パラダイス・オブ・メランコリック

杙式

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五 因果の糸

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 けいは廃ビルの階段を駆け上がっていた。
 雨が降り始めており、雨音がビル内に響いているだけではなく、内樋うちどいから漏れた水が室内にも滴っている。
 廃ビルであるため電気は通っていなかったが、あたりの明かりがガラスのほぼついていない窓から差しこみ、薄暗いが見渡すことは可能だ。

 繁華街からほど近いこの六階建ての廃ビルには、以前はテナントや怪しげな消費者金融が入っていたが、建築基準法を満たしていないということで取り壊しが決まっている代物だった。
 しかし、オーナーが取り壊し費用を惜しみ、出入り口に立入禁止の表示をしたまま長らく放置されていた。

 慧は階段を見上げる。
栄光グロリア』とみずから名乗る女売人は、まるで誘いこむようにこのビルに入っていった。
 わざとらしく階段を見下ろして姿を見せると、最上階で姿を消したのだ。

 十和とわは捕まえた中毒者を警察官に引き渡すために足止めを食らっていた。
 慧はいま一人だった。
 十和は深追いをするなと言っていたが、聞いている場合ではなかった。
 グロリアは指名手配されながらも、捜査の目をかいくぐってきた大物だ。
 やっと手が届こうとしているのだ。ここで臆するわけにはいかない。

 六階分の階段を上り終えると、ドアもないコンクリート剥きだしの部屋でグロリアが立っていた。

 ビュスチェのような黒いレースの上着にピッタリのジーンズを履いたグロリアは、サングラスをしているものの街なかを歩いていればひと目を惹くだろう美貌とスタイルの持ち主だということは明らかだった。
 わざわざこんな世界に足を踏み入れずとも、別の世界にいくらでも生き場所がありそうだ。

「グロリア! もう逃さない! おとなしく捕まれ!」

 慧が銃を構えながら、グロリアに近づく。

「雨って大好き」

 焦ったようすもなく、舌っ足らずな高い声でグロリアが呟いた。

「憂鬱で暗くて世界を涙色にしてくれるの。とっても素敵。だってだれかの涙なくしてはだれかの幸福は成り立たないもの。そうは思わない?」

 不愉快を隠すことなく慧は吐き捨てる。

「下衆が」

「だけど、それが世界の真実よ。世界の幸福と不幸は天秤で測れば水平になるって決まっていて、だれかが不幸になればだれかが幸福になるの。そして、あたくしはいつも幸福の盃だけを美味しくいただくの」

「おまえは自分の幸せのために、他人に不幸を味わえと言うのか」

「あら、そんなことは言っていないわ。ただあたくしは欲しいものはなにをしてだって手に入れるべきだと思うってだけよ。だって、条件のいい男に選ばれるものもいれば選ばれないものもいる。お金を集めるものはそのお金を使って貧乏人からより搾取する。権力のあるものはそれを行使することでより高みにのぼろうとする。皆、だれかがだれかを蹴落としてなにかを手に入れているの。それは世界の摂理よ。この世界が平等であるべきだなんていうのは、弱者の戯言じゃない」

「だからおまえは薬をばらまくのか……!」

 くすりとグロリアは愉快そうに微笑む。

「それはそれよ。だって世界があまり平穏だと退屈でしょ」

「貴様、そんなことで! ふざけるなっ!」

 慧の拳銃を握る手に力がこもる。
 いまにも引き金を引こうとする。
 だがグロリアは余裕の微笑を浮かべている。

「ねえ、あなた、気づいていて? あなたはすでにその水溜りに足を踏み入れていることを。きちんと、気づいていて?」

 はっとして慧は足もとに視線を落とす。
 確かに慧の靴は水溜りに浸かっていた。
 そして、その水溜りはグロリアの足もとの水溜りにつながっている。
 慧は水溜りから足を引きあげようとするも、すでに遅く、足に水がまとわりつき動かせない。

「ただの取締官風情が銃を振りかざしたくらいで、あたくしを捕まえられるわけがないじゃない」

 グロリアが低く囁いた。
 それはゾッとする響きを持っていた。
 慧は銃を撃とうとする。
 だがそれよりも早く、水溜りが勢いよく隆起する。
 水は波打ち、慧を呑みこんだ。

 ゴポリッ、慧の口から空気の泡が漏れる。
 慧は水を払おうと手をばたつかせるものの、払えるわけがなかった。
 水柱のなかに慧は閉じこめられていた。
 息が苦しい。

 はさみを――。
 アイテールよ、出ろ!

 慧は念じる。
 だが、これまで自在に操ってきた鋏はうんともすんとも言わない。
 その輝きの兆しすら顕れない。

「だから雨って好き。水溜りができていてもだれも疑問を持たないもの」

 グロリアがヒールの音を響かせて慧を呑みこんだ水柱に近づき、それに触れた。

「あなたはどのくらいで息絶えてくれるかしら。アイテールの欠点をあげるとするなら、触媒カタリストとアイテールの一部が接触していないといけないってところよね。おかげで、あなたが死ぬまであたくしはここに足止めよ」

 慧はグロリアに銃を向ける。
 だがトリガーをいくら引いても弾はでてこない。

「無駄よ。無駄だとあなた自身わかっているでしょ。アイテールの幻想に合わせてあなたの無意識がトリガーを引くことを阻み、アイテールの幻想に合わせて弾が出てこないという現実を脳がつくりだすの。アイテールとはそういうものでしょ」

 慧は銃を投げ捨てる。
 水柱のなかで銃が浮かぶ。
 そのとおりだった。
 アイテールに対抗するにはアイテールしかないのだ。
 そんなの最初からわかっていることだ。
 慧は自分のてのひらを見つめる。

 出てこい。
 出てくるんだ。
 頭のなかに金色の鋏を描く。
 だが、いつまでたってもてのひらにいつもの重量を感じることができない。
 金属の輝きも感じられない。
 いま、出てこなければ――。
 息が苦しい。
 焦りが湧き上がる。
 意識が朦朧としてきている。
 このままじゃ――。

 慧の背筋は寒くなる。
 暗い底の見えない穴が大口を開けてすぐそこまで迫っているような予感。

 つぎの瞬間、慧が感じたのは純然たる恐怖だった。
 そしてそこから逃れたいという本能だった。

 慧はあがく。
 まとわりつく水を払おうと、手脚をばたつかせ、無駄な努力をする。
 無論、そこになんの効果もあるはずもなく、慧はむせるように口の中に残っていたわずかな空気を吐き出してしまう。

 意識が遠のいていく。
 暗い闇に引きずりこまれながら、慧は願ってしまう。
 だれか。
 お願い、だれか助けて――。





         *





 ――ねえ、魂ってなんだと思う?

 ――急にどうしたんですか、先生。

 ――むかしのひとは魂が抜けるイコール死だって思っていたわけじゃない?

 ――はあ……。

 ――ミトコンドリアってヒトが死ぬとその輝きを失うって知ってた?
   そこからミトコンドリアが輝いているかいないかでヒトの生死を判別しようって動きもあるのよ。

 ――それがどうしたんです?

 ――鈍いわねえ。つまり、わたしが言いたいのは……。
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