雨と犬と私

いっこ

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雨と犬と私

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 お母さんと喧嘩をした。理由は些細なことだった。でも、私にとっては許せなくて、この家の空間全てが消えてしまえばいい!と思いながら夢中で家を飛び出した。

 けれど玄関を出て、すぐに『それ』に気付いた。
 ――雨だ。
 ぽつん、ぽつんと、頬に静かに落ちてくる『それ』は大したものではなかったけれど。空を見上げると、今の私の心の中を描いたような、じわじわと広がる濃い灰色の雲が近付いていた。追いかけてもこないお母さんに言いたいことは山ほどあったけど、私は黙って玄関の傘を1つ手に取り、そのまま走り出した。

 毎日見慣れた通学路。けど今日は学校は休みだし、小雨の降る夕方は人通りもなかった。いつもはキラキラ眩しくて足が勝手に前へ前へ進む道なのに、今日の足はいつもと違った。
 知っている家、知っている看板、知っている曲がり角。全てが、知らないもののように見えた。
 ――この看板、こんなに薄汚れていたっけ?
 ――この木、もっと元気だと思っていたけど、以外に細くて弱弱しいな。
 ――この曲がり角を曲がると、いつも笑顔で挨拶してくるパン屋のおばさん…今日はいないな。
 そんなことを考えながら、同じ道を行ったり来たりして、たまにいつもなら曲がらない道を曲がってみたりして、重い足を引きずりながら歩いていた。
 右手には、玄関から無造作に取ってきた傘。茶色くて、傘のふちには白の模様で猫の足跡が描かれている。誰のだろう。こんな傘、いつ買ったんだろう。少なくとも、お母さんの趣味ではない。でも、可愛い。私の好みだ。

 雨は細かな霧のようで、相変わらず優しく頬を撫で続けていた。目を閉じるほど激しくもない。髪が濡れるほど大きな雨粒でもない。なんで傘なんて持ってきたんだろう。そんなことを思いながら歩いていた。けど、あんな雲を見てしまったから。きっとこれから強くなるに違いない。コンビニの傘立てに猫の足跡の傘を置いていきたい衝動を抑えながら、また歩き出した。 
 

***
 

 だんだんと陽が落ちて、周りの景色も暗くなっていった。
 じわじわ、もやもやと大きくなっていた灰色の雲はいつの間にか黒く空全面に広がり、そのまま私に覆いかぶさりそうな重みがあった。これはきっと、お母さんの心の中だ。ずしりと重たくて、逃げたくても逃げられないお母さんの怒りが、あの雲なんだ。

 そんなことを考えていたら、ボトン、と大きな粒が額に落ちた。
 ――雨だ。
 そう思っている間にも、ボトン、ボトンと大きな粒は額や鼻、頬に落ちてくる。見慣れた街並みはモザイクがかかったようにぼやけて、濡れたアスファルトが焦げ臭いような腐った土のような匂いを放つ頃には、前髪が濡れて束状になっていた。
 ――傘をささなきゃ。
 持っていた傘のボタンに手を添える。けど、フと思い留まった。
 ――雨に濡れて、風邪をひいたら、お母さんは心配してくれるのかな。
 私は広げようとした傘をそのまま右手に持って、再び歩き出した。

 そうだ。雨がよく当たる、広い所に行こう。できれば誰もいなくて、世話焼きのおばさんに家に帰るよう注意されないような場所。
 小さな頃から住んでいたこの街を、頭の中で地図にして描いてみる。あんまり遠くへ行くと疲れてしまうから、家からと学校の間くらいで、雨の日は人があまりいない所――そうだ!公園だ!
 私はそれを思いついた瞬間、自分はなんて天才なんだろう!と目を輝かせた。雨が降ればもちろん人はいなくなるし、けど子供がずっとそこにいても不思議に思われない。それに、もしも、もしもお母さんが探しに来たとしても、小さい頃からよく遊んでいたあの公園なら、お母さんだってすぐに思いついて来てくれるかもしれない。
 ニヤニヤしたい口元をぎゅっと抑えて、表情が見られないように洋服の袖で顔を隠しながら、私は公園へ向かった。
 雨で濡れてべちゃべちゃになった靴も、お風呂上りみたいに絡まる髪も、気にならなかった。私は公園へ走った。
 

***

 
 小さい頃は、よくこの公園で遊んでいた。
 小さな家なら1軒たつんじゃないかな、と思うくらいの広さで、砂利と砂が混ざった地面を歩くたびに、クシャクシャと音がした。周りは大きな木が壁を作っていて、門の所から見ないと中の様子はわからない。ただ公園の前を通り過ぎただけじゃわからない、けど門から覗き込めばすぐに見つけてもらえる、最高の場所だと思った。
 
 ここへ来るのは何年ぶりだろう。幼稚園の頃は、毎日のようにここで遊んでいた。小学校にあがると、お友達の家に行くか、この公園に来ていた。お母さんが仕事で遅いとわかっている日は、家に帰らずランドセルのままで公園に来ていた。
 ――今そんなことしたら、変な人って思われちゃうだろうな。
 今、毎日来ているセーラー服はまだ私の体には少し大きくて、袖やスカートの長さが、鏡を見ても不格好に感じる。上着の白い布も汚したくないし、赤いリボンを落としたら大変なことになる。そうやって、私はいつの間にか学校から帰るとまっすぐ家に帰るようになっていた。制服はぶかぶかなのに、毎日、窮屈だと思っていた。

 5段のアスレチックは、記憶の中のアスレチックよりだいぶ色あせていた。昔はもっと、白と赤と青と黄色が眩しくて、てっぺんに登ると春の神様になれた気分だったのに。薄汚れたアスレチックのパイプは、月日のせいなんだろうか。それとも、私が春の神様になれなくなったからだろうか。
 アスレチックの隣にあるブランコも、覚えているブランコではなくなっていた。鎖と木でできていたはずのブランコは、持つ所が足の骨のような金属になっていて、座るところもゴムのように柔らかかった。ブランコの周りを囲っていた小さな柵もなくなっていた。
 ――大きくこいで、そのままジャンプして、あの柵を飛び越えた人が、その日の1等賞だった。
 そんな遊びをしていた時の自分は、毎日泥だらけで帰ってきて、腕や膝は絆創膏だらけだった。女の子なのに、とよくお母さんが怒っていたけど、私は痛みより遊びの方を優先していた。毎日汚れる洋服も、当たり前のように洗濯籠に投げ入れて、次の日の夜にはきれいになっていた。いくら汚しても、次に見る時にはきれいになっている魔法の世界。それが当たり前の毎日だった。
 ブランコの隣には、小さな砂場があった。――あったはずだった。どこにいったんだろう?
 砂場にバケツやシャベルを持ってきて、砂場の近くの蛇口から水を出して、ウサギやお城を作っていた。女の子が多い日は、お団子をたくさん作っておままごともしていた。公園にある、小さな小さな私たちの『おうち』だった。それがなくなった公園は、すごく寂しくて。もうここへは来ちゃいけないよ、と言われているような気がした。
 でも今の私は、この公園を出るわけにはいかない。だって、家には帰らないから。
 
  私が覚えている限りでは、アスレチックの横にブランコがあって、砂場があって、その奥に、2つのベンチが並んでいた。赤ちゃん連れのお母さんが座っていたり、疲れた子がそこで休憩をしていた。木製の、白いペンキで塗られた可愛いベンチだった。このベンチを小さくして、家にあるお人形のおうちに置きたい、なんてワガママを言っていた頃を思い出す。
 でも、その白くて可愛いベンチも、変わってしまっていた。
 2つ並んでいたはずのベンチは1つになっていて、背もたれや座る所は、青いプラスチックにジュースの会社の名前が書かれたものになっていた。あの白いベンチは、どこへ行ってしまったんだろうか。これは私が知っているベンチじゃない。私の知っている公園は、いつの間にかどこかへ行ってしまったんだ――と、やっと気付いた。
 ――なんで、こんなに寂しいんだろう。
 ――私の子供の頃の記憶は、全部夢だったのかもしれない。

 だんだん不安になってきた。ここはどこだろう。私が見ていたと思っていたものは、本当は初めからなかったのかもしれない。なんだか、今の私がすごく汚れているように感じた。このままここにいれば、服も髪もビショビショにしている雨が洗い流してくれるのかな。でも、最近の雨はとても汚いと誰かが言っていた気がする。
 ――ここから出た方がいいのかもしれない。ここは、私の知っている場所じゃない。
 そう思って、公園の門の方へ歩いていった。そこで、初めて気付いた。
 2つ並んでいたベンチはなくなっていたけど、門の隣にもう1つ、青いベンチが置いてあった。そして、そこには私と同じように、頭のてっぺんから足の先までびっしょりの、大きな犬が座っていた。後ろ姿で顔はわからないけど、大きな体なのにとても小さく感じた。
 私は、その犬の横に座ることにした。

 
***

 
 雨はそれ以上強くなることはなく、右手に握りしめた傘を開くタイミングをつかめないまま、犬の横で黙って座っていた。
 真っ黒な犬の毛は、雨に濡れてとてもツヤツヤしていて、冷たそうだけどとてもきれいだった。大きな黒い目が、たまに私の方に動く。けど、それだけだった。
 首から下がっている細くて小さな銀色の鎖も、雨粒でキラキラと光っていた。こんなにきれいなもの、お母さんの宝石箱の中でも見たことがない。

「それ、誰にもらったの?」
「いつから、ここへいるの?」
「寒くない?」
 犬は、返事をしない。でも私は、なぜだかわからないけど、犬に話続けていた。
「私はね、お母さんと喧嘩をしたの」
「私が友達に貰った、大切な手紙を、ゴミだと思って捨てちゃったのよ」
「ひどいと思わない?」
「そもそも、なんで私の部屋に勝手に入ってくるの?掃除なんて、誰も頼んでないのよ」
「お母さんはね、昔から、いつもそうなの」
「勝手に私の空間に入ってきて、私のものを取っていくの」
「ねえ、ひどいでしょう?」
 犬は、やっぱり返事をしない。けれど、黙ったまま、大きい黒い目だけは私を見ていた。黒い髪と黒い目が混じりあって、吸い込まれそうになるけど、すぐ下のキラキラ光る細い鎖が、私を引き戻した。
「今日は、もう家に帰らないことにしたの。私がどれだけ怒っているか、どれだけ悲しんでいるか、お母さんに伝えるには、きっとこれしか方法がないのよ。でも、迎えに来てくれたんだったら、少しは考えてもいいけど…」
 そう口にして、私が下を向いた瞬間、犬は私の顔を覗き込んだ。けどやっぱり、何も喋らない。犬の黒い目と私の目が重なって、そのうち細い鎖も見えなくなって、私が犬になったようなおかしな気分になってきた。
「そんなに見ないでよ」
 私が目をそらしてそう言うと、犬はまた、始めに見た時と同じ姿勢になって、まっすぐにベンチに座り直した。
 公園を囲う木の葉っぱが雨に当たって、パラパラと音を柔らかくしていた。街をさまよっていた時のアスファルトの匂いとは違う、温かい匂いがした。体の芯まで届くような、大きく息を吸い込んだら私も木になってしまいそうな、優しい匂いだった。
 白い制服、硬い道路、大きな機械のような学校の校舎。窮屈だった気持ちがスルリとほどけて、小さな頃の――毎日泥だらけだった自分に戻ったような気もした。

 あの時の私も、この公園の木々のような、柔らかい匂いだった気がする。
 その柔らかくて泥だらけの私を、お母さんはいつもふわふわした温かいタオルでくるんで、すぐお風呂場へ連れて行ってくれた。
 あの時のお母さんは、いつも石鹸の匂いがして、私がどれだけ汚くなっても、すぐにきれいにしてくれていたことを思い出した。

「お母さん、遅いな…」
 ぽつりと吐いたその言葉に、私が一番驚いた。
 何を言ったの、今?

 ――帰りたいの?
「ううん、帰らない」
 ――どうして?
「だって、お母さんは私にひどいことをしたから」
 ――何をしたの?
「私の大切なものを、勝手に捨てたのよ」
 ――どうして?
「どうして?」
 ――大切なものを、どうして捨てたの?
「わからないわ。ゴミと間違えたんじゃないかしら」
 ――どうして?
「それは、たぶん…机の引き出しじゃなくて、じゅうたんの上に置きっぱなしだったからかしら」
 ――じゅうたんの上にあるものは、ゴミなの?
「たまに、洋服も置いてあるわ」
 ――洋服は、捨てないの?
「洋服は、洗濯をするのよ」
 ――洗濯をしないものは、いつもどうしているの?
「お母さんが掃除機をかけて、ゴミにして捨てちゃうの」
 ――どうして、掃除機をかけるの?
「部屋が汚くなるからよ」
 ――どうして、汚くなるの?
「それは…私が、あまり、掃除をしないから…」
 ――お母さんが、代わりにきれいにしてくれているの?
「そうよ。お母さんはいつも、私を…きれいにしてくれるの。部屋も、服も、私の体も髪も…。元気だねぇって、笑いながら、いつもきれいにしてくれていたの」
 そうよ。きっと、今汚れてしまった服も靴も、お母さんは、おうちへ帰ったら、きれいにしてくれる。
 だから私は、安心してここに来れたの…。

 
***
 

「熱は下がったの?」
「うん、もう大丈夫」
 いってきます、と声をかけ、私は真っ白の制服に身を包んで玄関を出た。一昨日の雨は昨日のうちにすっかり止んだけど、その代わり、私は昨日一日中、熱を出して寝込んでいた。お母さんが作ったお粥を食べて、野菜ジュースを飲んで。お母さんが冷凍庫から持ってきた氷枕を頭の下に置いて、ずっと寝ていた。
  おかげで、夜にはすっかり元気になっていた。汗もすっかりひいたからと、おろしたての新しいパジャマをお母さんが持ってきてくれた。そこには、見たことのある猫の足あとがたくさんプリントされていた。
 

***
 

 月曜日の朝は、どこもかしこも人だらけ。
 スーツを着た男の人がバスを待つために、ズラリと並んでいる横を通り過ぎて。
 小さな頃から知っている近所のおばあちゃんたちがお散歩をしていると、「おはよう」「おはようございます」いつもと変わらない毎日の朝。
 曲がり角を曲がると、焼き立てのパンの甘い匂いがしてくる。「おはよう」パン屋のおばさんが笑顔で近づいてきて、「これ、形が崩れちゃったの。みんなでお食べ」そう言って、ふにゃっと曲がったいびつな形のクリームパンを3個くれた。学校へ持っていって、休み時間に友達と食べよう。

 そのまま歩いていると、見たことのある後ろ姿に気付いた。
 一昨日の、黒い犬だ!私は思わず、駆け寄った。
「熱は下がったの?」
「うん。そっちは?」
「私も下がったよ」
「なら良かったね」
「うん。そっちもね」
 たったそれだけの会話だったけど、私も黒い犬も、クスクスと笑っていた。黒い犬の頬には、絆創膏が1つ貼ってあった。
「それ、どうしたの?」
「帰ったら、父親に叩かれた」
「えぇっ、ひどい」
「母さんを心配させた罰だって」
 それなら仕方ないね、と、また私たちは笑った。
 
 学校の門に着くまで、私たちは並んで歩いていた。
 銀色の細いネックレスは、おばあちゃんの形見だということ。
 それをお姉さんが欲しがって喧嘩になって、カッとなって家を飛び出したこと。
 けど行く場所もないから、小さい頃に遊んでいた公園に来てみたこと。
 気が付いたら、学校でよく見る女の子が隣に座っていたけど、話したことがないから何を言えばいいかわからなかったこと。
 耳を真っ赤にしながら、照れくさそうに話していた。
「私も、小さい時によくあそこの公園で遊んでいたのよ」
「うん、知ってる」
「そうなの?」
「毎日会ってたよ」
「そうだったんだ…」
 彼は絆創膏のついた頬をプクッと膨らませて、しばらく下を向いていた。けど、しばらくして、パッと顔を私の方へ向けて、こう言った。
「まだ名前を知らない」
「あ、そういうえば私もよ」
 その言葉と同時に、お互いがカバンの中からスマートフォンを取り出した。
 それを見て、2人で笑っていた。


【終】
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