを感じるんだ。」とその奥歯の破片を見ながら、耕一郎は疲労した思考と精神をそうやって操作するのがやっとであった。
 「災難だったな」翌日の夕刻、正月の二日。耕一郎は川口から呼ばれて居酒屋にいた。昨日の顛末を話したら、川口は開口一番にそう言ってくれた。その通りだ。昨日はあらゆる事が災難だった。今井の存在、踏まれて破れたラブレター、砕けた奥歯、奥歯に関しては、正月で歯医者がやっていない事もあって未だに治療が出来ていない。だからいつも食べられるお通しも美味しく食べられない程で、この日の耕一郎はずっとビールを飲むしかなかった。そして川口は「その程度の女だったんだよ」とも言った。
「その程度の女?」
「そうその程度の女だよ。殴り合った事
 情も良く理解出来ていないし、その今
 井の怪我がどの程度ひどかったか俺は
 見てないから分からないけど、今井の
 方を看るばかりで江本の方には意識す
 らいかなかった。それは沢村さんが単
 に江本より今井の方を好いている事を
 証明するだけじゃなく、人として余裕
 がなくて、冷たい一面があるという証
 左でもあるじゃないか。それが沢村さ
 んの正体の一面でなくてなんなんだよ」
「うん、まぁな」
「それともお前、まだ沢村さんの事が好
 きなのか?」
「いや、もうそういう気持ちはない。康
 介の言う通り、沢村さんは俺より今井
 の方が好きなんだろうし、昨日の沢村
 さんの言動には心底がっかりさせられ
 たからね。好意はもうないし、未練だ
 ってないよ」
「そうだろ」
 この気持ちは本当に耕一郎の偽らざるものだった。鳥取砂丘の祈願が骨折り損となってしまった事は残念であったが、あれだけの心身的負荷がかかる出来事が絡んできてしまえば、百年の恋も一時に冷めてしまうものである。耕一郎はビールをただかっくらい続けた。やがて宴もたけなわといった頃合いに、突然川口が「出会いなんて何度でもこれからある」と言い出した。耕一郎は酔っぱらいながら「何言ってんだ」と云った感じでそれを聞き流すのだった。 
 やがて二月に入り、川口の入試が無事過ぎて、その月末には川口の合否の結果が分かった。川口は見事と、ある国公立大学に合格したのだった。その夜は居酒屋を何軒も梯子し、飲み歩いて祝った覚えがある。実は、その夜が川口との連れ合いとしては最後の日となった。もう会わなくなったのは、川口も耕一郎も翌月の三月には新聞店を辞めてしまったからだった。それ以来、耕一郎は川口と今まで一度も会っていない。この年の三月は、すなわち平成二十三年の三月は、あの東日本大震災があった時である。日本中が騒然としたため、耕一郎は沢村さんの事も川口の事も気に留める余裕がなかった。四月に入ると耕一郎もついに公立の通信制高校へ通い出し、川口も大学での新たな生活が始まったからだろう、互いが互いを必要としなくなっていたのだった。その後耕一郎はその公立の通信制高校を無事卒業し、ある私大の文学部へ進み、その大学に在学中、吉祥寺の街でベビーカーを押している沢村さんと、並んで歩く今井を見た。二人は笑い合っていた。耕一郎が折ったはずの今井の前歯は、大きな綺麗な前歯が生えていたからきっとインプラントを埋め込んだのだろう。耕一郎はそんな二人を見て、気付かれまいとして急いで近くのコンビニに逃げ込んだが、逃げ込みつつあの二人の笑顔を見て決してやせ我慢などでなく、「良かったね、沢村さん」と思った。それは未だ奥歯が入れ歯でインプラントに出来ない耕一郎とそれが出来る今井との、互いの経済事情を比較した時の計算からくる卑しい気持ちなどからではなく、赤ちゃんと今井と幸せそうに笑う沢村さんの笑顔を一見して、今井との結婚が沢村さんにとって間違いなかったと思ったのであった。またその様子を見たら、あの時の今井の言動があのように挑発的だった理由は、耕一郎と同じで沢村さんに関しての嫉妬心から来るものだったのだろうと、この時になって分かったのだった。
 その後、大学を卒業した耕一郎は小説家を目指して作品を書く日々を送った。たくさんの人が寝静まったであろう深夜に、耕一郎が作品を書いていると、どこかの夜道で原付バイクを走らせる音が聞こえた。それは彼に十八歳の若い日々を思い起こさせる音であった。あれから友情とか恋とかいった出来事は全く耕一郎の人生に訪れなかったが、深夜にその音を聞く度に「俺にも若い時があったのだなぁ」と嬉しくなり、また勇気づけられ、耕一郎は今日も筆を走らせるのであった。
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