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5.先生

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「ああ、先生。コイツ、うちでもこんな感じなんです。人間のことをよくわかっていそうというか。どこかで飼われていたんじゃないかなと思って色々なSNSも検索してみたんですが迷い猫の記事とかなくて……先生のところにはそういう情報って来てないですか?」
「うーん、保護団体からもそういう話はきていないと思いますね。でももう一回私の方からもそちらに確認してみますよ」
 
 先生はそう言いながらも一応情報を書き込んでいるのか手帳をパラパラとめくっていた。不思議な先生だ……と村瀬は思う。自分なら時間外に仕事が舞い込んで余計なことを聞かれれば嫌になるだろうが、この先生は嫌がるどころかニコニコと本心からのような笑顔で接してくれる。自分にも猫にも分け隔てなく。仕事が本当に好きで苦にならないのか……それともただただパワフルで根っからのいい人なのか、村瀬にはとんと想像もつかない。

「先生は……いつ休んでいるんです?」

 気がつくと村瀬の口からポロリと言葉が漏れ出ていた。本当に無意識だったから途端にしまったというような表情になる。
 それを見た先生はクスクスと笑いながら答えた。

「やだな……私が不眠不休で仕事してるとでも? 昼の診療のメインは父ですよ。私は昼は勉強兼ねてたまに補佐。夜間対応は私がやりたくてやってる感じで、手に負えなさそうなら父に連絡しますけど基本夜は一人ってとこですね」
「あ、そういう……なるほど……」

 先生の父親だという大先生はこの辺りじゃかなり評判のいい人で、この動物病院の評判がいいのは私ではなく父の功績ですよと先生は言う。それを聞いて村瀬はこの先生だって遠からずそうなるだろうと考える。血筋なのか家庭環境なのか、こんな人達がいるんだなぁと別世界の人間を見るような気持ちでもいた。
 
「むしろ、私は村瀬さんの方が気になりますけど……ちゃんと休んでます?」
「え?」
「ちゃんと食べて寝ないと駄目ですよ? 専門は動物だけど、人間だって動物だから調子悪そうなのはわかりますからね」
 
 ふいに自分へと移る話題に居心地が悪くなってきてしまう。村瀬も人には社交辞令のように『お身体大事にしてください』などと言うことはあったが、そういう自分は身体を労ることなどしてなかったし言われ慣れてもいなかった。先生が社交辞令でそれを言ってるのが丸わかりならばむしろ良かったのに、心底心配しているような顔をされたからこそ居たたまれなくなったのだ。
 
「いや……そんなたいしたことでは……」
「にゃー」
「ほら、猫ちゃんに心配かけないためにも。ね?」
「ええ……まあ……はい」
 
 猫はじっと村瀬を見ていて、先生との会話に合いの手を入れるかのように鳴いたものだからつい村瀬も頷いてしまった。先生はそれを見て自分が学生のときにやっていた簡単で美味しくて安くあがる料理なんかも教えてくれた。安物の電子レンジと冷蔵庫くらいしかないことに驚いてはいたが、とりあえずでやって見るなら100円均一ショップでも調理器具は買えますよとまで言ってくれる。眉をハの字にしながら愛想笑いを浮かべる村瀬を見てそれ以上は言わなかったが……。
 
「あ、それはそうと、先生。トイレとかケージっていつまで借りていていいのでしょう?」
「その子が元気になるまでいいですよ。今は預かる子あまりいないし、一時的に使うものに出費はきついんでしょう? 自分のうちの子じゃない子の治療費出す村瀬さんに免じて、ね」
「すいま……あ、いえ、ありがとうございます」
 
 この先生には謝るよりお礼を……そう思って言い直す。そんな村瀬の様子を先生はニコニコと見ていて、さらにその様子を猫がじぃっと見ていたのだが当の村瀬はこれっぽっちも気づいてはいなかった。
 先生は村瀬の帰り際に迷い猫の知らせがあれば連絡しますねと言ってきた。村瀬が日中はまず連絡は取れないと返すと、「それじゃあメッセージかメールで」とカルテに書いた連絡先以外の手段を聞いてきて戸惑う。そういうのを教えたのはあの辞めた同期くらいだったから。
 
「私は……そういうのも苦手で……」
「何言ってるんですか。猫ちゃんのためですよ」
「あ……そうですね」
 
 電話が取れないからメッセージを送る。猫を探している人が見つかったらいち早く教えてくれるため。ただそれだけのことなのに、何を自意識過剰なと村瀬は一人猛烈な恥ずかしさに襲われたのだった。
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