パラダイス・オブ・メランコリック

杙式

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十 葬送の蝶

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 宵闇のなかで黒い霞のようなものが低音をとどろかせて川崎埠頭かわさきふとうの廃工場を呑みこんでいく。

 倉庫の見回りをしていた警備員は、不気味な音を引き連れて、みるみるうちに膨れ上がり近づいてくるかすみを目の当たりにし、職務を忘れ、本能的に逃げだした。

 背筋は寒くなり、冷や汗がにじんでいた。
 ライトバンに駆けこみエンジンをかけると、震える手をハンドルに押しつけるようにして、すぐさま発進する。
 遠ざかる黒い霞をバックミラー越しに見て、安堵のため息をついた。

 ブーン。

 不愉快な音に、警備員は眉をひそめる。車内にははえが一匹入りこんでいた。
 いや、だが、見回すと一匹どころではない。
 気づくと何匹も何匹もどこから入りこんだのか飛び回っている。

 はっと警備員はカーナビゲーションのモニターを見つめる。
 モニターには蝿がびっしりとうごめいていた。
 そこからつぎからつぎへと蝿が飛び立っている。

「な、なんだこれ!」

 警備員は叫ぶと同時にブレーキを踏みこみ、ライトバンを飛びだす。

 たかる蝿を手で払いながら、ふと空を目にした警備員は凍りついた。

 太陽が沈んだばかりの西側はわずかに淡紅色で、それを青紫の闇が包みこむ美しいはずの黄昏時たそがれどき
 だがそこにあるのはそれだけではなかった。
 異質な黒い霞が都会のビル群を中心に拡がっていっている。

「なにが起きているんだ……?」

 立ち尽くす警備員の耳もとで追い払ったはずの蝿がうなった。





けい…ちゃん……」

 鹿妻かづまは自分が見ているものが信じられずにいた。
 喪服もふくのような黒いスーツに黄金色きんいろ諸刃もろははさみを手にする、その人物。
 まるでなにごともなかったかのように、大きな鋏を振り回していたが、たしかに鹿妻はこの手であの心臓を撃ったのだ。

「なぜ……慧ちゃんが……。まさか……」

 三つのタンクが決壊したことで工場内にはミセリコルディアとあかねのアイテールで満たされていた。

 慧はそれらを一刀両断し軽やかに立っている。
 鹿妻は背後を見ると、分断された蝿とミセリコルディアの壁がまるでモーセの奇跡の再現のようにしてそびえていた。
 鹿妻と茜と慧はその波間に取り残されたようだ。

「ひいっ、ひっ……ひぃ……」

 茜が引きり笑いにも似た声をあげる。

 つぎの瞬間、茜が浸かっているミセリコルディアの水溜りから蝿の大群が飛びだし、慧に向かって突っこむ。

 慧の金色の鋏は輝かんばかりだ。
 無造作にそれをブンと振る。
 金色の半円の軌跡を追うように、ミセリコルディアの壁から瑠璃色の飛沫しぶきがさざめきたって舞い上がる。
 またたく間に、それらは金の小さなとげのような鋏となり、突進してくる蝿を迎え撃つ。

「この攻撃……!」

 まるで舞を舞っているかのように慧の動きは優雅だ。
 その動きに連動し出現する小型の鋏は、突き刺した蝿とともに散っていく。
 茜はそのたびに小刻みに震えた。
 わずかながらダメージを受けているのだ。

 鹿妻は眉をひそめる。
 工場の天井付近を飛び回る蝿はまだ多くいるものの、このままでは慧にダメージを与えるのは難しい。
 ミセリコルディアが満ちてしまったこの空間では茜だけではなく慧にも力を与えてしまう。

 そして、それはすぐに証明される。

 舞を舞う慧はそれに飽きたかのようにピタリと動きを止めると、手にしたアイテールの鋏をミセリコルディアの壁に突き刺す。

「まずい」

 片方のミセリコルディアの壁が金色に発光する。
 それは壁一面で起こり、壁からはいくつもの金色の鋏が出現した。

 鋏は整列するように諸刃の刃を輝かせている。
 と、一斉に壁を飛びだし、蝿を切り刻み始めた。

 空間を黒く埋め尽くすほど大量にいた蝿は、瞬く間に消えていく。

 慧の温度のない視線がこっちを向き、鹿妻は息を呑んだ。

 金の鋏が茜と鹿妻に向かって四方八方から飛んでくる。
 逃げる時間はなかった。咄嗟に鹿妻は茜に覆いかぶさる。

 風を切る音とともに鋏は蝿の入り口となっていたミセリコルディアの水溜りにつぎつぎと突き刺さる。
 茜と鹿妻は気づくと鋏のおりのなかにいた。

「あ、ア、あ……あ゛あ゛あああああああああああああああああああっ!!」

 茜は目をき、つんざくような叫び声が上げた。

 その腹がぼこりとへこむ。
 それは黒い穴だった。
 そこから入り口を失い、行き場を失ったアイテールが地鳴りのような音とともに茜から噴きだす。

「ぐわっ!」

 鹿妻自身も直撃を受け、低くうめいた。
 土砂がぶつかってくるような感覚と痛みだ。

 しかし圧力は不意に止む。

 茜ももう叫んでいなかった。
 鹿妻はきつく閉じていた目を窺うように薄っすらと開ける。
 鋏の檻は消え、代わりにそこには慧がいた。
 慧は茜の腹に鋏を突き立てていた。
 攻撃ではない。
 茜のアイテールがそれ以上噴きだすのを阻止しているのだ。

 茜の体の内側がほのかに輝いた。
 その光は蝋燭ろうそく灯火ともしびのように最初は頼りないものだった。
 だが、伝播するようにつぎつぎと灯り、静止していた蝿のアイテールはその光に呑みこまれるように姿を消していく。

 ふと見渡すと、あたりは白い光の球体で埋めつくされていた。
 それらの球体は、ミセリコルディアの瑠璃るり色の壁にぶつかっては数を増やし、光の球体同士でぶつかりあうと弾け、細かくなり、煙り、まるで霧のように辺りを曖昧あいまいにしていく。

 茜は眠るように倒れていた。
 その腹には穴はなく慧の鋏も茜自身のアイテールもない。
 慧はその白い手を取ると、茜は目を覚まし、慧の助けを借りて立ち上がる。

 茜はまるで在りし日のように健やかな肌艶を取り戻していた。
 頬はピンクで、目は輝いている。
 そして、不意になにかを見つけると、ゆっくりと走りだした。
 覚束おぼつかない足取りはいつしかしっかりとしたものになり、速度をどんどん上げていく。

 鹿妻は霧の向こうに男女の姿を見つける。
 茜はその男女に抱きつくと、霧のなかに姿を消した。

「これは……なんだ…………?」

 瑠璃色の輝きと白い光に包まれて、自分自身の形もわからなくなりそうだと鹿妻は思う。

「随分、詩的だね」

 口に出していないのに、まるでその思いに応えるような台詞だった。

 鹿妻は振り向く。

「そろそろ十分経ったかな」

十和とわ

「慧ちゃんの鋏は運命を断つ鋏だ。僕はそれがずっとうらやましかった」

 鹿妻は思い至り呟いた。

「十和のアイテールか」

 ミセリコルディアの壁はつぎつぎと白い球体に変化する。
 すぐ側に立っていた慧も形を崩して消えていく。
 それはまるでなにかがもろくもちるさまにも、花びらが散るさまにも似ていた。

 霧が濃い。

 ふと、鹿妻の耳もとに声が届く。
 だれかの笑い声だ。
 その笑い声は豪快で、心の底から笑っているのだと伝わる。

 そして目の前に人影が出現する。

 あの人だ。

 それは鹿妻に迫り、そして通り過ぎる。

「待ってくれ」

 思わず追いすがる。

 気づくと鹿妻は暗い研究室にいた。
 人気はなく、電気はついておらず廊下の明かりでわずかに室内が見える。
 それもそのはずだ。この研究室は閉鎖が決まっていた。

 だがだれもいないはずの研究室で微かに物音がした。

 明かりをつけると、白色蛍光灯が照らす下には茉莉まつりがいた。

「茉莉さん、なにをしているんですか」

 茉莉は心底驚いた顔をした。
 だがすぐに表情を変え、いたずらが見つかった小学生のように舌をだす。

「失敗したなあ。まだ残ってたんだ悠一朗ゆういちろう

 鹿妻は茉莉の手に握られている物体を見て、思わずその手首をつかんで問い詰めた。

「これを……! どうするつもりですか! 見つかったらあなたはただじゃ済まないんですよ!」

 茉莉は真剣な眼差しで鹿妻を見つめ返した。
 その目の下のクマはもう何年も取れていないどころか、最近は苦悶くもんを表すようにより一層濃くなっていた。

「見逃してくれ」

 一言そう告げる。

「だけど」

「明日にはキーが変えられる。そうなればもう手に入れる機会はない。これが最後のチャンスなんだ」

 茉莉は思い詰めていた。
 何年も一緒に過ごしてきた鹿妻はそれを痛いほど知っていた。
 だからこそこれから茉莉がなにをしようとしているかも鹿妻にはわかっていた。

「成功する可能性は低い」

「それでもけたい」

「あなたにはまだ研究者としての道がある」

「息子の道を閉ざしてなにが研究者か」

「あなたなら他の方法だって」

「他の方法ってなんだ! わたしは命を懸けてここまでやってきた! それがこのザマだ! このザマなんだよ!」

 苛烈かれつなほどの茉莉の瞳に射られて、鹿妻の茉莉の手首を握る手に力が入る。
 決心を固めたこのひとを変えることなんてもうできないだろう。

「だったら……」

 鹿妻は一歩茉莉に近づいた。

「一度でいい。俺のものになってください」

「はあ?」

 思わぬ申し出に、茉莉は素っ頓狂な声を上げる。

「なんの冗談だ。こんなおばさんになんの価値があるっていうんだ。第一、悠一朗は女に困ってないだろう」

 一瞬言葉に詰まる。
 そんなことはないと叫んでしまいたかった。
 いつも焦がれて喉が焼きつくほどにあなたが欲しかった。
 どんな女もあなたの代わりにはならなかった。
 忘れたいのに離れられず、気づくとそばにいることを選択してしまっていた。

 だが鹿妻は本心を告げなかった。

「そうです。こんなのただの遊びです。酔狂すいきょうです。あなたは愛する人のために愛する人を裏切るんだ。それが俺があなたに求める代償です」

 茉莉は絶句していた。
 見たこともない奇妙な生物を初めて見たような目で鹿妻を見ていた。

「悪趣味だ」

「命だって懸けられるんだ。こんなこと平気でしょ、

 茉莉は力づくで鹿妻の手を振りほどく。
 心底軽蔑した目で鹿妻を睨みつけながら、わかったと静かに告げた。
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