イールの書〜神々の⻩昏、⼈類の夜明け〜

なぎ

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第1部 2章:検証と追跡

第8話:神話との照合作業

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リンドバーグ教授の研究室は、まさに北欧神話の宝庫だった。

壁一面に設置された本棚には、各種エッダの原典、写本の複製、そして世界中から集められた研究書が整然と並んでいる。机の上には、すでに詩のエッダと散文のエッダが広げられていた。



「さて、本格的に始めましょう」



教授は袖をまくり、イールの書のコピーを机の中央に置いた。その横に、古ノルド語で書かれた原典を並べる。



「まず、大まかな出来事を照合してみます」



賢吾も椅子を引き寄せ、作業に参加した。二人は黙々とページをめくり、対応する箇所を探していく。

一時間ほど経過した後、教授が顔を上げた。



「驚くべきことに、大筋の出来事は一致していますね」



確かに、世界の創造、神々の誕生、アース神族とヴァン神族の戦争、バルドルの死、そしてラグナロク。主要なエピソードはすべて両方に記載されている。



「しかし、決定的な違いがある」



教授は眼鏡を押し上げ、真剣な表情で続けた。



「神話では『なぜ』が曖昧な部分が、この書では明確に説明されている。オーディンが知識を求めた理由、バルドルが死ななければならなかった理由...」



教授は具体例を示し始めた。



「例えば、オーディンの片目について見てみましょう」



詩のエッダを開き、該当箇所を指し示す。



「神話では『ミーミルの泉の水を飲むため、知恵と引き換えに片目を差し出した』とあります。詩的で、象徴的な表現です」



次に、イールの書の該当箇所を開く。



「しかし、ここでは『知識データベースへの生体認証接続のため、片目を接続端子に改造』と具体的です。しかも、痛みを伴う改造だったという詳細な記述まである」



賢吾は身を乗り出した。



「つまり、神話は事実を詩的に解釈したもので、イールの書は事実をそのまま記録したものだと?」

「その可能性が高い」



教授は頷いた。



「他の例も見てみましょう」



教授は次々とページをめくり、比較を続けた。



「トールの槌、ミョルニル。神話では『必ず的に当たる』という魔法の武器として描かれています」



イールの書を確認する。



「しかし、ここでは『標的自動追尾システム』と明記されている。現代のミサイル技術と同じ原理です」

「そして、短い柄についても」



賢吾が付け加えた。



「神話では『ロキの悪戯でドワーフの作業が邪魔された』とありますが」

「イールの書では『安全装置による出力制限』」



教授が続けた。



「完全な形では使用者も危険だったため、意図的に出力を制限した。なるほど、これなら辻褄が合う」



教授の顔に興奮と恐怖が入り混じった表情が浮かんだ。



二人はさらに深い分析に入っていった。ビフレストについて、ユグドラシルについて、九つの世界について。すべてが、イールの書では技術的な説明で置き換えられていた。



「最も興味深いのは、ラグナロクの記述です」



教授は震える手でページをめくった。



「見てください、ラグナロクの描写。神話では抽象的で、詩的な終末として描かれています。世界樹が震え、神々が死に、世界が炎に包まれる」



そして、イールの書の該当部分を示した。



「しかし、ここでは『中継基地撤収時の標準処理手順』とある。つまり定期的に行われる...」



教授の言葉が途切れた。二人は顔を見合わせた。



「定期的に?」



賢吾が聞き返した。



「そうです。これが事実なら、ラグナロクは一度きりの終末ではない。地球外生命体が基地を撤収する際の、標準的な手順。つまり...」

「過去にも行われた可能性があり、そして将来も...」



二人の間に重い沈黙が流れた。

その時だった。

突然、窓ガラスが割れた。

パリンという音と共に、何かが室内に投げ込まれる。床に転がった金属の筒から、白い煙が噴き出し始めた。



「催涙ガス!」



教授が叫んだ。瞬時に、目と喉に激しい痛みが走る。

賢吾は反射的にイールの書のコピーをつかみ、鞄に押し込んだ。涙で視界がぼやける中、教授の声が聞こえた。



「資料を持って逃げろ!」



教授はハンカチで口と鼻を覆いながら叫んだ。



「息を止めて!非常階段から外へ!」



賢吾も上着の袖で顔を覆い、涙でぼやけた視界の中、必死に出口を探した。

ドアを蹴破る音。複数の人間が室内に侵入してくる気配。



「こっちだ!」



教授は窓際の非常口を開けた。外は非常階段になっている。二人は階段を駆け下りた。上から追手の足音が迫る。



「教授、これは一体...」

「話は後だ!今は逃げることに集中しろ!」



三階から一気に一階まで駆け下りる。建物の外に出ると、そこにも黒服の男たちが待ち構えていた。



「あっちだ!」



教授は賢吾の手を引き、大学の構内を走った。幸い、時間が遅いため学生の姿はほとんどない。

二人は建物の間を縫うように走り、やがて大学の裏門から外に出た。そこでタクシーを拾い、教授が運転手に告げた。



「駅まで、急いでください」



タクシーが動き出してから、賢吾はようやく一息ついた。まだ目が痛み、涙が止まらない。



「教授、あれは...」

「詳しくは分かりません」



教授も目を真っ赤にしながら答えた。



「しかし、我々の研究が、誰かにとって都合の悪いものだということは確かです」



賢吾は後ろを振り返った。追跡してくる車はないようだが、安心はできない。



「資料は無事ですか」



教授が尋ねた。

賢吾は鞄を確認した。イールの書のコピーは無事だった。しかし、教授の研究室に残してきた貴重な文献のことを思うと、心が痛んだ。



「私の資料は...また集めればいい」



教授は賢吾の心を読んだように言った。



「重要なのは、イールの書です。そして、我々の命も」



タクシーは駅に到着した。二人は別々の方向に向かうことにした。



「佐倉さん」



教授は真剣な眼差しで言った。



「これは想像以上に大きな問題です。しかし、真実を追求することをやめてはいけません」

「教授は、これからどうされますか」

「安全な場所に身を隠します。そして、可能なら研究を続けます。あなたも、信頼できる場所を見つけてください」



教授は名刺を渡した。裏に、別の電話番号が書かれている。



「緊急時は、この番号に。通常の連絡先は、もう使えないと思ってください」



二人は握手を交わし、別れた。

賢吾は電車に乗り込みながら考えた。

研究室への襲撃。明らかに、イールの書の内容は、誰かにとって公開されては困るものなのだ。しかし、それは逆に、この書が真実を語っている証拠でもある。

賢吾は携帯電話を取り出し、山田にメッセージを送った。



『緊急事態。すぐに会いたい。場所は後で連絡する』



もはや、通常の方法では研究を続けられない。より慎重に、そしてより巧妙に行動する必要がある。

電車の窓外を流れる夜景を見ながら、賢吾は決意を新たにした。

どんな妨害があろうとも、真実を明らかにする。それが、篠田教授の遺志を継ぐことであり、人類の未来のために必要なことなのだから。
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