金色の恋と愛とが降ってくる

鳩かなこ

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2.出会い頭のアクシデント

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「そろそろ帰るか……」

 独り言が妙に響いた。
 あと少しで用務員が戸締りを兼ねて校内を見回る時間になりそうだった。
委員会に遅れてくるかもしれない、という儚い希望はなくなった。さすがにあゆたも今日は来ないのだと諦めもついた。
 通学鞄に荷物を片づけ窓の施錠を確認する。室内を見回しきれいに整頓されているのを確認して、あゆたは引き戸に手をかけた。


「――え?」

 指先に触れた引き手の軽さにびっくりした。
 むこうからドアを開けられたのだ。

「わ、っ」

 ドアに引っ張られるようにして、あっという間に体が廊下側へ吸い込まれた。すぐに鼻面をぶつけた反動で、バランスを崩した足がたたらを踏んだ。びくともしない、まるで壁にぶつかったようだった。弾き飛ばされて、こらえきれなかったあゆたは派手に尻もちをついた。どしんと着地してあちこちが痛かった。あゆたは鼻を押さえた。ぶつけた鼻の奥がつんとして、涙が浮かんでくる。幸い鼻血は出ていないようだった。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 甘みのある、低い声が頭の上で詫びた。声に耳慣れない抑揚があった。あゆたはしょぼしょぼと瞬いた。ぶつけた鼻の根のせいか目がちかちかした。涙目で見上げると、かなり背が高い。

(うわ……いけめんだ……)

 涙でぼんやりしているのに、思わず見惚れそうになった。ネクタイの色で一年生だとわかる。ツーブロックの刈り上げた黒髪と、白い耳の端にかかる明るい色の長めの前髪。垂れ目がちの優し気な目元を、くっきりした眉が引き締めている。

 アルファにしてもオメガにしても容姿端麗な者が多い。この学校も例にもれず、どこを見渡しても様々な種類の美形が闊歩している。ここに編入したばかりの頃、貧相な自覚のあるあゆたはひどく感心した。早い段階であちらはあゆたなんて視界に入っていないのだと気付いたから、今ではまったくの別世界の住人と認識して気楽にすごしている。

「本当にごめんなさい、全然見えてなくて」
 
 淡々とした声だった。語尾に抑揚がある。西の方、関西のイントネーションが微かに聞き取れた。謝っているはずなのに悪びれていない。堂々としている。それが何となくおかしくて、あゆたは不思議と腹も立たなかった。背が高いし前だけ向いていればそうなるだろう。あゆたはオメガとしては背が高い方だが、それでも長身の彼の肩に届くかどうか、という身長差だった。

「らいじょ、ぶ」


 涙でくぐもった返事も通じたらしい。色を抜いているらしい金色の前髪がさらさらと額に落ちて、あゆたを気遣うように身を屈めてきた。

「……だ、大丈夫。大げさに転がっちまったけど」
「いや、こちらも不注意でした。ごめんなさい」
「不幸な事故だったな」
 
 差し伸べられた手にきょとんとするが、手を貸してくれるのだと悟った。紳士だ。節ばった指の大きな手にそっと自分のそれを載せる。彼の掌はあゆたの手を柔らかく包み込んだ。すぐに体がふわっと浮いた。まるで子供を持ち上げるように軽々と、強い力が一気にあゆたを引っ張り上げた。

「いた!」

 立った拍子に激痛が走った。右足だ。

「あ、あれ……?」

 あゆたは右足の違和感に首を傾げた。踏ん張ろうとしてできなかった。体重を乗せると、やはり電のようない鋭い痛みが脳天まで突き抜けた。おもわず縋るように彼の手を握りしめる。どうしようもないほどずきずきと痛みが強くなっていた。体がぶるぶる震えてくる。

「どうかしましたか?」
「足、くじいた……」
「え」 

 ぎょっとしたように彼は絶句した。

「痛くて、歩けない……」

 あゆたはなすすべもなく呟いた。







「しっかりつかまって下さい」

 その後の彼の頭の切り替えは早かった。躊躇なくあゆたの膝裏に腕を回し、ひょいっと持ち上げたのだ。人生初のお姫様抱っこである。
 仰天してあわあわするあゆたをものともせず、弾みをつけて揺すり上げた。一瞬宙に浮いた。あゆたも振り落とされてはたまらないと彼の首へしがみついた。

 小さな振動を感じながら運ばれる。急ぎ足ながら危うげがない。あゆたも観念して、せめて邪魔にならないようにおとなしくした。そうしたら、期せずして彼の肩口に顔を寄せる形になってしまった。

(……いい匂い)

 一般的に、アルファがフェロモンを放っているということは、相手のオメガが発情期中で自分もラットを誘発されたなどの、本能が剝き出しになっている状態だ。不意にオメガのフェロモンに充てられて発情してしまった、などの突発的な事故のようなもののことが多い。抑制剤の発達した現代においては、オメガでもアルファでもフェロモンを駄々洩れにさせるのはマナー違反である。

 しかし、ここまで密着すれば厭が応にも感じられるものだ。
 微かなこれは、彼のフェロモンなのだろうか。
 目を閉じて鼻の奥で息をする。
 初夏の朝の、草の匂いにも似ていると思った。
 
 あゆたが寄りかかってもびくともしない。若木のようにしなやかで強い体躯。出合い頭に跳ね飛ばされるはずだ。骨格がしっかりしている。体幹も強いのだろう。

(どこかで、嗅いだことのあるような気がする……。どこだろう……)

 瞼の裏に夏の青葉が茂り行く。爽やかな風と土の香りを思い出す。瑞々しい香りは、どこか甘味を含んでいる。
神経を刺激する何かを確かめるように、こんなにも熱心に嗅ごうとする自分を訝しんだ。それ以上深く掘り下げないほうがいいという気がしてくる。蝶が花に吸い寄せられるようなそれを誤魔化すように、あゆたは目を開けた。

「ほんとごめん、家庭科室に用があったんだろう?」
「いや、別に大丈夫です」

 放課後に家庭科室に来るなんて忘れ物をしたか、教師に何か頼まれたかしたはずだ。貧相ではあるが百七十強の身長の男を抱き上げたまま、長い足はのしのし歩いていく。遠慮したが、くじいた足首は抱えられている今でも痛いので、本当はとても助かっている。


 誰もいない廊下に急ぎ足の音だけがはたはたと響く。窓から西日が差し込んで影が長く尾を引いていた。遠くでは部活をする生徒たちの声がする。知らない生徒にお姫様だっこ。こんな姿を誰にも目撃されたくない。
「あの、委員長」

 あゆたはきょとんとした。
 美化委員の委員長であるのは確かだが、名乗った覚えはなかった。

「こないだ全校集会で挨拶、してたから。憶えています」

 何で知っているのだという疑問が顔に出ていたのだろう。間髪置かずに彼は続けた。
 確かに学期始め早々、全校集会で常時委員を募集している美化委員の活動の紹介があった。しかしその時は冒頭で委員長と紹介されたきり、説明は副委員長がやってくれたので、まさかそれで憶えられているとは意外だった。

(記憶力がいいんだな。ちょっと挨拶した位の、どうでもいい上級生のこと憶えてるなんて)

 見かけによらず真面目なのかもしれない。西日に金色に光っている前髪に似合わず、大多数には退屈であろう話をきちんと聞いていたなんて。

「そっか。今更だけど、三年一組の鶯原うぐはらだ」
 あゆたは小さく会釈した。
 こちらを見ないまま白い顔が言った。

「ご丁寧にどうも。一年一組の八月一日宮ほづみやです」
「え」

 思わずあゆたは目線を上げた。白い輪郭の喉元あたりが、くくっと動いた。八月一日宮の顔は前を向いたまま笑っているようだった。


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