金色の恋と愛とが降ってくる

鳩かなこ

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0.夜に浮かぶ船

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 あそこは、なんて遠いのだろう。

 
 あゆたはTシャツのむき出しの腕に汗で貼り付いた落ち葉を払った。
 夜の中に光を投げかける大広間の窓たちに、真っ暗な海に浮かぶ豪華客船が思い浮かぶ。掃き出し窓に陽炎のように過ぎる影絵。秘密の紳士倶楽部のようにアルファたちが集っている。広間の灯りはきらびやかな蜃気楼のように、湿気を帯びた夜気にちらちらと瞬いていた。


 すでに強くなりつつある風は枝の間をすり抜ける。唸り声のようなそれが顔に吹き付けてくる。
 嵐が来る。
 あゆたは夜の底から空を見上げた。


(早く済ませてしまおう)


 一瞬でも目をやってしまったが、あそこはあゆたとは関わりのない世界だ。


 同じ敷地内ではあるが、あゆたが寝起きしているのは小さな離れだ。まるで人目から隠されるようにひっそりと、うっそうとした木々に囲まれた庭の端にある。この屋敷に引き取られて三年ほどが経つが、あゆたが母屋に上がったのは数えるほどしかなかった。


 夜会の灯りに背中を向けて、あゆたはさっさと手を動かした。薔薇の茂みを這わせてある支えを確認し、緩んでいるところは結び直す。鉢植えはすべて壁際か、庭の小屋に避難させなければならない。


(サンルームは……、誰かが気を付けてくれるはず)


 庭に張り出したガラス張りのサンルームの中の、鮮やかな花々を思い浮かべたが、あゆたはすぐに気を取り直して作業を続けた。ガラスが割れるかもしれないなどと気を回しても、あゆたがのこのこと母屋に近づくことを住人達は喜びはしない。そのくらいあゆたもわきまえているし、たくさんの使用人たちがいるのだから、彼らに任せておけば問題ないだろう。

 
 夜の八時を過ぎて気温は下がったはずなのに、汗がじんわりと背中を濡らす。鉢植えを抱えて往復しては額を拭う。
 明日には大型の台風が来るというのに、今夜広間に集まった人々はパーティーに興じている。その名を聞けば一度はどこかで耳にしたことのあるはずの、名だたる大企業や元華族、財閥の関係者たち。早々たる面々だ。日々の雑事に煩わせられることなんてないのだろう。


 夜会にはアルファしか集まっていない。アルファには独自の繋がりがあり、ああやって定期的に集まっては親交を深めているという。情報交換や知己を増やす意味もあるだろう。横糸も縦糸も様々な色で織り合わされてネットワークは繋がっていく。
 オメガであるあゆたには全く関わりのない世界がそこにはある。


(あそこにいる人達は俺とは生まれも育ちも全然違うんだ。そんなことより……)


 あゆたはきょろきょろと目を凝らした。大広間に面した石畳の緑廊に、最後の植木鉢を見つけて駆け寄る。


(これで最後だ。これで台風が来てもなんとかなる)


 ほとんど毎日、週末や祝日は終日庭の世話に明け暮れているあゆただ。庭への情熱と愛情は人一倍だと自負している。できる限りの備えはしておきたかった。


(離れに持って行こう。玄関の土間に置いておきたい)


 両腕を回してひとと抱えもある大きめの鉢には、まだ綻んでいない薔薇の蕾が白っぽく夜に浮かんでいる。これはあゆたも、あゆたの師匠である庭師もことさら気をかけている薔薇だった。
(大旦那さまの大事な薔薇だ)
 今年も綺麗に咲かせてやりたい。そしてあゆたがその一輪を墓前に供えるのが、大旦那様を亡くして以来の毎年の習慣だった。


「……なんだ?」


 あゆたは不意に手を止めた。
 どこかで、嗅いだ覚えのある匂いが鼻先をかすめた。
 まるで夜の闇に漂う蛍の光のように、かすかな。
 かすかに甘く、瑞々しい香り。
 ――まさか、フェロモン?
 招待客はアルファばかりだ。
 あゆたは血の気が引きそうな気持ちで、植木鉢を抱えていた腕に力を入れた。


 急いでここを離れたほうがいい。これが残り香だとしたら、ついさっきまで誰かが夜陰に紛れてここにいたということになる。酔い覚ましに外の空気を吸うぐらいならいい。ここが逢引の場所だとしたら? 酒の勢いか華やかな雰囲気に酔ったのか、一晩のアヴァンチュールを求める奔放な人間がいてもおかしくない。


 そういう意味で、誰かがここに現れたら。
 よくわからない冷たい手に背中を撫でられたように、急にあゆたは恐くなった。ぼんやりつっ立いる場合ではない。縺れそうになる足を叱咤して、あゆたは小走りに庭の闇へと身を沈めた。
 

 暗闇に紛れるほど、自分の存在が希薄になって安心できる。灯りは遠のき、強い風にあの匂いも吹き消されていく。


(……あれは、甘い)
 すごい勢いで懐かしさがこみ上げてきた。祖母のお気に入りの石鹸に、これとよく似たものがあった。
(……なんだったっけ……、ウォーターメロンの香り、だったっけ……)
 口の中にかすかに唾液が湧く。走ったせいだろう、心臓が、先ほどとは違うテンポことこと走り出す。


 暑い夏の、井戸水の中で冷やされたスイカ。それよく切れる包丁でさくりと切った、あの時の胸のときめきに似ている。濡れた赤い果肉に噛みついて頬張れば、口いっぱいに広がるみずみずしさ。甘い汁が喉を潤すだろう。 
 スイカはあゆたの好物の一つだ。キュウリのような、しかしそれよりもずっと水っぽい甘さを含んだ果実。


(そういえば……)
 いつだったか、育ててくれた祖母が言っていたっけ。
 あゆたのあゆは香魚のそれ。
 香魚の由来はキュウリのような瑞々しい、さっぱりとした香りにあるのだと。


 背をむけた母屋の窓は海上の豪華な客船のようにちらちらと灯りが揺れる。あゆたは夜の茂みをかきわけて進んだ。
 一歩でも、一秒でもあそこから離れられるように。
 あのきらびやかな灯りの下に何か――誰か、恐ろしいものが潜んでいるかのように。
 あゆたは怯える小鹿のように足を速めた。まるで後ろからあの匂いが追ってきているかのようだ。あゆたは腕にぎゅっと力を込めて大旦那様の愛した薔薇の鉢を抱いていた。


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