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午後四時~午後五時。
動き出した畑中少佐と死を覚悟した井田中佐
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首相官邸では迫水久常(ひさつね)書記官長と木原道雄書記官長の二人によって起草された終戦詔書案が議題に上げられていた。これは八月十日の朝以来陽明学者の安岡正篤(まさひろ)の協力も仰ぎながら彼らによって練られたものだった。そしてガリ版刷りにされた紙として各大臣に配られ、試案として正式に認可された時、米内、阿南両大臣から刷り物の一部を各省内の担当の者にも一応見せたいとの発言があった。誰もが陸海両大臣の深い苦悩を理解しているだけにその申し出を素直に受け入れ、ガリ版刷りの一部が両大臣の副官から陸軍省と海軍省へと運ばれていった。そして午後三時半頃に一切の準備をなし終え、録音する御政務室から離れた別室で待機中の放送班や録音関係者には、録音予定時刻は遅くとも午後六時頃だと伝えられた。ところが、非常事態時には予測もつかない事が起こりつつがなく物事は進まないのである。最大の問題は陸軍省から阿南大臣の手に届けられた。言わばポツダム宣言受諾は一種の条約締結とみなすべきであるから、枢密院の諮問を経るべきであると考えられる故政府は詔勅公布前にその手続きをとるべきではないか、という指摘である。これにより閣僚の意見は甲論乙駁となった。仮にこの陸軍省からの意見が正しいとすれば、すぐに枢密院本会議を開かなければならないが、正式の枢密院本会議など今日中に間に合わせる事は出来ないし、かと言って時日を無駄に遅延する事も許されない。既にソ連も参戦している事からも分かる通り対外的にも国内的にも降伏の手続きは出来るだけ速やかに終わらせなければならなかったからだ。
しかし一部にポツダム宣言受諾阻止に向けて遮二無二動いている椎崎中佐や畑中少佐のような青年将校がいる事は見逃せない。狂気をむき出し、馬車馬の様に彼らは行動に移っている。大臣室で動転して号泣し、やがて陸軍省を飛び出していったきりであった畑中少佐は、徐々に西日が色濃くなる頃威風堂々とした姿で再び陸軍省に舞い戻った。彼は東部軍司令部を門前払いされたその足で、軍事課員室にいる井田中佐を訪ねたのである。畑中少佐は真夏の直射日光が差す日差しの下を自転車で陸軍省から近衛師団、近衛師団から東部軍へとひたすら駆けずり回り、全身が汗と埃で一杯であった。その汗の一粒一粒が魂の弾丸となって敗戦を拒否しているようでもある。それ故にか昼間の大臣室の時とは違い、妙に余裕のある表情をしている畑中少佐は軍事課員室に入ると井田中佐に「重要な話がある」と言い、人影のない廊下へと誘った。そこで二人は額を合わせながら話し合うのだった。畑中少佐は井田中佐に対して「今後の身の振り方」について尋ねた。井田中佐は考えているところの「全将校自決による敗戦責任論」を説いた。それを聞いて驚いた様子の畑中少佐だったが、間髪を容れずにこう答えた。「確かにそれを実行出来たのなら皇軍の威望は江湖に広まるでしょう。しかしそれは現実的に実現不可能だと私は思います。ここで降伏するにしろしないにしろ日本にとって最善の道を選ぶべきだと私は思いますが、ポツダム宣言を受け入れる事は将来の日本にとって大きな禍根を残すような気がするのです。であれば一か八か運を天に任せて、ポツダム宣言受諾を阻止すべく陛下に直諌申し上げるべきではないでしょうか?それが私は軍人として陛下に誠の忠節を尽くす事に当たるのではないか、と思うのです」畑中少佐は高ぶる熱情を抑えつつ滔々と語った。「もしこのまま敗戦する事で我が大和民族の子々孫々にまで不利益を被らせるような事態となるのであれば、それこそ我々軍人は万死に値すると云ってもいいのではないでしょうか?私はやはり本土決戦をせずして敗戦などあり得ないと思います。本土決戦をしないのであれば沖縄戦は何だったのですか?特攻もやる必要はなかったのではないですか?そもそも大東亜戦争は勝つか、民族として滅亡するかと云う決死の覚悟の下に開戦したはずです。降伏する事など毛頭考えていなかったはずです。それを新型爆弾が広島や長崎に投下されたり、ソ連が参戦したりした程度で敗戦するなど私には愚の骨頂としか思えません」
畑中少佐は尚炯々とした目付きで自説を述べ続ける。それを目の当たりにし井田中佐は先程の芹沢鴨とのやり取りもあってか、敗戦を受け入れた己の決意が若干揺らぐのを感じた。一度は諦めたポツダム宣言受諾阻止の願望が目の前にいるこの男と芹沢鴨によって呼び覚まされた気分だったのである。井田中佐は酷く逡巡してしまった。ただ逡巡しつつも廃墟と化した帝都の有り様が井田中佐の頭を冷静にさせたのであろう、現在の大日本帝国が置かれている実状を畑中少佐に告げた。
「しかしな畑中、陛下の御聖断が下って以降政府と軍部はポツダム宣言受諾に向けて一丸となって動いているし、もう間もなく連合軍にもポツダム宣言受諾の旨が外務省から通知されるだろう。そんな状況でクーデターを起こしてどうなると思う?この危急存亡の秋(とき)に徒に騒擾を起こしてしまうような事はすべきではないであろう・・・・」
「井田さんはクーデターの不成功を堅く信じられているようですが、近衛師団との連絡は私がしっかりと付けてきました。後は実行するか、しないかだけなのです」井田中佐は畑中少佐の熱意に押されながらも既にクーデター計画の実現については皆目信じていなかった。阿南陸相が陛下の御聖断を受け入れた以上帝国陸軍は一致団結して降伏へと向かうであろう。その中にあってクーデターを起こす事など時化の大海へ筏で乗り出すようなものである。行うだけ無駄と云うものであろう。
「畑中よ、お前の至純と至誠だけは認めてやるよ。ただ俺はクーデターには参加はしない。そしてお前の邪魔もしない。俺はどうせ今日限りの命だからな」
それを聞き畑中少佐はしょげ返ったが、間もなく井田中佐に背を向けて歩き去った。その後ろ姿を見て井田中佐は自分の意思を伝えられた事もあって少し安堵したが、気になる事もあった。それは畑中少佐が告げた「近衛師団との連絡は私がしっかりと付けてきました」と云う言葉だった。一体今近衛師団で何が起きているのだろうか、とも思った。まさか畑中少佐はクーデター計画を近衛師団長に打ち明けその了解を取った訳ではないだろうが、一抹の不安が井田中佐の頭に過ぎるのだった。そんな井田中佐は自身の頭を落ち着ける為にも芹沢鴨ともう一度語り合いたい気持ちになったので地下防空壕へと戻った。
一方近衛師団では一つの異変が起きていた。近衛師団の関係者でなければ入室出来ない参謀室に陸軍航空士官学校第一生徒隊第三中隊区隊長の上原重太郎大尉と陸軍士官学校附の藤井政美(まさみ)大尉がいたからである。上原大尉は十二日に連絡将校として近衛師団を訪ねた際に近衛師団の古賀秀正参謀と出会い、彼が畑中少佐ら陸軍省の青年将校と共に練ってきた当初のクーデター計画を打ち明けられ、それに賛同したのであった。一方藤井大尉は元々近衛師団第一大隊出身であった為不穏に思われた陸軍中枢の動静を確かめたいと思い、この日近衛師団を訪ねていた。二人は初対面ながらも相通ずる所があり、どうやら上原大尉はクーデター計画を藤井大尉にも打ち明けた模様でもあった。本来の参謀室であれば近衛師団の関係者以外の軍人がいる事自体が異例なので、周囲の注目を浴びるはずなのだがこの日は芋を洗うように人が入り詰めた為不審の目で見られる事もなかったようである。
さてその頃首相官邸では村瀬法制局長官も閣議に参加させた結果ポツダム宣言の受諾に当たっては枢密院の諮詢は特に必要としない、と云う結論に至った。今まで全閣僚の間で張り詰めていた緊張は一気に解けた。阿南陸相もそれを聞いてなんら不満はないようである。そして議題は終戦詔書案の字句検討へと入っていった。
しかし一部にポツダム宣言受諾阻止に向けて遮二無二動いている椎崎中佐や畑中少佐のような青年将校がいる事は見逃せない。狂気をむき出し、馬車馬の様に彼らは行動に移っている。大臣室で動転して号泣し、やがて陸軍省を飛び出していったきりであった畑中少佐は、徐々に西日が色濃くなる頃威風堂々とした姿で再び陸軍省に舞い戻った。彼は東部軍司令部を門前払いされたその足で、軍事課員室にいる井田中佐を訪ねたのである。畑中少佐は真夏の直射日光が差す日差しの下を自転車で陸軍省から近衛師団、近衛師団から東部軍へとひたすら駆けずり回り、全身が汗と埃で一杯であった。その汗の一粒一粒が魂の弾丸となって敗戦を拒否しているようでもある。それ故にか昼間の大臣室の時とは違い、妙に余裕のある表情をしている畑中少佐は軍事課員室に入ると井田中佐に「重要な話がある」と言い、人影のない廊下へと誘った。そこで二人は額を合わせながら話し合うのだった。畑中少佐は井田中佐に対して「今後の身の振り方」について尋ねた。井田中佐は考えているところの「全将校自決による敗戦責任論」を説いた。それを聞いて驚いた様子の畑中少佐だったが、間髪を容れずにこう答えた。「確かにそれを実行出来たのなら皇軍の威望は江湖に広まるでしょう。しかしそれは現実的に実現不可能だと私は思います。ここで降伏するにしろしないにしろ日本にとって最善の道を選ぶべきだと私は思いますが、ポツダム宣言を受け入れる事は将来の日本にとって大きな禍根を残すような気がするのです。であれば一か八か運を天に任せて、ポツダム宣言受諾を阻止すべく陛下に直諌申し上げるべきではないでしょうか?それが私は軍人として陛下に誠の忠節を尽くす事に当たるのではないか、と思うのです」畑中少佐は高ぶる熱情を抑えつつ滔々と語った。「もしこのまま敗戦する事で我が大和民族の子々孫々にまで不利益を被らせるような事態となるのであれば、それこそ我々軍人は万死に値すると云ってもいいのではないでしょうか?私はやはり本土決戦をせずして敗戦などあり得ないと思います。本土決戦をしないのであれば沖縄戦は何だったのですか?特攻もやる必要はなかったのではないですか?そもそも大東亜戦争は勝つか、民族として滅亡するかと云う決死の覚悟の下に開戦したはずです。降伏する事など毛頭考えていなかったはずです。それを新型爆弾が広島や長崎に投下されたり、ソ連が参戦したりした程度で敗戦するなど私には愚の骨頂としか思えません」
畑中少佐は尚炯々とした目付きで自説を述べ続ける。それを目の当たりにし井田中佐は先程の芹沢鴨とのやり取りもあってか、敗戦を受け入れた己の決意が若干揺らぐのを感じた。一度は諦めたポツダム宣言受諾阻止の願望が目の前にいるこの男と芹沢鴨によって呼び覚まされた気分だったのである。井田中佐は酷く逡巡してしまった。ただ逡巡しつつも廃墟と化した帝都の有り様が井田中佐の頭を冷静にさせたのであろう、現在の大日本帝国が置かれている実状を畑中少佐に告げた。
「しかしな畑中、陛下の御聖断が下って以降政府と軍部はポツダム宣言受諾に向けて一丸となって動いているし、もう間もなく連合軍にもポツダム宣言受諾の旨が外務省から通知されるだろう。そんな状況でクーデターを起こしてどうなると思う?この危急存亡の秋(とき)に徒に騒擾を起こしてしまうような事はすべきではないであろう・・・・」
「井田さんはクーデターの不成功を堅く信じられているようですが、近衛師団との連絡は私がしっかりと付けてきました。後は実行するか、しないかだけなのです」井田中佐は畑中少佐の熱意に押されながらも既にクーデター計画の実現については皆目信じていなかった。阿南陸相が陛下の御聖断を受け入れた以上帝国陸軍は一致団結して降伏へと向かうであろう。その中にあってクーデターを起こす事など時化の大海へ筏で乗り出すようなものである。行うだけ無駄と云うものであろう。
「畑中よ、お前の至純と至誠だけは認めてやるよ。ただ俺はクーデターには参加はしない。そしてお前の邪魔もしない。俺はどうせ今日限りの命だからな」
それを聞き畑中少佐はしょげ返ったが、間もなく井田中佐に背を向けて歩き去った。その後ろ姿を見て井田中佐は自分の意思を伝えられた事もあって少し安堵したが、気になる事もあった。それは畑中少佐が告げた「近衛師団との連絡は私がしっかりと付けてきました」と云う言葉だった。一体今近衛師団で何が起きているのだろうか、とも思った。まさか畑中少佐はクーデター計画を近衛師団長に打ち明けその了解を取った訳ではないだろうが、一抹の不安が井田中佐の頭に過ぎるのだった。そんな井田中佐は自身の頭を落ち着ける為にも芹沢鴨ともう一度語り合いたい気持ちになったので地下防空壕へと戻った。
一方近衛師団では一つの異変が起きていた。近衛師団の関係者でなければ入室出来ない参謀室に陸軍航空士官学校第一生徒隊第三中隊区隊長の上原重太郎大尉と陸軍士官学校附の藤井政美(まさみ)大尉がいたからである。上原大尉は十二日に連絡将校として近衛師団を訪ねた際に近衛師団の古賀秀正参謀と出会い、彼が畑中少佐ら陸軍省の青年将校と共に練ってきた当初のクーデター計画を打ち明けられ、それに賛同したのであった。一方藤井大尉は元々近衛師団第一大隊出身であった為不穏に思われた陸軍中枢の動静を確かめたいと思い、この日近衛師団を訪ねていた。二人は初対面ながらも相通ずる所があり、どうやら上原大尉はクーデター計画を藤井大尉にも打ち明けた模様でもあった。本来の参謀室であれば近衛師団の関係者以外の軍人がいる事自体が異例なので、周囲の注目を浴びるはずなのだがこの日は芋を洗うように人が入り詰めた為不審の目で見られる事もなかったようである。
さてその頃首相官邸では村瀬法制局長官も閣議に参加させた結果ポツダム宣言の受諾に当たっては枢密院の諮詢は特に必要としない、と云う結論に至った。今まで全閣僚の間で張り詰めていた緊張は一気に解けた。阿南陸相もそれを聞いてなんら不満はないようである。そして議題は終戦詔書案の字句検討へと入っていった。
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